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2020年4月

躍進するIT産業:インドの可能性と課題(3)

2)ガンディー王朝 I  インディラ・ガンディー

   インディラは妻を亡くした父ネルーのために首相官邸で公式ホステス、またシャーストり

  内閣の情報・放送相。1966、48歳。数年前に夫フィーローズ・ガンディを亡くした未亡人。

  二人の息子の母。

 

   着任早々、重大な危機。大旱魃で食糧不足。ネルーの重工業への重点投資政策を中止。

  あらゆる手段で農業増産をはかった。総合農業計画:新種開発、化学肥料投入、大規模な

  灌漑整備。「緑の革命」と呼ばれた。農業改革は一時的成果。農業生産も工業も増産。

  国民所得も上昇。しかしモンスーン効果だった。いまひとつの問題:新たな社会格差拡大。

   成果は大規模農場中心。貧しい農民は置き去りだったが、なぜか1970年代、インディラは

   これら貧困農民を支持基盤に勢力ふるった。

 

    インディラの首相就任は派閥の妥協の産物だった。インディラは自分の信念を貫く決意。

  それは父親ゆずりの政教分離と社会主義思想。1967、決意をためす選挙を敢行。結果は

  会議派が過半数を20議席上回るだけ。会議派の旧来のボスはインディラに不信感を強め

  インディラをインド大統領候補に指名。インディラは拒否。党から除名。インディラは

  「会議派内インディラ党」と結成。勢力基盤強化に着手。まず国内大銀行を国有化して

  国民の人気取り。タミル系のドラヴィダ進歩同盟と共産党と連合して政権強化。

  ここから15年にわたるインディラ時代はじまる。

 

    インディラは、会議派の組織をつうじて行動するのでなく、直接、民衆に訴えかけ。

   この戦略は1971選挙で見事は勝利。1967選挙で失った議席取り戻す以上に352席という

   圧倒的議席を下院で獲得。社会主義路線継続。1971ソ連と同盟条約。アメリカとの友好

   関係に終止符。外交での最大の勝利は、パキスタンとの戦争に圧勝したこと。

 

    パキスタンの領土は1000マイル及ぶインドの領土によって東西に分断されていた。

   1960年代以降、パキスタンはこの分断による利害関係の調整に苦慮。71頃、西の

   パンジャーブ人に支配される東のベンガル人の不満が暴動として爆発。パキスタン軍が

   武力で弾圧。インドはベンガル人に味方。はじめは地下運動。1971.12.直接インド軍介入。

   パキスタンはインド側に10万人捕虜残して降伏。東ベンガルでのパキスタンの威信は地に

   落ち、バングラデシュという新しい国が誕生。パキスタン領土半減。インド優位が決定的。

 

    パキスタンに圧勝、1971選挙圧勝。インディラ支配体制が確立。インディラポピュリズム

   専制政治。「インディラがつねに正しい」政権は専制者にまといつく追従者の集団。

   農村に利益もたらす計画発表。しかし富農階層と対立する勇気なし。富農、富裕層の

   脱税横行。貧困層は置き去り。食糧不足深刻化。失業者増大。1974世界エネルギー危機が

   事態をさらに悪化させた。インフレ高騰。野党が一斉に反政府運動。

 

    インディラに決定的打撃。1975.6.12. 最高裁判所が1971選挙でのインディラの選挙  

   違反認め、選挙結果無効判決。インディラは辞職せず、相手に先制攻撃。1975.6.26.

  「非常事態宣言」市民権利停止、報道管制、反政府政党非合法化。インディラの過去のいか

   なる違反も問えない法制化

 

    次男のサンジャイ主導でスラム街の撤去。人口増抑制のため二人以上の子供もつ父親は

   断種。これらの政策で政権は二大支持基盤、ムスリムと貧困層を敵に。インディラは

   それに気づかず。1977.3.非常事態宣言を正当化するため突然議会を解散、総選挙。

   総選挙で敗退。政権失ったのは当然。国民党(ジャナター党)主導の野党295席。

   会議派154のみ。モラルジー・デサーイが首相。会議派以外ではじめての首相。

 

   しかしデサーイは党派間闘争で1977政権を追われた。後任はチャラン・シン、非バラ

  モンジャート系政治家としてはじめての首相。シンは1ヶ月で崩壊。国民党連立体制崩壊。

  1980.1.総選挙。インディラ奇跡の復活。会議派は下院の2/3議席確保。会議派は国民の間

  に依然、隠然たる浸透力と影響力。権力を握ったインディラは再び政治に私情。次男の

  サンジャイを後継者として教育。自分に忠誠を誓う部下を公認候補に。

 

   サンジャイが1980.6.曲乗飛行中に事故死。悲嘆にくれるインディラは長男のラジーウ

 (1944~91)に政界名門の引き継ぎを命ず。インディラは少数民族や宗派問題を材料に国民の

  気を引く。政教分離という会議派の伝統を放棄したことが彼女の命取りに。

  スィク教徒が自治州を要求していた。伝道者ビーンドラワーレの過激主義。スィク教の総

  本山を占拠してスィク教国家承認を要求。インディラは彼らの運動の壊滅のため軍と突入、

  数千人のスィク教徒殺害。

 

  1984.10.31.インディラが住居を出て執務室に向かう庭園。護衛兵のスィク教徒が彼女を

 銃で暗殺。即死。この暗殺は国民の怒りを買い、全国でスィク教徒への攻撃↑。デリー

 だけでも1000人が犠牲。警察も会議派の政治家も黙認。

 

3) ガンディー王朝 II (ラジーウ・ガンディー)

  ラジーウ・ガンディーはハンサムで愛想が良くミスタークリーンの異名。インド大衆は彼が

 首相になることを期待。母の遺産を生かして首相になるべく1984.12、彼は総選挙要請。

 会議派は圧勝。下院8割415席。全有権者の45%。ラジーウの妻ソニアは1946イタリア北東部

 ルジアーナに生まれ。カトリック教徒として育つ。ケンブリッジ留学時18歳、ラジーウ・ガン 

 ディーと出会い4年後結婚。

 

  ラジーウは、会議派の伝統に反し、インドを世界の資本主義に開放しようとし、そのために

 民間企業重視。彼のもっとも意味ある決断は1980年代にはすでに50年間世界経済から孤立し

 ていたインド経済の解放だった。ラジーウはコンピューターと資本の移動が未来を左右するこ

 とを敏感に察知。近代的な若手経営者と親交。彼らは異口同音に旧来の許認可制がインド経済

 の足かせと主張。ラージうはインド自由化をいくらか前進。

 

  スリランカでは、仏教徒のシンハラ人多数派とヒンドゥー教徒のタミル人少数派が

 対立。ラジーウはこの問題に不用意に介入して双方の不信と怒りを買った。1991.5. 

 タミル・ナードゥ州一帯で選挙活動をしていたラジーウにタミル人テロ集団のメンバーと

 思しき女が近づいて自爆。ラジーウとともの多数の聴衆を爆死。この時、ラジーウはすでに

 政権を去って下野していた。ソニアは夫の不幸でファーストレディーになった。

 

  暗殺後の総選挙は弔い合戦。会議派勝利。だが、党勢は低迷。ラディブ、ソニアにはラフル

 ブリアンカの子供。まだ小さい。1998、ソニア自身が会議派の総裁。だがソニア総裁就任に

 党内の理解得られず。ソニアは総裁でも首相や候補にならない道。青いターバン、経済学者

 のマンモハン・シンが大番頭として首相。シンはシーク教徒。

 

 4.  非同盟主義から対米傾斜

 

   ネルーは中国との関係重視、1954周恩来と「平和五原則」平和共存の蜜月時代あった。

  1955、バンドン会議。第一回アジアアフリカ会議。ネルー、周恩来、スカルノ、ナセル

  が注目浴び、植民地主義の終焉と新時代の到来を予感させた。

 

   しかし、中国のチベット進攻と、インドのダライラマ14世亡命受け入れなど関係悪化

  1962. 中国人民解放軍がインド北部、現アルナチャル・ブラデシュ州とカシミール周辺

  に侵攻。国境めぐる軍事紛争に発展。インドは敗北、両前線で中国は実効支配拡大。

 

   ネルーとインド国民はこれを「裏切り」と受け取り、大きな衝撃。それ以降、中国は

  インドの最大の仮想敵。対中感情はいまも悪い。1964に中国が核実験成功。インドも核武装

  に舵。インドの核武装はもともと対中国戦略。

 

   ネルーの死後も、外交・軍事両面で長く非同盟主義。兵器をおもにソ連から購入して

  いたインドは冷戦終結とソ連の崩壊以降、徐々に軸足をUSとの連携に移す。USも

  インド洋やペルシャ湾の海洋権益保護でインドの協力必要。1992から米印合同の海上演習

  マラバール実施。2006ブッシュ政権が米印原子力協定合意。USはインドを核兵器保有国と

  認め、制裁対象でなく、経済・軍事両面でパートナーとする方針に転換。インドも対米傾斜

  を強めて今日にいたっている。

 

  5. 社会主義・計画経済から開放・自由経済へ

   

    1991経済危機。インドの保有外貨が底とつき、債務不履行寸前。1991.2.予算を通せな

  い事態。国際信用↓。きっかけは湾岸戦争で石油価格上昇がインド経済直撃。中東に出稼ぎ

  に行ったインド人労働者からの本国送金も急激に細り、国内に混乱。この経済危機は外貨を

  稼ぐ力がないという構造的なもの。

 

