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躍進するIT産業:インドの可能性と課題(2)

 3. Modi氏の出自と権力掌握

  ーナレンドラ・モディは1950.9.17. 生まれ。父:ダモダルダス、母 ヒラベン

   食料品店店主の3男。グジャラートのウッドナガル村。電気も引かれていなかった。

   3つの小部屋に両親と6人の子供。8人が暮らした。窓も水道もなく。照明は経由ランプ 

  ・父の副業。ヴァルドナガル駅でのチャイ売りを手伝う。

 

  ・植物油を絞ることを生業とするカースト「ガンチ」の出身?(あまり語らず)

   不可触民ほど差別はうけないが、政府により「その他後進階級」

 

  ーMがヒンドゥー教徒の政治家として人生を歩む最初のきっかけは8歳(1958)。はじめて

   民族奉仕団(RSS)の朝の団体訓練に参加。

  ・その後、ヒンドゥー教の瞑想の場アシュラムで修行。1969にグジャラートに戻り、

   叔父と食堂で働いたが、1971 第三次印パ戦争をきかいにRSSの活動を本格化

 

  ・RSSの活動が認められ、Mは1987BJP(インド人民党)に入党。選挙キャンペーンと担当

   アーメダバードの市長選挙でその働きが評価され、当時人民党のトップだったラル・

   キシャンチャンド・アドバニによりグジャラート地区の党代表。その後派閥争いを収拾

   するなどで昇進。インド人民党が勝利した1998総選挙の功績で党幹事長に。

 

  ー1990s後半で国民会議派を上回る勢力。1996選挙で第一党。パジパイが首相に就任。

   はじめてのBJP政権は連立工作に失敗して短命。

   1998の総選挙で再び第一党。「強いインド」を掲げて核実験を強行。会議派がはじめた

   IT振興や経済自由化政策を取り込んで安定政権めざす。

 

  ーそんなBJPの変化を体現する政治家がモディ首相。MはRSSの長い活動を経て党内の

   地位を高め、2001、BJPが政権をとってきたグジャラート州の首相に選出。

 

  ー2001.1.26.、グジャラート州カッチ県で地震発生。M7.7. 都市部直下で被害大。

   死者2万。負傷者16.6万ー政府発表

  ・地震の前年2000、大旱魃がグジャラートを襲い、農業用水と飲料水不足。

  ・危機からの回復をできる人物としてパジパイ首相がMを送り込んだ。

 

  ーところが、首相就任後2002.3,宗教暴動勃発。

   州政府が暴動を放置したとしてMの辞任求める声高まる。Mは辞任。議会は解散。 

  ・さらに苦境。パジパイがMにグジャラートから撤退を求めた。

  ・党中央から支援なく、暴動への対応が批判される中で2000年暮のグジャラート州議会選挙

   M率いるBJPは大勝。イスラム教徒によるテロを恐れる住民、避難民らが暗黙のうちにMを

   支持した?182席中127席の安定多数。Mは第二期目宣誓。

 

  ーグジャラートモデル誕生

   内外から投資を誘致すべくイヴェント「躍動するグジャラート」開催。M自身企業誘致に 

   奔走。Mの指導により大地震から3年で復興。スズキ、フォードなど大手外国企業誘致。

   西ベンガルで住民反対で用地買収が難航していたタタ自動車もグジャラート州に。

 

  ・電力事業改革で停電を大きく減らした。インドでは電力改革は容易でない。農業用電力

   無料の州も。補助金=一種のバラマキ。工業電力高く、農業電力安く→集票のため。

   農業電力の既得権は聖域。不払い者の電力供給停止措置。2003、グジャラート電力法整備

   し、料金体系整え。結果、農村でも電力行き渡り、停電が減った。 

 

  ・グジャラート州チャランカ村、アジア最大のソーラー発電所建設。2012に運用開始。

   発電能力345メガワット中規模の火力発電所なみ。

   

  ーグジャラートモデルの骨子

   1. 強い指導力

   2. 電力などインフラ整備

   3. 経済特区で規制緩和、外資導入

   4. 政治を見える化して改革断行

 

 ーMはこのグジャラートモデルをインド全土に広げようと訴え、総選挙で勝利。首相となった。

 ・M氏がグジャラート州の首相として上記モデルを推進している頃、私は島田塾の有志経営者

  とM氏を州首相の事務所に訪ねた。質素な執務室で熱心に語るM氏の鋭い眼光が印象的。

  

 4. Modi政治とヒンドゥー至上主義

 

 ーRSS(民族奉仕団)の原体験

  ・Mは低位カースト出身、貧しい家庭育ち。

  ・8歳でRSS活動に参加。軍隊式の団体訓練、ヒンドゥー至上主義精神での活動。

   Mの思想と人間形成を深く規定した可能性。

  ・RSSでの活動が認められBJP(インド人民党)入党を認められ、その後のMのキャリアと

   と出世街道が敷かれた。

  ・この原体験はMをヒンドゥー至上主義者として形成?

   

 ーアヨーディア大暴動(1992)

  ・ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の深い対立を象徴する暴動。

  ・アヨーディアはヒンドゥー7聖地のひとつ。16世紀にムガル帝国がモスクを建設する時、

   ヒンドゥー寺院を破壊。1949年、ヒンドゥ教徒の活動家がモスク内にラーマ王子像を設置

   したことにイスラム教徒反発。宗教紛争頻発していた。

  ・1992、20万人ヒンドゥー教徒が集まりモスク破壊。暴動は全国に波及。衝突に

   よる死者2000人。1992とはITが注目され、インド経済が改革にむかって前進開始の時期

   この時期、ヒンドゥーナショナリズムを追い風にBJPは党勢拡大。1998から6年政権。

 

 ー2002.3,宗教暴動

  ・発端は2002.2末、アーメダバード東方、ゴードラー駅、列車炎上事件。

   60人近いヒンドゥー教徒が列車内で死亡。イスラム教徒が放火の噂。それが暴動に発展

   イスラム教徒中心に2000人死者。

   州政府が暴動を放置したとしてMの辞任求める声が高まる。Mは辞任。議会は解散。

 

  ・アメリカ国務省、「宗教的自由に関する重大な違反」に責任のある外国当局者には

   ビザを発行しないという、1998に成立したばかりの国際宗教自由法条項適用しMへの

   発給を停止。

 

  ・暴動への対応が批判される中で2000年暮のグジャラート州議会選挙。

   M率いるBJPは大勝。イスラム教徒によるテロを恐れる住民、避難民らが暗黙のうちにMを

   支持した?182席中127席の安定多数。Mは第二期目宣誓。

  ・この勝利で、Mはインド国民の大多数を占めるヒンドゥーの支持を背景に、強い政治を

   実現できると確信?

 

 ー2019国籍法改正問題

  ・改正国籍法:

    2014末までにインドに不法入国したバングラデシュ、アフガニスタン、パキスタンの

   3ヵ国の出身者のうち、ヒンズー教、キリスト教、仏教など6宗教の信者にはインド国籍

   を与える。それら3ヵ国の多数派であるイスラム教徒は対象外。

  ・2019.12.11. 改正国籍法が上院で可決。

      12.12. 北東部アッサム州で大規模デモ

      12.15. インド全土に大規模でも拡大

      12.19. ニューデリーでネット遮断

      12.27. 少なくとも死者27人。

  ・M政権が昔からの居住者を証明する「国民登録名簿」の作成も全土で検討。  

   全体の8割を占めるヒンドゥー教以外の少数者をさらに排除するとの警戒感。

   モズレムの驚愕と怒り。「何世代も住んでいるのになぜ排除されねばならないのか」

 

Ⅵ.   多様なインドに伏在する問題

 

 1. 多様で複雑なインド

  1)民族的多様性

   ・インドは多くの人種から構成される他民族国家。古代アーリア系を受け継ぐインド人種

    のほかにも、中央アジア、アラブ、アフリカ、東南アジア、中国系など多様な民族が

    インドの人口を構成している。

 

  2)宗教的多様性と宗教対立

   ー多様な宗教と対立

   ・ヒンズー教徒が大半で約8割をしめる。同時に、イスラム教徒が約1.8億人。そのほか

    シーク教徒など数十の宗教の信者。

 

   ・多くの宗教が存在するだけでも、それらの平和的共存をはかるには政治的な知恵と

    指導力が必要だ。

 

   ・とりわけ、インドではヒンドゥー教とイスラム教の対立がはげしい。それは単なる宗教

    対立の問題を超えて、インドが英国の植民地から独立する際の悲惨な経験がトラウマに

    なっているからだ。

 