    財務大臣マンモハン・シンは、大胆な改革実施。産業や貿易の許認可制度を撤廃。

  民間の参入を大幅に拡大する自由化政策で国を開放。社会主義を建前とする国が、市場と

  競争の原理を重視する政策に転換。関税引き下げ、海外からの企業進出しやすくした。

 

   シンは外貨不足を補う資金調達のためIMFと世界銀行から融資取り付け。その条件が

  「新経済政策」と呼ばれた「構造調整プログラム」。条件として閉鎖的経済を開放する

  ことが迫られた。政府は国民を飢えから救うために条件を呑んだ。

 

   それまで植民地支配によるトラウマから欧米の干渉を強く拒否、独立以来、外交でも

  非同盟の看板をかかげてきたインドが、頑なな姿勢から大きく転換、外の力を借りること

  に。自国の産業を守るために続けられてきた輸入制限政策が緩和。貿易や投資が大幅に

  自由化された。そしてIT産業も急成長に。

 

   シンの経済改革は、インドがそれまで国を閉ざしていた期間が長い分だけ、効果は大。

  シンの路線はその後も引き継がれ、自由化政策によって先進諸国からの投資がすすみ、

  経済は順調に発展。1991に0.9%だったGDP成長率は、90年代半ばに年率6~7%の高い

  成長率をつづけるようになる。

 

     

Ⅷ.   大国インドの課題

 1 大国の潜在力と大国の資質

  1)経済規模

         ・インドの人口は現在13億人。GDPは約2兆ドルで中国の約10兆ドルの1/5。しかし人口

    構成が若いので、人口ボーナスが得られれば、15年後には現在の中国と同規模の経済

    になると予測されている。

 

   ・インドの若い人口が経済成長を促進する”人口ボーナス”になるかどうかは、インドが

    これから6億人にもおよぶ低賃金の若い人口(その大半は農業部門での不完全就業者)を

    製造業や付加価値の高いサービス部門に吸収できるかが鍵を握る。

   ・M首相の「Make in India」戦略はそれを実現することを意図しているが、日本が戦後の

    高度成長を”太平洋メガロポリス”構想によって進めたことも参考にしている模様。

 

   ・現在の中国はPPPで測ればアメリカより5割も大きい。インドが将来、現在の中国に匹敵

    する経済大国になれば、世界的な影響力は今よりはるかに大きく、世界をリードする大

    国としての役割が期待されることになるだろう。

    

  2)国内問題・民族問題

   ・インドは巨大な国土と膨大な人口を持つが、国内の地域、民族、宗教、言語など

    は多様で、多くの複雑な問題をかかえている。

   ・これらは簡単に解決できる問題ではなく、インドはこれからもこれらの複雑な問題

     に直面しつづけるだろう。

 

  3)国際信頼とリーダーシップ

   ・インドが世界の大国にふさわしいリーダーシップを発揮できるかは、国際的

    な信頼をどれだけ得られるかにかかっている。 

   ・将来、世界の大国としてそれなりの役割を果たすためには、いまから信頼される国

    となるための努力を重ねる必要があるだろう。

 

 2. Secularismとヒンドゥー至上主義

  ー国際社会とりわけ西欧のインドについての懸念のひとつは宗教対立問題ではないか。

   インドには十以上の主要な宗教があり、数千もの宗派がある。多様な宗教のなかで、

   ヒンドゥー教とイスラム教の対立は歴史的にも現在でも深刻な問題。

 

  ー英国の植民地支配からインドの独立を果たしたネルー首相らの国民会議派はこの宗教

   対立を政治にもちこまない知恵としてSecularism(世俗主義)を建国の理念にかかげ  

   憲法にも明記した。

 

  ーところが、M首相は、ヒンドゥー至上主義を掲げるRSS(民族奉仕団)出身という背景

   もあり、首相になってからもますますヒンドゥー至上主義を強調している。

  ・最近の国籍法改正問題でも、近隣諸国からインドに移住したイスラム教徒への差別を

   より明確にしようとしてモズレム社会の反発を招いている。

  

 3. インドーパキスタン対立の内外への影響

 1)インドーパキスタン対立の重大さ

  ・ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の宗教上の対立は、インドと隣国パキスタンの対立の  

   根源だが、両国はそれぞれ核保有国であり、たびたび武力紛争をしてきているだけに

   対立は地域問題にとどまらず世界平和に影響する。

 

 2)根深いインドーパキスタンの対立

  ・対立の根源、インド、パキスタンの建国の歴史。1947独立の際、インドとパキスタン

   が分離独立したため、インド地域のイスラム教徒とパキスタン地域のヒンドゥー教徒が

   相互に大量移動。その過程で大量な殺戮。

 

  ・国境付近では対立の根が集積。インドは内部に1.8億人のイスラム教徒、しかも増大。

   政治にそうした宗教対立を持ち込まない知恵としてネルー首相は憲法にSecularism(世俗

   主義)を明記し政教分離を国是とした。

  ・しかしモディ首相はヒンドゥー至上主義をかざしてはばからない。

 

  3)インドーパキスタン対立に核の影

  ・1998インド、パキスタンが核実験。両国の核実験は国際社会に衝撃。最初に核実験したの

   は「強いインド」を標榜していたパジバイ首相。単なる宗教戦争は核戦争の脅威という

   世界の問題につながりかねない。

 

  ・2002、印ぱ戦争勃発の瀬戸際。パキスタンからの越境武装集団が2001暮、ニューデリー

   の国会議事堂を襲撃。核兵器の局地使用の危険ありうる。

 

 4)カシミール問題

  ・印パ対立の緊張焦点にあるのはカシミール。インド独立の際に最後まで所属が明確でなか

   った地域。1998印ぱ核実験の後、カシミール地方にインド軍30万に増強。偶発戦争の可

   能性もあった。現在でも両軍実効支配で睨み合い。

 

  ・カシミール地方で、2019.2. 両国の軍事行動がエスカレート。インドが実効支配する

   ジャム・カシミール州、インド兵治安部隊のバスに車がつっこんで40人死亡。車には

   350Kgの爆発物。カシミールのパキスタン領有を求める過激派組織「ジャイシュ=エ=

   ムハマド(ムハンマドの軍隊)」が犯行声明。この組織は2001インド国会議事堂襲撃事件

   の関与も疑われている。

  ・インド軍、Pakistan領内の武装組織の拠点爆撃。両軍空中戦にまで発展。核兵器保有国の

   危険な報復連鎖に米中など懸念表明。

 

  ・2019.5総選挙を受けて、インド政府は2019.8.イスラム教徒が多数を占めるジャム・カシ

   ミール州に特別な自治権を保証してきた憲法370条の規定を廃止。それは他のインドの州

   と同様な扱いになる。多数派のイスラム教徒には衝撃(パレスチナと同様に)。

   パキスタン政府は対抗措置。

 

  5)改正国籍法問題

  ・2019年12月、インド上院で可決された改正国籍法は、パキスタンなど3つの隣国

   出身でインド在住のイスラム教徒を国籍認定で差別する法律で、M政権の差別主義と

   して西欧など国際社会から批判されている。

 

 4. 超大国の役割と自覚をもてるか

  ー経済的に超大国になりうるインドが、世界政治の面でも世界を主導する国として信頼され 

   認知されるかは、将来のインドに問われる最大の課題だろう。

 

  ー第二次世界大戦後、世界を主導したのはアメリカ。大戦前の世界は2世紀にわたって帝国

   主義の時代であり、英仏などが植民地帝国として利権を欲しいままにしたが、1928年パリ

   で締結された「不戦条約」以降、世界は新たな時代に入った。

  ・大戦後、単独で世界GDPの過半を占めたアメリカは、戦災で疲弊した国々と地域の復興が

   アメリカ自身の発展のためにも不可欠と考え、経済と安全保障に関する国際協力の枠組み

   (Pax Americana)を構築し推進した。アメリカは冷戦時代、この体制下で多くの国々と

   同盟関係を結んで、世界のリーダー国としてそれなりの国際信頼を獲得した。

  ・そのアメリカの大統領に選ばれたトランプ氏がそうしたアメリカの国際的遺産を破壊して

   いるのは誠に残念。トランプ政権下で国際社会のアメリカへの信頼が低下するおそれ。

 

  ー中国は大戦後、毛沢東の指導下で低迷したが、鄧小平時代の改革開放政策で飛躍的に

   発展。鄧小平氏は「韜光養晦(才能を隠して内に力を蓄える)」で国際的には控えめな

   姿勢に徹したが、習近平主席は「中国夢」を唱えて国民を鼓舞し、大国主義を志向。

  ・国内的には民主主義を否定。情報統制の管理社会。コロナウィルス問題では国家権力に

   よる隠蔽的な体制が国民からも批判。

  ・1980年代以降の急速な経済発展、2000年以降の目覚ましい情報化などの成果は評価

   称賛されるが、事実上の独裁体制は国際社会の共感と信頼を得られていない。

 

  ーインドは近年、若い人口と優秀な人材群、欧米諸国の積極投資を生かして急速な発展を

   遂げているが、将来、現在の中国にならぶ世界の経済大国になる時、世界の信頼をいかに

   確保するかが大きな課題。

 

  ーインドは自他ともに認める世界最大の民主主義国。それは信頼醸成の重要要素。宗教

   対立による民族差別はこれから克服すべき大きな課題。

   

 

Ⅸ.   日印協力の可能性

 1. 戦後の日印関係

 ー日本とインドの正式な国交は、日本に対する寛大な内容の日印平和条約が結ばれた1952。

 

 ー独立したばかりの戦勝国インドは、SF講和会議で主権を回復した日本にアメリカ軍が駐留

   することに反対して会議を欠席。日本への請求権を放棄する友好的な姿勢をしめした。

 