   ・マハトマ・ガンジーら独立運動の指導者は、インドが多くの宗教を包摂した国家として

    独立することをめざした。

 

   ーインド独立時の惨劇

   ・しかし結局、ヒンドゥー教とイスラム教という宗教の対立が、英国植民政策当局に政治

    的に利用され、イスラム教徒が比較的多く住む現在のパキスタンとバングラデシュ地域

    を分離して現在のインドが独立することとなった(ちなみに、現在のバングラデシュ

    は1971年にパキスタンから独立するまでは”東パキスタン”と呼ばれた)。

 

   ・独立に際してのパキスタン地域の分離が明らかになった時、パキスタン地域に住む多くの

    ヒンドゥー教徒が迫害を恐れてインドに脱出を試み、インドに居住するイスラム教徒が

    パキスタン地域に移動を試みたが、その際、彼らが異教の暴徒に襲われて数百万の犠牲

    者が出たという惨事がインド独立のトラウマになっている。

 

   ー国民会議派の知恵:”Secularism(政教分離)”

   ・パキスタンとはやむなく分かれて独立したインドは、ネルー首相率いる国民会議派

    政権の下に、憲法を制定し、独立国家として出発するが、憲法には宗教と政治の分離

    (Secularism)が明確に謳われた。それはヒンドゥー教とイスラム教の対立を政治に

    持ち込まないための”知恵”であり、上記の悲劇のトラウマを避けるための知恵だった。

 

   ・しかし、それでも現実の政治では、対立はつづき、一般民衆だけではなく、国の指導者

    達もが痛ましい犠牲者になった。

    マハトマ・ガンジーはヒンドゥー教徒に、インディラ・ガンディー首相はシーク教徒に、

    そしてラジブ・ガンディー首相はタミル教徒に暗殺されている。

 

   ーModi首相のヒンドゥー至上主義

   ・そうした深刻な宗教対立と闘争が繰り返されるインドという複雑な国家を、モディ首相

    は多数派のヒンドゥー教徒の支持を結集して指揮しようとしている。

 

  3)言語的多様性   

   ・第一言語としてヒンドゥー語を話す人々が41%、ベンガル語(東部コルカタなど)8%

    テルグ語(南部ハイデラバードなど)7%。さらに各州が公式に認めている言語が22種。

    公式に認められていないが実際に人々が話している言語は1800とも2000とも言われて

    おり極めて多様。

 

   ・インドは英語を話す社会と言われているが、政府の国勢調査(2011)では英語を第一

    言語とする人々は23万人(当時の総人口10億の0.02%)のみ。第二、第三言語として

    の英語をふくめても人口の12%、1.2億人ていど。

   ・一方、インド応用経済研究所NCAERの調査では、英語を流暢に話せるのは4%。一定

    レベル話せて意思疎通可能、20%ほど。4%は5000万人、20%は2億人を超える。

            

   ・インドは司法、立法、行政、ビジネスで、英語はエリート語、共通語として確固たる地位

    司法の世界では「最高裁判所の審理と判決は英語」と憲法で規定。

     

   ・官僚や富裕層の子弟が中心だった英語教育の学校に通わせるのがブーム。英語は子供の

    将来を広げると親は真剣。デリー教育計画行政大学の調査。初等、中等教育のうち英語

    で教える学校(SBS)に通う生徒数は2013年までの5年で2倍。約3000万人、デリー首都圏

    では49%が英語校に通う。しかし、SBSのような私立校で英語教育をうける3000万人は

    インド全体で初等中等教育をうける約2億人の15%にすぎない。

 

 2. 巨大な格差:階層、カースト、民族、地域

   (1)インドは極端な格差社会

    ームンバイの高級地区の一角に、リライアンス財閥の総帥Mukesh Anbaniの住宅が

     聳える。その大きさは六本木ヒルズとほぼ同じ。前衛建築の粋をこらした建物で世界

     最高額の住居。家族は4人。家族を支える従業員は90人。

    ・その地区は貧民地区の囲まれている。数ブロック歩くと貧民窟が並ぶ。

     この極端な対照がインドの格差構造の例示として紹介される。

 

    ・ところで、MukeshはReliance Industries Groupを率いる世界第二の富豪だが、

     Reliance ADA Groupを率いる弟のAnil Ambani氏は、最近、事業に失敗して

     無一文になったと報道された。激動するインド財界の一端を感ずる時件。

     ”The rapid decline of Indian Tycoon” Financial Times, March 18, 2020.