  ・大戦中の主要な戦争犯罪人を裁いた東京裁判ではパル判事が日本人被告の無罪を主張。

  ・1949年、ネルー首相は友好の証に娘インディラの名をつけた象を上野動物園に送った。

  

  ー1958、日本はODAの第一号となる円借款を供与。インドの電力設備、船舶建造支援。

  ・1957、岸信介が首相としてはじめてインド訪問。つづいて池田首相。

   しかし1960sにはいってベトナム戦争が激化。アメリカは共産主義の拡大をふせぐため

   東南アジアを重視するようになり、日本も影響をうける。

 

  ー冷戦の時代、日本は日米同盟を基軸とする自由主義経済を進め、インドは非同盟外交の

   方針を貫き、閉鎖的な経済体制をとっていたため、日本との接点がなくなる。

 

  ・日印が再接近するきっかけは、1991のインドの経済危機。

   外貨準備が底をつきデフォルト直前まで追い込まれたインドに手を差し伸べたのが日本。

   2億ドルの緊急借款、アジア開発銀行からの1.5億ドルの協調融資でインドは危機を

   しのいだ。当時のシン首相は日本の支援に深く感謝。

 

  ー1998.3に政権に就いたBJPのパジバイ首相は、経済解放をさらに進める政策をとったが、

   1998.5.にパキスタンとの軍拡競争に触発される形で核実験。パキスタンも核実験で対抗。

   日本はインドに即座に抗議。駐インド大使を帰国させ、新規の円借款を中断。関係は

   冷却。

 

 2. 新たな日印パートナーシップ

  ー日印関係の雪解けは、2000の森喜朗首相の訪印。クリントンの訪問で米印関係が改善

   すると8月に訪問。パジバイと会談。核実験凍結、日本は経済措置を緩和。日印関係を

   「21世紀におけるglobal partnership」と位置づけ。森氏もそのあとに訪印した

   小泉首相も同時にパキスタン、バングラデシュなど訪問。当時の日本は印パのバランスを

   重視。

 

  ーそれが変わったのは2007の安倍訪印。パキスタンを訪ねず、インド重視の姿勢。

   インドはBRICSの一角として存在感。安倍は台頭する中国とのカウンターバランス

   のパートナーとしてインドを重視。シーレーン防衛など。安倍は「戦略的」を加えて

   戦略的グローバルパートナーシップとして歓迎された。

 

  ーインドも日本を必要としていた。M氏は宗教問題でアメリカから入国拒否された時、

   日本の支援と呼びかけ頼りとした。Mが2007来日、第一次政権の安倍と会談。

   2012に来日時、下野していた安倍と面会して関係を維持。Mが2014来日の際、

   安倍はTwitterの公式アカウントでフォローしていた3人の一人。個人的信頼関係

   強く。2014以降、日印関係ははるかに緊密。

 

 3. 安倍ーModi首相の緊密な関係

  ー2014.9. 新しい首相となったMが日本を訪れ、安倍首相と首脳会談。M首相はこれまで

  (2019.7)5回日本訪問。グジャラート州首相だった2007と2012にも訪日。

   共同宣言「日インド特別戦略的グローバル・パートナーシップのための東京宣言」

   2000年にはじまった日印連携に特別と戦略を付加。

 

  ・Mが最初に訪れたのは古都、京都。わざわざ安倍首相が京都まで出迎えるのは珍しい。

   これにはおもてなしの工夫。京都の東寺には、大日如来はじめインドに起源をもつ

   仏像多数祀られている。なかでも梵天はヒンドゥー教では三大神の一人で宇宙を創造

   したとされるブラフマー神。Mをヒンドゥー教神々が形をかえて祀られている東寺に

   案内。

 

  ー東京の各界代表者招いたセミナーは超満員。

   Mは「これまではLook Eastだったが、これからはLook at Indiaだ」と巧みなキャッチ

   コピー。「皆さんが成長のために探し求めてきた場所はインド。日本が10年で起こした奇

   跡はインドでなら2年で実現できる。民主主義、人材、需要のすべてが揃っているのはイン

   ドだけ」

 

  ーインド経済が人口増を吸収できる7%を超える成長を達成するには、製造業とサービス業

   で9%以上成長必要。それを土台に農業ば3~4%の成長を達成せねばならない。

   外国の投資家から見ると、インドの最大の弱点は基本となるインフラ。道路、鉄道、

   エネルギー、流通などの遅れ挽回が課題。それこそ日本が手を差し伸べられる分野。 

  

 4. メトロが象徴する日本の対印支援

  ーインドの首都デリーとその近郊を走る地下鉄「デリーメトロ」の総延長はすでに東京の

   地下鉄に迫る300km近い規模。メトロは、首都圏のほか、商業中心のムンバイ、南部の

   チェンマイなど各地で新規開業や延伸が相次ぐ。

 

  ・デリーメトロは2002、日本から円借款や技術協力で導入。その後、路線を急速に拡大。

   今、9路線で総延長278km。駅の数も300近い。通勤通学300万人の足。

   アーメダバード、ベンガルール、コルカタのメトロ建設もJICAが支援。

 

  ーインド政府は新幹線方式の高速鉄道について2023の開業めざす。

   日本政府は1.8兆円の事業費のうち、最大で1.46兆円の円借款を段階的に供与する予定。

 

   新幹線の導入は、2014モディ首相初訪日の際に話し合われた。首脳会談で、向こう5年間

   で3.5兆円規模の投融資がインドに向けられることに。インドに進出する日本企業を当時の

   1000社から2000社に。年間2000億円だった直接投資も2倍にする目標。その目玉が

   新幹線。

 

   新幹線は、ムンバイとモディ首相の地元のグジャラート州アーメダバードと結ぶ500km

   の区間を走る予定。所用時間は現在の8時間から2時間あまりに短縮の予定。

 

 2. 日印の接近と対照的な日本企業の乏しいインド投資

 

  1)相互補完で接近する日印両国

  ー上記したように、日本とインドは近年、相互補完の利益を追求して急速に接近。

  ・日本は人口減少で経済の潜在成長力は減退一方。インドは平均年齢25歳という若い人口

   構成で、経済の構造改革を実行できれば莫大な成長が可能。

  ・人口減少の日本にとっては夢の潜在市場。

  ・製造業やインフラ基盤強化が必要なインドにとっては日本は強力なパートナーの可能性

  ー中国への対抗力としてインドも日本も相互で協力できる地政学的関係。

  ・日本はアメリカの後ろ盾もふまえ、インドー太平洋協力構想を推進。

 

  2)乏しい日本企業のインド投資

  ー政府間の協力関係の進展にくらべ、日本企業のインド投資は極めて乏しい 

  ・日系インド進出企業数は中国の20分の1

   

  ー日本企業のインド進出、中国との比較

                 インド        中国

   GDP(10億ドル)      1871         9455

   人口(10万人)       1243         1368

   進出企業数(千社)       1.1         23.1

   在留邦人数(万人)       0.7                           15.0

  

・なぜ中国とくらべてこれほど少ないか。

・インドは遠い?飛行機で10時間以内。物理的には遠くない。

・異文化、商習慣の違い?

・スズキ自動車の活躍は見事。

  息子のサンジャイを飛行機事故で失って悲嘆にくれるインディラ・ガンディー首相にサン

  ジャイの忘形見「マルチモーターズ」の事業を受け継ぐとして果敢に飛び込んだスズキ社長

  の着眼、気迫と実行力。いまではマルチスズキはインド乗用車市場の半分。例外か?

・最近はインドへの関心も高まり企業進出も増加。

  この10年で企業進出も増加。事業拠点数は10倍。約5000ヶ所。

・それにしても中国にくらべまだ桁違いに少ない

 

 3. 不十分なインド理解

  1)インドは巨大、多様で複雑。

   ・地域、民族、宗教、言語

 

  2)対日感情の良さ

   ・仏教の伝統:2014のM首相訪問時の京都東寺のエピソード、

   ・インド独立運動の活動家スパス・チャンドラ・ボース、インド国民軍を率いてインパール

    作戦で日本帝国陸軍ととも対英戦闘

   ・SF講和会議に欠席、対日請求権放棄

   ・東京裁判でパル判事が日本被告の無罪主張

 

  3)必要なインド近現代史の理解

   ・世界最古の文明史:長い歴史。近代史だけでもムガール帝国、東インド会社支配の時代

    英国による植民地時代、ながく厳しい独立への闘争の時代

   ・独立時のパキスタンとの分割と大殺戮の悲劇

   ・分割統治の後遺症:宗教対立

 

 4. 次の超大国インド理解と協力のすすめ

  1)インドの膨大な可能性

   ・13億人の若い人口が生む限りない可能性

   ・欧米主要国や中国・韓国はインドの可能性を理解し進出。それに比べ日本企業の進出は

    少ない。

   ・インド経済のこれからの巨大な成長の可能性は、人口減少で潜在生聴力が伸び難い日本

    にとって貴重な大きな可能性を示唆する。

   

  2)インドの重要性

   ・インドと日本は相互補完生が高く、両国産業界の密接な協力によって、互いに大きな

    利益を得る可能性がある。

   ・現在のインド経済の最大の難点の一つはインフラの未整備。日本は交通をはじめとする

    インフラ基盤の整備ははるかに進んでおり、それを実現した技術や運営ノウハウがある

   ・他方、インドは進んだIT産業が象徴する、極めて能力の高い人材が膨大に存在する。

    彼らの人的能力が活用できれば、日本経済の成長可能性は大きく高まる可能性がある。

 

   ・日本企業のインドへの進出が中国にくらべて大きく遅れた理由のひとつは商慣習の

    違い、もっと具体的には彼らのビジネス交渉力に日本人が太刀打ちできないことが

    指摘されている。インド人ビジネスマンの交渉力やサバイバル能力は、インドという

    多様で厳しく容赦のない社会で鍛えられた特質といえる。

   ・日本のベンチャーや企業がインド社会の激しい競争の中で鍛えられることは、存続の

    ためにグローバルなビジネス展開が不可避なこれからの日本にとって貴重な修業の

    機会になるはず。

 

<<参考文献>>

 

江藤宗彦(株式会社ドリームインキュベータ DIインド社長)『インドのスタートアップについて』2019.10.3 島田村塾報告資料

Mishra Manish(株式会社Bridge&Sun 代表取締役)『The India-You Don’t Know』2020.島田村塾報告資料2019.12.2.

伊藤太(Market Drive Inc.社長)Musubi Management Pvt Ltd『ShareKart 事業計画書』2020

在インド日本大使館での懇談:安藤俊英公使、熊谷直樹公使、早川瑞穂参事官、青島参事官

L.K.Advani 『My Country My Life』2008 Rupa and Co.

Jawaharlal Nehru『Glimpses of World History』2004 Penguin Books

広瀬公巳『インドが変える世界地図:モディの衝撃』2019 文藝春秋社

貫道欣寛 『沸騰インド:超大国をめざす虚像と日本』2019 白水社

武鑓行雄 『インドシフト』2019 PHP

バーバラ・D・メットカーフ、トーマス・R・メットカーフ『インドの歴史』2006 創土社

平林博『最後の超大国インド』2017 日系BP社

笹井亮平『モディが変えるインド』2017 白水社

島田晴雄『インド研修訪問報告2020.1.26~2.3』

 

躍進するIT産業:インドの可能性と課題(2)

 3. Modi氏の出自と権力掌握

  ーナレンドラ・モディは1950.9.17. 生まれ。父:ダモダルダス、母 ヒラベン

   食料品店店主の3男。グジャラートのウッドナガル村。電気も引かれていなかった。

   3つの小部屋に両親と6人の子供。8人が暮らした。窓も水道もなく。照明は経由ランプ 

  ・父の副業。ヴァルドナガル駅でのチャイ売りを手伝う。

 

  ・植物油を絞ることを生業とするカースト「ガンチ」の出身?(あまり語らず)

   不可触民ほど差別はうけないが、政府により「その他後進階級」

 

  ーMがヒンドゥー教徒の政治家として人生を歩む最初のきっかけは8歳(1958)。はじめて

   民族奉仕団(RSS)の朝の団体訓練に参加。

  ・その後、ヒンドゥー教の瞑想の場アシュラムで修行。1969にグジャラートに戻り、

   叔父と食堂で働いたが、1971 第三次印パ戦争をきかいにRSSの活動を本格化

 

  ・RSSの活動が認められ、Mは1987BJP(インド人民党)に入党。選挙キャンペーンと担当

   アーメダバードの市長選挙でその働きが評価され、当時人民党のトップだったラル・

   キシャンチャンド・アドバニによりグジャラート地区の党代表。その後派閥争いを収拾

   するなどで昇進。インド人民党が勝利した1998総選挙の功績で党幹事長に。

 

  ー1990s後半で国民会議派を上回る勢力。1996選挙で第一党。パジパイが首相に就任。

   はじめてのBJP政権は連立工作に失敗して短命。

   1998の総選挙で再び第一党。「強いインド」を掲げて核実験を強行。会議派がはじめた

   IT振興や経済自由化政策を取り込んで安定政権めざす。

 

  ーそんなBJPの変化を体現する政治家がモディ首相。MはRSSの長い活動を経て党内の

   地位を高め、2001、BJPが政権をとってきたグジャラート州の首相に選出。

 

  ー2001.1.26.、グジャラート州カッチ県で地震発生。M7.7. 都市部直下で被害大。

   死者2万。負傷者16.6万ー政府発表

  ・地震の前年2000、大旱魃がグジャラートを襲い、農業用水と飲料水不足。

  ・危機からの回復をできる人物としてパジパイ首相がMを送り込んだ。

 

  ーところが、首相就任後2002.3,宗教暴動勃発。

   州政府が暴動を放置したとしてMの辞任求める声高まる。Mは辞任。議会は解散。 

  ・さらに苦境。パジパイがMにグジャラートから撤退を求めた。

  ・党中央から支援なく、暴動への対応が批判される中で2000年暮のグジャラート州議会選挙

   M率いるBJPは大勝。イスラム教徒によるテロを恐れる住民、避難民らが暗黙のうちにMを

   支持した?182席中127席の安定多数。Mは第二期目宣誓。

 

  ーグジャラートモデル誕生

   内外から投資を誘致すべくイヴェント「躍動するグジャラート」開催。M自身企業誘致に 

   奔走。Mの指導により大地震から3年で復興。スズキ、フォードなど大手外国企業誘致。

   西ベンガルで住民反対で用地買収が難航していたタタ自動車もグジャラート州に。

 

  ・電力事業改革で停電を大きく減らした。インドでは電力改革は容易でない。農業用電力

   無料の州も。補助金=一種のバラマキ。工業電力高く、農業電力安く→集票のため。

   農業電力の既得権は聖域。不払い者の電力供給停止措置。2003、グジャラート電力法整備

   し、料金体系整え。結果、農村でも電力行き渡り、停電が減った。 

 

  ・グジャラート州チャランカ村、アジア最大のソーラー発電所建設。2012に運用開始。

   発電能力345メガワット中規模の火力発電所なみ。

   

  ーグジャラートモデルの骨子

   1. 強い指導力

   2. 電力などインフラ整備

   3. 経済特区で規制緩和、外資導入

   4. 政治を見える化して改革断行

 

 ーMはこのグジャラートモデルをインド全土に広げようと訴え、総選挙で勝利。首相となった。

 ・M氏がグジャラート州の首相として上記モデルを推進している頃、私は島田塾の有志経営者

  とM氏を州首相の事務所に訪ねた。質素な執務室で熱心に語るM氏の鋭い眼光が印象的。

  

 4. Modi政治とヒンドゥー至上主義

 

 ーRSS(民族奉仕団)の原体験

  ・Mは低位カースト出身、貧しい家庭育ち。

  ・8歳でRSS活動に参加。軍隊式の団体訓練、ヒンドゥー至上主義精神での活動。

   Mの思想と人間形成を深く規定した可能性。

  ・RSSでの活動が認められBJP(インド人民党)入党を認められ、その後のMのキャリアと

   と出世街道が敷かれた。

  ・この原体験はMをヒンドゥー至上主義者として形成?

   

 ーアヨーディア大暴動(1992)

  ・ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の深い対立を象徴する暴動。

  ・アヨーディアはヒンドゥー7聖地のひとつ。16世紀にムガル帝国がモスクを建設する時、

   ヒンドゥー寺院を破壊。1949年、ヒンドゥ教徒の活動家がモスク内にラーマ王子像を設置

   したことにイスラム教徒反発。宗教紛争頻発していた。

  ・1992、20万人ヒンドゥー教徒が集まりモスク破壊。暴動は全国に波及。衝突に

   よる死者2000人。1992とはITが注目され、インド経済が改革にむかって前進開始の時期

   この時期、ヒンドゥーナショナリズムを追い風にBJPは党勢拡大。1998から6年政権。

 

 ー2002.3,宗教暴動

  ・発端は2002.2末、アーメダバード東方、ゴードラー駅、列車炎上事件。

   60人近いヒンドゥー教徒が列車内で死亡。イスラム教徒が放火の噂。それが暴動に発展

   イスラム教徒中心に2000人死者。

   州政府が暴動を放置したとしてMの辞任求める声が高まる。Mは辞任。議会は解散。

 

  ・アメリカ国務省、「宗教的自由に関する重大な違反」に責任のある外国当局者には

   ビザを発行しないという、1998に成立したばかりの国際宗教自由法条項適用しMへの

   発給を停止。

 

  ・暴動への対応が批判される中で2000年暮のグジャラート州議会選挙。

   M率いるBJPは大勝。イスラム教徒によるテロを恐れる住民、避難民らが暗黙のうちにMを

   支持した?182席中127席の安定多数。Mは第二期目宣誓。

  ・この勝利で、Mはインド国民の大多数を占めるヒンドゥーの支持を背景に、強い政治を

   実現できると確信?