    

    ー私自身の経験:オールドデリーの貧民街。デリーの高級ホテルから車と人力車を

     乗り継いで貧民街をあるく。道路は狭く、家は崩壊寸前。狭い通りには電線が垂れ

     さがって危険。人々(老若男女)は精気なく入り口の階段にうずくまってうつろな

     視線。これらの人々の大半は貧民窟を出たことがなく生涯をそこで終わる人も多い。

 

    ・インド中部の高原の街、ウダイプール。中世に造られたという人造湖。中央に大理石

     づくりの超高級ホテル。岸辺に巨大な大理石づくりの多目的施設:結婚式、会議場。

     ここでの結婚式には数億円の予算をかけて、客を1000人、宴会は1週間、楽隊、象

     行列などをする富裕層の利用も少なくない。対岸にはマハラジャの巨大な宮殿と

     居住施設。

 

    ーインドには相続税がないので、数千億円の資産のある超富裕層の資産は専門コンサル

     の手で、幾何級数的に増殖する。世界の金融都市、ジュネーブ、シンガポール、香港

     などには、こうした超富裕層の資産運用を専門とするFamily officeやPrivate equity

      bankなどが活躍。欧米社会やインド、中国の格差構造を拡大している。

 

   (2)格差の形成要因

   ーカースト

   ・インドでは古来からカーストという身分制がある。カーストは古来からの職業に

     根ざしていることが多い。カーストは伝統的なインド社会の身分階層構造を象徴

     しており、カーストによって職業だけでなく社会的つながりや家族の地位などが

     限定される。結婚はカースト内で行われることが多い。インドの結婚は個人より家族

     が重要なので、異なるカーストに属する家族の結婚は容易でない。名前を聞くだけで

     もカーストがわかることが多い。

   

    ・現代のカーストには大別すると ブラフミン(司祭)、クシャトリア(武人)、

     バイシャ(庶民)シュードラ(隷属民)がある。この下に不可触選民と呼ばれた

     通称ダリットの階層がある。

    ・インド憲法はいかなる差別も禁止している。インド憲法を起草した中心人物は、

     独立インドの初代法相、憲法起草委長のビーム・ラオ・アンベードカル(1891~

     1956)。彼はダリットの家に生まれ、厳しい差別の中で苦学し英国の法曹となった

     だけに憲法にはカースト差別を許さない意志がにじむ。しかし、カーストは社会的慣習

     として牢固に残存。

    ・被差別カーストや社会的に不利は少数民族、貧困層には政府か公務員採用や大学進学

     での優遇措置がある。それに対する社会的不満も多い。

   

    ・IT業界は、このようなカーストによる差別構造を超越する特別な存在。

     カーストは古来から存在した職業別の社会階層構造に直結しているが、ITの歴史は

     20年ほどしかなく、古来の職業とは無関係。そこで、低位カーストの人々にとって

     社会差別や格差を超える唯一の突破口。多くの若者がITに強い憧れと希望をもって

     ITの専門家になろうと努力し、上記のようにその成果がおおきく現れている。

 

   ー地域、民族、宗教、言語要因。

    ・社会的・経済的格差は、地域、民族、宗教、言語などが複合して形成される。

    ・インドは広大な国土があり、西部のグジャラート州、ムンバイのあるマハラシュトラ

     州などは経済発展がすすんでいるが、東部のコルカタ(カルカッタ)のある西ベン

     ガル州や北部ビハール州などは貧困地域。南部のチェンナイ(マドラス)のあるタミル

     ナドウ州や南西部のバンガロールのあるカルナータカ州は商業地域の伝統がある。

    ・これらの地域は、民族的にも相違があり、それはまた彼らの歴史的な社会的経済的

     階層や地位を反映している。

 

    ・宗教も重要な格差要因。インドには多くの宗教があり複雑な社会差別構造につなが

     っているが、とくに、古くから現在までつづいているヒンドゥーとイスラムの対立

     は社会差別構造に深く関わっている。

 

    ・また言語も格差と密接に関連している。多くの言語種族間では多様な差別があるが、

     それらを超える言語として英語が特別な位置づけにある。英語は全国共通の公用語と

     いうよりエリートの必須の条件なので、上記のように教育力のある家族は子弟に

     英語教育を授けることに真剣になる。

  