 

 ー2019国籍法改正問題

  ・改正国籍法:

    2014末までにインドに不法入国したバングラデシュ、アフガニスタン、パキスタンの

   3ヵ国の出身者のうち、ヒンズー教、キリスト教、仏教など6宗教の信者にはインド国籍

   を与える。それら3ヵ国の多数派であるイスラム教徒は対象外。

  ・2019.12.11. 改正国籍法が上院で可決。

      12.12. 北東部アッサム州で大規模デモ

      12.15. インド全土に大規模でも拡大

      12.19. ニューデリーでネット遮断

      12.27. 少なくとも死者27人。

  ・M政権が昔からの居住者を証明する「国民登録名簿」の作成も全土で検討。  

   全体の8割を占めるヒンドゥー教以外の少数者をさらに排除するとの警戒感。

   モズレムの驚愕と怒り。「何世代も住んでいるのになぜ排除されねばならないのか」

 

Ⅵ.   多様なインドに伏在する問題

 

 1. 多様で複雑なインド

  1)民族的多様性

   ・インドは多くの人種から構成される他民族国家。古代アーリア系を受け継ぐインド人種

    のほかにも、中央アジア、アラブ、アフリカ、東南アジア、中国系など多様な民族が

    インドの人口を構成している。

 

  2)宗教的多様性と宗教対立

   ー多様な宗教と対立

   ・ヒンズー教徒が大半で約8割をしめる。同時に、イスラム教徒が約1.8億人。そのほか

    シーク教徒など数十の宗教の信者。

 

   ・多くの宗教が存在するだけでも、それらの平和的共存をはかるには政治的な知恵と

    指導力が必要だ。

 

   ・とりわけ、インドではヒンドゥー教とイスラム教の対立がはげしい。それは単なる宗教

    対立の問題を超えて、インドが英国の植民地から独立する際の悲惨な経験がトラウマに

    なっているからだ。

 

   ・マハトマ・ガンジーら独立運動の指導者は、インドが多くの宗教を包摂した国家として

    独立することをめざした。

 

   ーインド独立時の惨劇

   ・しかし結局、ヒンドゥー教とイスラム教という宗教の対立が、英国植民政策当局に政治

    的に利用され、イスラム教徒が比較的多く住む現在のパキスタンとバングラデシュ地域

    を分離して現在のインドが独立することとなった(ちなみに、現在のバングラデシュ

    は1971年にパキスタンから独立するまでは”東パキスタン”と呼ばれた)。

 

   ・独立に際してのパキスタン地域の分離が明らかになった時、パキスタン地域に住む多くの

    ヒンドゥー教徒が迫害を恐れてインドに脱出を試み、インドに居住するイスラム教徒が

    パキスタン地域に移動を試みたが、その際、彼らが異教の暴徒に襲われて数百万の犠牲

    者が出たという惨事がインド独立のトラウマになっている。

 

   ー国民会議派の知恵:”Secularism(政教分離)”

   ・パキスタンとはやむなく分かれて独立したインドは、ネルー首相率いる国民会議派

    政権の下に、憲法を制定し、独立国家として出発するが、憲法には宗教と政治の分離

    (Secularism)が明確に謳われた。それはヒンドゥー教とイスラム教の対立を政治に

    持ち込まないための”知恵”であり、上記の悲劇のトラウマを避けるための知恵だった。

 

   ・しかし、それでも現実の政治では、対立はつづき、一般民衆だけではなく、国の指導者

    達もが痛ましい犠牲者になった。

    マハトマ・ガンジーはヒンドゥー教徒に、インディラ・ガンディー首相はシーク教徒に、

    そしてラジブ・ガンディー首相はタミル教徒に暗殺されている。

 

   ーModi首相のヒンドゥー至上主義

   ・そうした深刻な宗教対立と闘争が繰り返されるインドという複雑な国家を、モディ首相

    は多数派のヒンドゥー教徒の支持を結集して指揮しようとしている。

 

  3)言語的多様性   

   ・第一言語としてヒンドゥー語を話す人々が41%、ベンガル語(東部コルカタなど)8%

    テルグ語(南部ハイデラバードなど)7%。さらに各州が公式に認めている言語が22種。

    公式に認められていないが実際に人々が話している言語は1800とも2000とも言われて

    おり極めて多様。

 

   ・インドは英語を話す社会と言われているが、政府の国勢調査(2011)では英語を第一

    言語とする人々は23万人(当時の総人口10億の0.02%)のみ。第二、第三言語として

    の英語をふくめても人口の12%、1.2億人ていど。

   ・一方、インド応用経済研究所NCAERの調査では、英語を流暢に話せるのは4%。一定

    レベル話せて意思疎通可能、20%ほど。4%は5000万人、20%は2億人を超える。

            

   ・インドは司法、立法、行政、ビジネスで、英語はエリート語、共通語として確固たる地位

    司法の世界では「最高裁判所の審理と判決は英語」と憲法で規定。

     

   ・官僚や富裕層の子弟が中心だった英語教育の学校に通わせるのがブーム。英語は子供の

    将来を広げると親は真剣。デリー教育計画行政大学の調査。初等、中等教育のうち英語

    で教える学校(SBS)に通う生徒数は2013年までの5年で2倍。約3000万人、デリー首都圏

    では49%が英語校に通う。しかし、SBSのような私立校で英語教育をうける3000万人は

    インド全体で初等中等教育をうける約2億人の15%にすぎない。

 

 2. 巨大な格差:階層、カースト、民族、地域

   (1)インドは極端な格差社会

    ームンバイの高級地区の一角に、リライアンス財閥の総帥Mukesh Anbaniの住宅が

     聳える。その大きさは六本木ヒルズとほぼ同じ。前衛建築の粋をこらした建物で世界

     最高額の住居。家族は4人。家族を支える従業員は90人。

    ・その地区は貧民地区の囲まれている。数ブロック歩くと貧民窟が並ぶ。

     この極端な対照がインドの格差構造の例示として紹介される。

 

    ・ところで、MukeshはReliance Industries Groupを率いる世界第二の富豪だが、

     Reliance ADA Groupを率いる弟のAnil Ambani氏は、最近、事業に失敗して

     無一文になったと報道された。激動するインド財界の一端を感ずる時件。

     ”The rapid decline of Indian Tycoon” Financial Times, March 18, 2020.

    

    ー私自身の経験:オールドデリーの貧民街。デリーの高級ホテルから車と人力車を

     乗り継いで貧民街をあるく。道路は狭く、家は崩壊寸前。狭い通りには電線が垂れ

     さがって危険。人々(老若男女)は精気なく入り口の階段にうずくまってうつろな

     視線。これらの人々の大半は貧民窟を出たことがなく生涯をそこで終わる人も多い。

 

    ・インド中部の高原の街、ウダイプール。中世に造られたという人造湖。中央に大理石

     づくりの超高級ホテル。岸辺に巨大な大理石づくりの多目的施設:結婚式、会議場。

     ここでの結婚式には数億円の予算をかけて、客を1000人、宴会は1週間、楽隊、象

     行列などをする富裕層の利用も少なくない。対岸にはマハラジャの巨大な宮殿と

     居住施設。

 

    ーインドには相続税がないので、数千億円の資産のある超富裕層の資産は専門コンサル

     の手で、幾何級数的に増殖する。世界の金融都市、ジュネーブ、シンガポール、香港

     などには、こうした超富裕層の資産運用を専門とするFamily officeやPrivate equity

      bankなどが活躍。欧米社会やインド、中国の格差構造を拡大している。

 

   (2)格差の形成要因

   ーカースト

   ・インドでは古来からカーストという身分制がある。カーストは古来からの職業に

     根ざしていることが多い。カーストは伝統的なインド社会の身分階層構造を象徴

     しており、カーストによって職業だけでなく社会的つながりや家族の地位などが

     限定される。結婚はカースト内で行われることが多い。インドの結婚は個人より家族

     が重要なので、異なるカーストに属する家族の結婚は容易でない。名前を聞くだけで

     もカーストがわかることが多い。

   

    ・現代のカーストには大別すると ブラフミン(司祭)、クシャトリア(武人)、

     バイシャ(庶民)シュードラ(隷属民)がある。この下に不可触選民と呼ばれた

     通称ダリットの階層がある。

    ・インド憲法はいかなる差別も禁止している。インド憲法を起草した中心人物は、

     独立インドの初代法相、憲法起草委長のビーム・ラオ・アンベードカル(1891~

     1956)。彼はダリットの家に生まれ、厳しい差別の中で苦学し英国の法曹となった

     だけに憲法にはカースト差別を許さない意志がにじむ。しかし、カーストは社会的慣習

     として牢固に残存。

    ・被差別カーストや社会的に不利は少数民族、貧困層には政府か公務員採用や大学進学

     での優遇措置がある。それに対する社会的不満も多い。

   

    ・IT業界は、このようなカーストによる差別構造を超越する特別な存在。

     カーストは古来から存在した職業別の社会階層構造に直結しているが、ITの歴史は

     20年ほどしかなく、古来の職業とは無関係。そこで、低位カーストの人々にとって

     社会差別や格差を超える唯一の突破口。多くの若者がITに強い憧れと希望をもって

     ITの専門家になろうと努力し、上記のようにその成果がおおきく現れている。

 

   ー地域、民族、宗教、言語要因。

    ・社会的・経済的格差は、地域、民族、宗教、言語などが複合して形成される。

    ・インドは広大な国土があり、西部のグジャラート州、ムンバイのあるマハラシュトラ

     州などは経済発展がすすんでいるが、東部のコルカタ(カルカッタ)のある西ベン

     ガル州や北部ビハール州などは貧困地域。南部のチェンナイ(マドラス)のあるタミル

     ナドウ州や南西部のバンガロールのあるカルナータカ州は商業地域の伝統がある。

    ・これらの地域は、民族的にも相違があり、それはまた彼らの歴史的な社会的経済的

     階層や地位を反映している。

 

    ・宗教も重要な格差要因。インドには多くの宗教があり複雑な社会差別構造につなが

     っているが、とくに、古くから現在までつづいているヒンドゥーとイスラムの対立

     は社会差別構造に深く関わっている。

 

    ・また言語も格差と密接に関連している。多くの言語種族間では多様な差別があるが、

     それらを超える言語として英語が特別な位置づけにある。英語は全国共通の公用語と

     いうよりエリートの必須の条件なので、上記のように教育力のある家族は子弟に

     英語教育を授けることに真剣になる。

  

 3. 人口ボーナスか人口オーナスか

 

  ・インドには現在13億人という巨大な人口があり、出生率が高いのほどなく現在14億人

   規模の中国の人口を上回ると予想されている。インドの特質はその人口の年齢構成が

   若く、平均年齢が25歳。すなわち6~7億人が25歳以下。

  ・彼らが60歳代まで働くとすると、これから平均40年間ほど労働人口が確保できるので、

   それは経済成長への巨大な力になる。これを人口ボーナスという。

 

  ・しかし若い人口が”ボーナス”になるのは、彼らが成長する経済を支えるそれなりの所得の

   ある仕事に就くことが前提。現在のインドは6億人の人口が生産性と所得の低い農業など

   の分野で不完全就業に従事しているので、そのまま人口が高齢化していくと、若い巨大な

   人口は”ボーナス”ではなく、”オーナス”という重荷になるおそれがある。

 

  ・M首相が熱心に”Make in India”を唱えるのは、彼らを生産性と所得がより高い製造業

   に吸収したいという戦略意図があるからだ。インドの工業化のためには、かつて世界が

   瞠目した工業化の実績がある日本が協力できる余地が大きい。

    

 

Ⅶ.   独立インドの発展と英統治の後遺症

 

1. インド独立とその背景

 1)インドの独立

ー1947.8.15深夜、ネルーは国会議事堂で「独立」を宣言。インド共和国憲法、憲法制定議会

 が1947から1949にかけて召集。白熱論戦の末、憲法制定。1949.1.26、共和国憲法記念日。

 憲法はインド政治の土台。

 

ーインド憲法:

 ・国名:インド。ヒンディーではバーラト:反植民地主義を意味。

 ・国家体制:社会主義:国家主導で経済や社会の運営をめざそうとするインド建国理念

 ・国家の立場:世俗主義(Secyuralism):宗教と政治には距離を置く、を憲法に明記。

   

2. 独立の背景:前史

 ・インドの独立には長く複雑で悲惨な前史

 

1)ガンジーの非抵抗、非協力運動

 ・イギリスの植民地支配から脱却をめざしたガンジーの運動。

  非抵抗、非協力運動(1915~1920s)として知られる。

 

 ・ガンディー、1869、グジャラート西端藩王国の商業カーストの家に生まれた。

  不器用、内気、野心家。18歳、追放のリスク犯して妻を残して英国留学、弁護士志望。

  少年時代、ジャイナ教信者の親と貿易商というカーストの影響下、非暴力的ヒンドゥー

  イズム育まれたか?イギリス人の男らしさに憧れるが、なじまず、菜食主義者。

 

 ・帰国後、弁護士界の競争について行けず、1893アフリカへ。南アフリカで現地インド人

  実業界のために活躍。1893~1914の南アフリカ時代が人間形成。西洋人の物質的欲望。

  その結果生じた競争社会の文化への激しい批判。ガンディーの理想は伝統的な農村社会の

  簡素な生活。理想は共和制による自給自足の農村からなる緩やかな連邦国家。

  倫理的にはサティヤーグラハ(真理を保つ力=非暴力)を求めた。

 

 ・腰巻き姿の「マハトマ(偉大な聖者)」として多くの人々を魅了。ガンディーの政治運動に

  多くの人々が注目。故郷のグジャラート州州都アフマダバードに修道場。ビハール州と

  連合州。などの人口稠密地域で、ネルー父と息子ジャワハルラル・ネルー(1889ー1964)

  などがガンディーに心服し、右腕になった。非協力運動で農民運動、労働運動を指導。

 ・「塩の行進」1930. 78人の弟子達と塩をもとめて200Kmを行進。世界が注目

 ・紡績職人を支援するため、カーディ(白の綿布)まとい、糸車を置く姿象徴的。

 

2) 第二次大戦、Quit India 運動と会議派幹部投獄

      Nerhu 「Glimps of World History」

 ・第二次大戦初期(1939~1942)イギリスはインド兵調達に注力。会議派は第一次大戦時

  のように無条件で協力はせず。ガンジーは戦争協力には反対。ネルーはファシズムとの

  戦いなら限定的に協力。イギリスは協力を取り付けるために、クリップス使節団を派遣し

  終戦時にインドに自治権を与えるという構想示して交渉。ただし、統合を希望しない地域に

  強制はしない条件。イギリスはインドの分割独立を含意?

 

 ・交渉決裂を危機感を募らせた会議派は、1942夏、大規模な大衆運動「Quit India(インドか

  ら出てゆけ)」を組織。イギリス軍は残忍に制圧。会議派幹部は終戦後まで3年間勾留。

  会議派の新たな離反」を前にして、イギリスはインドの戦争協力体制を確立するためには、

  会議派以外の勢力の利用を模索。ちなみに、ジャワハルラル・ネルー氏は勾留中の3年間、

  一人娘のインディラ宛に世界史について書簡を書き続け、それがその後、Glimpses of World 

  History 、Penguin Books として出版され、今でも世界史の不朽の名著とされている。

  インド指導者の桁違いの知性が垣間見られる。

 

 3)ジンナーのパキスタン構想とネルーの決断

 ・利用と権力移譲の最有力候補はムスリム連盟。ムスリム連盟はパキスタン構想という政治

  目標を1940に採択。構想は1933ケンブリッジ大学のムスリム留学生グループ。連盟は

  「ムスリムが多数を占める地域は独立諸国家として自治権と主権をもつべし」と主張。   

 ・イギリスは戦時中にムスリムの協力を得たいので、パキスタン構想に肩入れ。インド独立に

  際し、州は”不参加を選択する権利を有する”とのクリップス提案条項はその例。

 

 ・1945.6. ウェーヴェル総督はガンディー、ジンナー、刑務所から釈放されたばかりの会議

  リーダーたちを夏の首都シムラーに招集。総督はヒンドゥー、ムスリムから成るインド人の

  暫定政府創設を提案。ジンナーはムスリムメンバーは全員ムスリム連盟で指名されるべしと

  主張して譲らず、交渉は決裂。

 

 ・1945~1946冬の選挙。会議派は中央議会の一般(非ムスリム)議席の90%を確保して圧勝。

  一方、ムスリムは中央議会のムスリム留保議席数30を独占。地方議会のムスリム留保議席

  500のうち、442を確保。この結果を受け、ムスリム連盟こそ全国のムスリムの唯一の代弁者

  というジンナーの主張を正当とした。

 

 ・会議派とムスリム連盟が妥協できない状況をみて、イギリスは1946.3.閣僚使節団をインドに

  派遣。イギリス案で事態の打開を図ろうとした。それは3層構造の連邦制。その特徴は州の

  グループ分け。第一、第二グループはムスリムが多数を占める東西の諸州。第三グループは

  ヒンドゥーが多数を占める中央部と南部。これらには自治権。ジンナーへの配慮にじむ。

  ムスリムはイギリス案を受諾。

 

 ・今度は会議派が態度を決める。ネルーはイギリス案では中央政府の権限が弱すぎると結論。

  1944.7.10.ネルー演説。はジンナーの主張に近い強制的な州分け案を拒否。ムスリム連盟の

  主張で機能不全となる統一インドよりも、パキスタンを完全な独立国として切り離す方が

  ましというのが不本意ながら会議派の結論。

   

 3. パキスタン分離と大殺戮のトラウマ

 1)国土分割と大虐殺

   ・Adobani「My Country Myself」

 

 ・州分けパキスタン構想を覆されたジンナーは、ムスリム連盟の決意を会議派に思い知らせる

  ため武力行動に訴えた。

 

 ・1946.8.16~20.カルカッタの大虐殺。双方の暴徒により4000人殺害。数千が負傷。

  直後、ビハール州で7000人ムスリムが殺害。ベンガル、ノアカリ地域数千人ヒンドゥー殺害

  1947政争切っ掛けでパンジャーブ州の大虐殺。主役はスィク教徒。

 

 ・パンジャーブ州。独立が近づくにつれ、暴動は全州に拡大。8.16.国境線委員会から州の分割

  を知らされて激昂。激しい暴動。パンジャーブは軍人が多い。彼らは暴徒を組織化し計画的

  に農村、列車、難民の群れを攻撃。一晩に数回も、多くのムスリム居住地を攻撃。難民を乗

  せて国境を越える列車がとくに襲撃対象になった。列車が着くたびに死者と血がながれ、報

  復が繰り返された。

 

 ・死者は数十万人とも100万人とも。生き残った人々は恐怖のあまり自分の宗派集団に依拠。

  パキスタンはムスリムを救援することで、はじめて領土をもつ現実の国として認知された。

  恐怖は前例のない大量の移住者を生んだ。

 

 ・1947年後半の3~4ヶ月で約500万と推計されるヒンドゥーとスィク教徒がパンジャーブ州

   西部からインドに移動し、550万人のムスリムがその反対方向に移動。いわゆる「民族

   浄化」現象。インドの分離独立のために故郷を捨てたインド人は合計1250万人に達した。

 

 ・私は10年ほどまえに島田塾の有志とインドを訪ねたが、その際、BJP創設者の一人、

  L.K.Advani氏に面会する機会があった。Advani氏は私に986pの御大著”My Country, My

      Lifeをご自身の署名入りでくださった。この偉大な書物は、Advani氏の政治家としての

  人生を詳細に述べたものだが、冒頭に多くの紙数を割いてインド独立の際の悲劇、分割

     と殺戮について書いておられる。この悲劇を体験したことが、彼に政治家の道を歩ませること

  になったという。

 

 2)ガンディーの暗殺とヒンドゥーナショナリズム

 ・1948.1.30. マハトマ・ガンジーはデリーで祈祷会中に暗殺された。享年78歳。

  インド分割が避けられない情勢になるとガンディーはこれを深く悲しみ、分割案を検討

  する会議から遠ざかった。実際、ガンディーは、分割を避けるために、ジンナーを統一

  インドの首相にするという提案すらした。

 