 3. 人口ボーナスか人口オーナスか

 

  ・インドには現在13億人という巨大な人口があり、出生率が高いのほどなく現在14億人

   規模の中国の人口を上回ると予想されている。インドの特質はその人口の年齢構成が

   若く、平均年齢が25歳。すなわち6~7億人が25歳以下。

  ・彼らが60歳代まで働くとすると、これから平均40年間ほど労働人口が確保できるので、

   それは経済成長への巨大な力になる。これを人口ボーナスという。

 

  ・しかし若い人口が”ボーナス”になるのは、彼らが成長する経済を支えるそれなりの所得の

   ある仕事に就くことが前提。現在のインドは6億人の人口が生産性と所得の低い農業など

   の分野で不完全就業に従事しているので、そのまま人口が高齢化していくと、若い巨大な

   人口は”ボーナス”ではなく、”オーナス”という重荷になるおそれがある。

 

  ・M首相が熱心に”Make in India”を唱えるのは、彼らを生産性と所得がより高い製造業

   に吸収したいという戦略意図があるからだ。インドの工業化のためには、かつて世界が

   瞠目した工業化の実績がある日本が協力できる余地が大きい。

    

 

Ⅶ.   独立インドの発展と英統治の後遺症

 

1. インド独立とその背景

 1)インドの独立

ー1947.8.15深夜、ネルーは国会議事堂で「独立」を宣言。インド共和国憲法、憲法制定議会

 が1947から1949にかけて召集。白熱論戦の末、憲法制定。1949.1.26、共和国憲法記念日。

 憲法はインド政治の土台。

 

ーインド憲法:

 ・国名:インド。ヒンディーではバーラト:反植民地主義を意味。

 ・国家体制:社会主義:国家主導で経済や社会の運営をめざそうとするインド建国理念

 ・国家の立場:世俗主義(Secyuralism):宗教と政治には距離を置く、を憲法に明記。

   

2. 独立の背景:前史

 ・インドの独立には長く複雑で悲惨な前史

 

1)ガンジーの非抵抗、非協力運動

 ・イギリスの植民地支配から脱却をめざしたガンジーの運動。

  非抵抗、非協力運動(1915~1920s)として知られる。

 

 ・ガンディー、1869、グジャラート西端藩王国の商業カーストの家に生まれた。

  不器用、内気、野心家。18歳、追放のリスク犯して妻を残して英国留学、弁護士志望。

  少年時代、ジャイナ教信者の親と貿易商というカーストの影響下、非暴力的ヒンドゥー

  イズム育まれたか?イギリス人の男らしさに憧れるが、なじまず、菜食主義者。

 

 ・帰国後、弁護士界の競争について行けず、1893アフリカへ。南アフリカで現地インド人

  実業界のために活躍。1893~1914の南アフリカ時代が人間形成。西洋人の物質的欲望。

  その結果生じた競争社会の文化への激しい批判。ガンディーの理想は伝統的な農村社会の

  簡素な生活。理想は共和制による自給自足の農村からなる緩やかな連邦国家。

  倫理的にはサティヤーグラハ(真理を保つ力=非暴力)を求めた。

 

 ・腰巻き姿の「マハトマ(偉大な聖者)」として多くの人々を魅了。ガンディーの政治運動に

  多くの人々が注目。故郷のグジャラート州州都アフマダバードに修道場。ビハール州と

  連合州。などの人口稠密地域で、ネルー父と息子ジャワハルラル・ネルー(1889ー1964)

  などがガンディーに心服し、右腕になった。非協力運動で農民運動、労働運動を指導。

 ・「塩の行進」1930. 78人の弟子達と塩をもとめて200Kmを行進。世界が注目

 ・紡績職人を支援するため、カーディ(白の綿布)まとい、糸車を置く姿象徴的。

 

2) 第二次大戦、Quit India 運動と会議派幹部投獄

      Nerhu 「Glimps of World History」

 ・第二次大戦初期(1939~1942)イギリスはインド兵調達に注力。会議派は第一次大戦時

  のように無条件で協力はせず。ガンジーは戦争協力には反対。ネルーはファシズムとの

  戦いなら限定的に協力。イギリスは協力を取り付けるために、クリップス使節団を派遣し

  終戦時にインドに自治権を与えるという構想示して交渉。ただし、統合を希望しない地域に

  強制はしない条件。イギリスはインドの分割独立を含意?