 ・ガンディーの暗殺によって、ヒンドゥーナショナリズムの存在が明らかになった。この

  ナショナリズムはガンディーの暗殺者ナトゥラム・ゴードセーの凶悪な行為によって

  突然生まれたものではなかった。ヒンドゥーナショナリズムの淵源は1915「ヒンドゥー大

      教会」。闘争的なヒンドゥーナショナリズムの組織が、1925に創設された「民族方師団」

  RSS。上位カーストの組織された幹部集団。ガンディーが指導する会議派と対立。会員に制服

  を着せて民兵集団。やがて学生、難民、都市の中下流階層からも支持拡大。ガンディー暗殺

  後、彼らは一時、大衆の人気を失った。

 

 3. ネルー・ガンジー王朝の栄光と衰退

 

  1)ネルー王朝

   ネルーは政教分離と社会主義を明確に打ち出した。会議派の獲得票は45%。ただ、他の

  多くの党に票が分散したので、会議派は圧倒的多数。この状態がその後、数十年つづいた。 

  独立後20年(1964年の死まで)はネルーの時代。国民の圧倒的人気。世界にたいしても

  新しい独立国家インドの象徴。

 

   ネルーは新国家構想の中核に計画経済を掲げ、それを実施するため国家計画委員会を創設

  ネルーは1927年にソ連を訪問。その体制を見習って社会主義的国家建設めざした。重工業

  を強化、軍備を含む国の基盤強化めざした。インドは1947独立後、ソ連にならって国家計画

  委員会67年にわたり、国家主導の産業育成、富や資源の再配分、金融部門の公有化など混合

  経済体制を採用し、5ヵ年計画で運営。

 

   ネルーは米ソ対立の冷戦下、一貫して非同盟外交方針を堅持。毛沢東、スカルノとともに

  米ソ両大国の調停役を果たそうとした。しかしその理想は1959年、中国のチベット侵略と

  いう予想外の事態でもろくも崩れ去った。チベットの宗教指導者ダライ・ラマは数千人の

  難民とともにインドに亡命。インド政府から修道場を提供、今日まで亡命生活。

 

   さらにカシミール北部のアクサイチン地方も中印間の紛争地となった。ネルーは中国軍の

  撃退を試みるが失敗。1962、中国はインドを武力攻撃、アッサム高原一帯を占領。中国が

  その後、パキスタンに接近したため、インドは一時的にアメリカ寄りになった。1964.5. 

  社会主義的政策が多方面から批判される中でネルーは他界。

 

   ネルー首相の後を継いで、穏健派のL.B.シャースとリー(1904~1966)が首相に。

  1965、印パ関係が緊張。事実上、戦争状態に。1966.1. ソ連の仲介で停戦条約締結。その

  直後、シャーストリー首相死去。国内経済が危機的状況で後継は急を要したので、国民会議派

  はネルーの一人娘インディラを首相に推薦

 

躍進するIT産業:インドの可能性と課題(1)

以下、3回に亘って掲載します。

 

 

Ⅰ.  はじめに

 

  インドがモディ首相のリーダーシップの下で、IT産業を中心に近年めざましい発展を見せ、

  国際的な存在感も大きく高まっている。

 

 インドの人口構造は若く、これからの市場として日本にとっても巨大な可能性があり、

また地政学的にも日本にとって重要なパートナーとなる可能性がある。

 

 私は私が主催する若手事業家の勉強会「島田村塾」の有志と関係者とともに2020年1月

末から2月上旬にかけてインドを訪問した。私にとってインドは4回目の訪問だが、今回は

これまでとくらべてもインドはさらに一段と発展しており、米中に次ぐ超大国になる可能性を感じさせた。

 

 可能性と同時に、巨大で多様なインドには複雑な課題や旧植民地時代の歴史的後遺症が随所に色濃く残っており、

それをどう克服するかがインドが大国にふさわしいリーダーシップを世界で発揮するためには大きな宿題であることも否定できない。

 

 このエッセイでは、そうした論点に関する私の感想を記してみたいと思う。

 

 

Ⅱ.   躍進するIT産業とIT人材

 

    1. インドIT産業の発展

 

ーインドのIT産業が凄まじい発展を見せている。IT産業はインド南部の都市、バンガロールを

 中心に20年ほど前から急速な発展をみせていたが、近年ではインド全土に点在する主要都市に

 IT産業が集積しつつあり、インドのIT立国化ともいうべき現象が進展している。

 

ーたとえば、デリー近郊の新興都市グルがオン。ここはスズキなど日本企業の立地も多い。モディ

 首相の出身地グジャラート州の州都アーメダバード、中南部テランガナ州のハイデラバード、

 また東南部タミルダノウ州マドラスに近いチェンナイなどが急速な発展を見せている。

 

ーバンガロールはアメリカ西海岸のシリコンバレーが世界のIT産業の中核として急激に成長を 

 加速させた20年ほど前に、シリコンバレーのいわば下請け基地として発展した。シリコンバレ

 でIT産業の仕事量が膨大になるのをうけてソフトウェアなど下流の作業を、人材が豊富で賃金

 が安く、時差が13.5時間という条件を最大に活かしてシリコンバレーのオフショア投資の基地として発展した。

 

ーシリコンバレーの技術者がITシステムの設計などの業務を午後5時に終えると、彼らは   

 インドバンガロールの契約業者にそれを受けたソフトウェア製作などの下流業務を発注する。

 時差が13.5時間なので、翌朝シリコンバレーの技術者が出勤すると昨日注文した作業が

 出来上がってきているとういうわけだ。

 

ーいいかえればシリコンバレーとバンガロールはIT産業の上流と下流の分業と協業で24時間休

 みないフル回転稼働体制を世界規模で構築してめざましい発展を実現したといえる。インドの

 受注先はシリコンバレーに限らず、最近では世界のアウトソーシングの56%をインドが占める。

 

ーそれを反映してインドのIT産業は大量の雇用を実現している。IT業界は直接雇用だけでも 

 現在370万人。ちなみに日本は90万人。

インドは高度IT人材を大量に雇える唯一の国。理工系大学新卒が毎年100万以上。うち20万人 

 がIT業界に。ちなみに、日本の理工系大学卒業生はたった10万人。しかもIIT(インド工科大)

 やNIT(国立工科大)でコンピューターサイエンスを学んだ学生の学力は抜群。世界のトップクラス。

 

ーインドのIT産業はいわば米欧先進国の下請けとして発展してきたが、近年では、欧米IT産業 

 の受け皿として培った経験と学習を生かして、次々に上流の業務に取組み、独自のイノベー

 ションを実現している。そうしたイノベーションの中でも、インドは後発国の弱みをむしろ

 強みに変えて先進国を追い越す(リープフロッグ:カエル跳び)”リバースイノベーション”が

 得意技。貧困や環境汚染などの悪条件を克服する技術開発で先進国を追い抜く革新を実現。

 

ーさらにインドでは近年、スタートアップ企業の起業がめざましく増えている。2010年には

 480、2016年4700~4900、そして2020には1万を超えるというのが専門筋の見方。スタート

 アップ急増の背景:スマートフォンの急速な普及で、ネット経由で様々なビジネスの提供が可能に。

 

  2. インドIT関連人材の世界での大活躍 

 

ー今一つ注目すべきは、世界のIT業界はじめ学会や国際機関などで活躍するインド人材の存在感。

 

ーIT業界の例:

 サティア・ナデラ(Satya Nadella) 2014.2. マイクロソフト3代目CEO、就任。

 ラジーブ・スリ(Rajeev Suri) 2014.5. ノキアCEO、2015.8. GgCEOに、

 スンダー・ スンダー・ピチャイ(Sundar Pichai)2013 Google CEO

  ちなみにGg上級幹部には多数のインド人、

    Nikesh Arora, COO、 クロームOSとアンドロイド担当Sundar Pichai

    Amit Singhal、 サーチエンジン担当     

    Sridhar Ramaswamy、広告とeコマースプラットフォーム

    Vic Gundotra Gg +担当

   なお、2019.10にシリコンバレーのGoogle Campusを訪ねた時点では4万人の従業員

   のうち1万人がインド人だった。

 

 ーシリコンバレーで活躍するインド出身事業家(数字は時価総額:億ドル)

   Baiju Ghatt     Robin hood   株式売買サービスアプリ    60

   Apoorva Mehta  Instacart      食料品delivery service             40

         KR Sridhar     Bloomenergy  燃料電池の開発・販売    30

   Laks Srini          Zenefits     Social Mgt Platform運営   20

         Ragy Thomas   Sprinkly         Backup Appliance提供     20

 

 ー学会の例:

   Nitin Nohria 2010.7. ハーバードBスクール学長、

       Sunil Kumar  2010.1. シカゴ大学Bスクール→Johns Hopkinsに転出

   Madhav V.Rajan シカゴ大学Bスクール 2017.7から後任

   Dipak C.Jain 欧州最高峰BスクールINSEAD      

   Shankar Sastry カリフォルニア大学バークレー、  

   Anantha P. Chandrakasan MIT工学部長

 

 

 ーインド工科大学(IIT)

  ・1947 インド独立後、ネルー首相が訪米時にMITを訪問。MIT学長とインド人留学生と

   面談。アメリカの科学技術の高さに強い印象を持ったネルー首相はインドにも同様な教育

   機関を作ろうということでMITをモデルにしてIITが創設された。現在、IITの23校からは

   毎年約9,000人の最優秀の人材が輩出されている。

 

  ・IIT入試は、100万人以上が受験するJEF(選抜試験)を受け、その中からトップ20万人が

   JEE Advance(上級選抜)を受け、最終的には1万人が合格。その成績順に、希望する

   学校と学部を選べる方式。したがって競争率は100倍以上。世界でも最難関。

 