 

 ・交渉決裂を危機感を募らせた会議派は、1942夏、大規模な大衆運動「Quit India(インドか

  ら出てゆけ)」を組織。イギリス軍は残忍に制圧。会議派幹部は終戦後まで3年間勾留。

  会議派の新たな離反」を前にして、イギリスはインドの戦争協力体制を確立するためには、

  会議派以外の勢力の利用を模索。ちなみに、ジャワハルラル・ネルー氏は勾留中の3年間、

  一人娘のインディラ宛に世界史について書簡を書き続け、それがその後、Glimpses of World 

  History 、Penguin Books として出版され、今でも世界史の不朽の名著とされている。

  インド指導者の桁違いの知性が垣間見られる。

 

 3)ジンナーのパキスタン構想とネルーの決断

 ・利用と権力移譲の最有力候補はムスリム連盟。ムスリム連盟はパキスタン構想という政治

  目標を1940に採択。構想は1933ケンブリッジ大学のムスリム留学生グループ。連盟は

  「ムスリムが多数を占める地域は独立諸国家として自治権と主権をもつべし」と主張。   

 ・イギリスは戦時中にムスリムの協力を得たいので、パキスタン構想に肩入れ。インド独立に

  際し、州は”不参加を選択する権利を有する”とのクリップス提案条項はその例。

 

 ・1945.6. ウェーヴェル総督はガンディー、ジンナー、刑務所から釈放されたばかりの会議

  リーダーたちを夏の首都シムラーに招集。総督はヒンドゥー、ムスリムから成るインド人の

  暫定政府創設を提案。ジンナーはムスリムメンバーは全員ムスリム連盟で指名されるべしと

  主張して譲らず、交渉は決裂。

 

 ・1945~1946冬の選挙。会議派は中央議会の一般(非ムスリム)議席の90%を確保して圧勝。

  一方、ムスリムは中央議会のムスリム留保議席数30を独占。地方議会のムスリム留保議席

  500のうち、442を確保。この結果を受け、ムスリム連盟こそ全国のムスリムの唯一の代弁者

  というジンナーの主張を正当とした。

 

 ・会議派とムスリム連盟が妥協できない状況をみて、イギリスは1946.3.閣僚使節団をインドに

  派遣。イギリス案で事態の打開を図ろうとした。それは3層構造の連邦制。その特徴は州の

  グループ分け。第一、第二グループはムスリムが多数を占める東西の諸州。第三グループは

  ヒンドゥーが多数を占める中央部と南部。これらには自治権。ジンナーへの配慮にじむ。

  ムスリムはイギリス案を受諾。

 

 ・今度は会議派が態度を決める。ネルーはイギリス案では中央政府の権限が弱すぎると結論。

  1944.7.10.ネルー演説。はジンナーの主張に近い強制的な州分け案を拒否。ムスリム連盟の

  主張で機能不全となる統一インドよりも、パキスタンを完全な独立国として切り離す方が

  ましというのが不本意ながら会議派の結論。

   

 3. パキスタン分離と大殺戮のトラウマ

 1)国土分割と大虐殺

   ・Adobani「My Country Myself」

 

 ・州分けパキスタン構想を覆されたジンナーは、ムスリム連盟の決意を会議派に思い知らせる

  ため武力行動に訴えた。

 

 ・1946.8.16~20.カルカッタの大虐殺。双方の暴徒により4000人殺害。数千が負傷。

  直後、ビハール州で7000人ムスリムが殺害。ベンガル、ノアカリ地域数千人ヒンドゥー殺害

  1947政争切っ掛けでパンジャーブ州の大虐殺。主役はスィク教徒。

 

 ・パンジャーブ州。独立が近づくにつれ、暴動は全州に拡大。8.16.国境線委員会から州の分割

  を知らされて激昂。激しい暴動。パンジャーブは軍人が多い。彼らは暴徒を組織化し計画的

  に農村、列車、難民の群れを攻撃。一晩に数回も、多くのムスリム居住地を攻撃。難民を乗

  せて国境を越える列車がとくに襲撃対象になった。列車が着くたびに死者と血がながれ、報

  復が繰り返された。

 

 ・死者は数十万人とも100万人とも。生き残った人々は恐怖のあまり自分の宗派集団に依拠。

  パキスタンはムスリムを救援することで、はじめて領土をもつ現実の国として認知された。

  恐怖は前例のない大量の移住者を生んだ。

 

 ・1947年後半の3~4ヶ月で約500万と推計されるヒンドゥーとスィク教徒がパンジャーブ州

   西部からインドに移動し、550万人のムスリムがその反対方向に移動。いわゆる「民族

   浄化」現象。インドの分離独立のために故郷を捨てたインド人は合計1250万人に達した。

 

 ・私は10年ほどまえに島田塾の有志とインドを訪ねたが、その際、BJP創設者の一人、

  L.K.Advani氏に面会する機会があった。Advani氏は私に986pの御大著”My Country, My

      Lifeをご自身の署名入りでくださった。この偉大な書物は、Advani氏の政治家としての

  人生を詳細に述べたものだが、冒頭に多くの紙数を割いてインド独立の際の悲劇、分割

     と殺戮について書いておられる。この悲劇を体験したことが、彼に政治家の道を歩ませること

  になったという。

 

 2)ガンディーの暗殺とヒンドゥーナショナリズム

 ・1948.1.30. マハトマ・ガンジーはデリーで祈祷会中に暗殺された。享年78歳。

  インド分割が避けられない情勢になるとガンディーはこれを深く悲しみ、分割案を検討

  する会議から遠ざかった。実際、ガンディーは、分割を避けるために、ジンナーを統一

  インドの首相にするという提案すらした。

 

 ・ガンディーの暗殺によって、ヒンドゥーナショナリズムの存在が明らかになった。この

  ナショナリズムはガンディーの暗殺者ナトゥラム・ゴードセーの凶悪な行為によって

  突然生まれたものではなかった。ヒンドゥーナショナリズムの淵源は1915「ヒンドゥー大

      教会」。闘争的なヒンドゥーナショナリズムの組織が、1925に創設された「民族方師団」

  RSS。上位カーストの組織された幹部集団。ガンディーが指導する会議派と対立。会員に制服

  を着せて民兵集団。やがて学生、難民、都市の中下流階層からも支持拡大。ガンディー暗殺

  後、彼らは一時、大衆の人気を失った。

 

 3. ネルー・ガンジー王朝の栄光と衰退

 

  1)ネルー王朝

   ネルーは政教分離と社会主義を明確に打ち出した。会議派の獲得票は45%。ただ、他の

  多くの党に票が分散したので、会議派は圧倒的多数。この状態がその後、数十年つづいた。 

  独立後20年(1964年の死まで)はネルーの時代。国民の圧倒的人気。世界にたいしても

  新しい独立国家インドの象徴。

 

   ネルーは新国家構想の中核に計画経済を掲げ、それを実施するため国家計画委員会を創設

  ネルーは1927年にソ連を訪問。その体制を見習って社会主義的国家建設めざした。重工業

  を強化、軍備を含む国の基盤強化めざした。インドは1947独立後、ソ連にならって国家計画

  委員会67年にわたり、国家主導の産業育成、富や資源の再配分、金融部門の公有化など混合

  経済体制を採用し、5ヵ年計画で運営。

 

   ネルーは米ソ対立の冷戦下、一貫して非同盟外交方針を堅持。毛沢東、スカルノとともに

  米ソ両大国の調停役を果たそうとした。しかしその理想は1959年、中国のチベット侵略と

  いう予想外の事態でもろくも崩れ去った。チベットの宗教指導者ダライ・ラマは数千人の

  難民とともにインドに亡命。インド政府から修道場を提供、今日まで亡命生活。

 

   さらにカシミール北部のアクサイチン地方も中印間の紛争地となった。ネルーは中国軍の

  撃退を試みるが失敗。1962、中国はインドを武力攻撃、アッサム高原一帯を占領。中国が

  その後、パキスタンに接近したため、インドは一時的にアメリカ寄りになった。1964.5. 

  社会主義的政策が多方面から批判される中でネルーは他界。

 

   ネルー首相の後を継いで、穏健派のL.B.シャースとリー(1904~1966)が首相に。

  1965、印パ関係が緊張。事実上、戦争状態に。1966.1. ソ連の仲介で停戦条約締結。その

  直後、シャーストリー首相死去。国内経済が危機的状況で後継は急を要したので、国民会議派

  はネルーの一人娘インディラを首相に推薦

 

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