  ーIIT訪問:

  ・冒頭にふれた島田村塾の今回のインド研修旅行では、バンガロールを拠点に活躍している

   江藤宗彦様(株式会社ドリームインキュベータ DIインド社長)の紹介でIITムンバイを

   訪問した。ここは創設5校グループのひとつでインドの超名門大学。キャンパスは非常に広

   く、日本の神社の参道のような長い導入路の両側には大木がそそり立って、いかにも伝統

   の学府の雰囲気が漂っていた。

 

  ・指定された研究棟に行くと、数名の教授、助教授、助手たちが集まってくれた。彼らは

   いずれも最先端の材料工学、マイクロ3D、レーザー加工のような製造技術、またビッグ

   データのマシンラーニング、あるいはハイブリッドの製造技術など主として製造技術の最先

   端を専門とする人々。IIT側が私達訪問団の関心分野をふまえて対応してくれた模様。

 

  ・多様なテーマについて議論をしたが、インドと日本の共同研究に関心があり、ある教授が

   2x2 モデルすなわち両国で産業代表と学会代表を組み合わせた方式を提案したのが印象的

 

  ーインドとMITの深い関係

   インド独立前からMIT留学はじまっている。

   1882から2000の間、1300人がMIT留学。

   IT分野では、3人のMIT卒業生が初期インドITサービス企業を創業

 

  ー世界で活躍するインド人の強み:(武鑓行雄 『インドシフト』2019 PHP)

   ・論理的思考力

   ・英語によるディベート力、スピーチ力

   ・専門的知識(IT、数学ほか)

   ・マネージメント力やリーダーシップ

   ・多様性ある環境への適応力

 

  ー私見では、武鑓氏の指摘する多様性ある環境への適応力がとくに重要。

   ・インドは極めて多様な社会:多民族、多言語、多宗教、多様な地域特性、カースト

     格差など。

    ・この多様で複雑な社会の激しい選抜競争を生き抜かないと出世の道はない。

    ・インドは通常の一国というよりそれ自体複雑で容赦のない超国歌もしくは小世界。

    ・その競争を生き抜き勝ち抜くことはWorld Cupの世界予選を勝ち抜くのと同等。

    ・インド社会の選抜競争を生き抜いた人材は、世界競争では厳しい予選の勝者。

 

3.    インドの国際的存在感の増大

 

 ーインドは、IT産業などの急速な発展によって経済的に大きな可能性のある国として近年その

  存在感を高めてきた。

  

 ーインドの大きな可能性を求めて、世界の多くの企業がインドに生産や開発拠点を設ける

  動きが加速している。例えば:

  ・IBM、全世界従業員40万人のうち13万人をインドで雇用。10年前の2倍。

    アメリカ国内雇用を上回る。

  ・アクセンチュアは37.5万人のうち、14万以上(37%)をインドで雇用

  ・コグニサント(COGNIZANT)は世界25万の7割17万人をインドで雇用

 

  ・台湾の鴻海(ホンハイ)がインドに生産拠点設立。郭台銘(テリー・ゴウ)董事長、

   2020までにインドに10~12工場建設。100万人雇用発言。最大の生産拠点中国に匹敵。

 

 ーさらに国際政治面、宇宙・航空技術、軍事面でもその存在感を急速に高めている。

 

 ーインドの世界政治での存在感も近年、急速にたかまっている。

 ・それは独立以来1980年頃まで維持した”非同盟主義”から転換し、1990年代以降、経済開放

  を進めて開かれた国際経済競争に参加し、アメリカとも接近。とくに2014年以降のM政権下

  では政治的にも世界での存在感をたかめている。

 ・インドはG20では主要メンバーの役割を果たし、国連安保会議では、日本、ドイツ、

  ブラジルとともにG4として常任理事国拡充を主張。アラブ諸国に多くの出稼ぎ労働者

  を送っていることから慎重だったイスラエルとの接触にも意欲

 

 ー2013.インドは火星探査機「マンガルヤーン」の打ち上げに成功。2014には

   同機は火星の周回軌道にはいった。日本もまだできないことをインドは達成。

 ・2014. 5000~5800km射程のICBM「アグニV」の発射成功。広域攻撃能力の保持明白。  

 

   ー2015.10 インド海軍、新たな海洋安全保障戦略発表。インド洋全域、ペルシャ湾、紅海を

  海洋権益の最重要区域に指定。南シナ海、東シナ海は第二区域。

 ・背景:経済成長によるインド権益領域拡大。石油輸入のシーレン確保。中国との緊張関係

 ・2016、インド軍は初の国産原子力潜水艦アリハントを就役。核ミサイル能力は非公開。

 ・インドは130ないし140の核弾頭保持と推測。

 

 ートランプ大統領訪印:

 ・2020.2月末、トランプ大統領はM首相の招きでインド訪問。10万人の聴衆を前にして

  上機嫌で”America loves India, America respects India!” と持ち上げた。

 ・その後の首脳会談では、アメリカの武器輸出でほ合意したものの、高関税、5G問題

  では合意できず。インドはしたたか。

 

Ⅲ.   インドの可能性

 

   1.  インド成長の可能性

  ーインドの経済発展の可能性は膨大

  ・インドの経済発展の経緯を過去数十年にわったて通観すると、インドは中国より約15年

   遅れて中国の発展の奇跡を辿っている(江藤宗彦氏:株式会社ドリームインキュベータ 

   インド社長)。  

  ・中国の実質GDPは1960年頃には数十億ドルで微々たるものだったが、2002年には2兆ドル

   を越え、2010年には4兆ドルを超えて日本を上回った。

  ・これに対し、インドは1975年頃に中国の1960年頃の水準。2017年に2002年の中国に

   ならんだが、インドは人口が若いので、これがやがて生産力となることが見込まれ、

   15年後には現在の中国の水準となることが見込まれる。

      

 2. 人口ボーナス

  ーインドの突出した強みは人口が若いこと。

  ・現在平均年齢は約25歳。現在13億人の人口の約半数が25歳以下。

   つまり6億人以上の人口がこれから40年間は労働力として経済活動に貢献。

 

  ・国連は2022にはインド人口が中国を抜き、世界1となると予測。インドのTFRは2.4。

   こんごも人口は増える。インドの人口ボーナスはこれからで、2040頃までつづくと

   見られている。それは経済成長をささえる強力な力すなわち”人口ボーナス”になる。

 

  ・しかも、インドは現在まだ経済発展の途上にあって賃金水準が低い。

   インドの人材の一部は高度な教育によって訓練され、理数系の高い学力を

   もち、彼らが上記のようにIT産業などで活躍してインドの経済発展を牽引。

   

 3. 見え始めた成長戦略の実効性

  ーインドの経済はWWII後の独立以降も長期にわたって低迷状態だったが、

   20世紀末から成長率をたかめ、21世紀に入るとその成長が加速している。

 

  ・インド経済の成長を牽引しているのはIT産業。IT産業は伝統的な製造業と異なり、

   大規模な設備投資が不要。2010年以降はスマートフォン人口が増え、膨大な情報

   が蓄積され、それを活用した新事業が発展。

 

  ・スタートアップ企業による起業が増え、その中には数年で巨大企業に発展する

   ユニコーンも増えた。ユニコーンの成長は市場の大きさに依存する。インドには

   ユニコーンを増加させる基礎条件がある。

 

  ー2014年に政権を握ったモディ首相はこうしたインドの成長可能性を具現すると期待

   される。

 

Ⅳ.   IT基地バンガロールの驚異的発展

 

 1. 世界のIT基地バンガロールBg

  ーインドはバンガロールを中核にしてIT産業が発展し、それが全国に伝播している。

  ・バンガロールで急速に進んだIT産業の集積には海外企業の直接投資が大きく貢献。

  バンガロールに拠点を構える著名IT企業の例:

   ・ソフトウェア、Internet、IT機器:MS, Gg, アマゾン、オラクル、SAP、アドビシス

    テムズ、HP、Dell, EMC, ネットアップ。

   ・ITサービス、コンサルティング:IBM, アクセンチュア、キャップジェミニ

   ・半導体:TI,  Intel,  Qualcom, AMD, エヌビィデア、アーム、

   ・通信・ネットワーク機器: シスコシステムズ、ジュニパーネットワークス、ノキア

     エリクソン、Huaweiなど。

 

 2. Off Shore開発が発展の契機

 ーBgは1990sからインドIT産業中心地として発展した。

  ・それはとくにオフショアの開発拠点として世界的に注目された。

  ・とりわけ、シリコンバレーがBgを活用した。

   英語ができるので、アメリカ人と意思疎通しやすい。人件費が欧米より格段に安い。

  ・13.5時間の時差があるので「アメリカの夜中にインドで作業。翌朝には成果が仕上がる」

  Bgには多数の技術系大学があり、新卒エンジニアを毎年多数輩出。

      

  ー90sになると、MS,インテル、オラクル、シスコシステムズ、フィリップス、シーメンス

   など拠点を開設

  ・2000sになるとITテクノロジーの爆発的な普及で、IT業界は空前の好況。

   とくにY2K問題(2000を越えると世界中のシステムが誤作動するとされた)で膨大な

   ソフトウェアの修正作業が必要となり、それへの貢献で実力が評価された。

 

  ーBgで最先端研究が進む理由

  ・新しい分野の専門家を育てやすい。たとえばビッグデータの解析は歴史が浅いので、

   データサイエンティストは世界的に少ないが、インドは最先端のITを理解し、モチベー

   ションの高い若手IT人材がケタ違い。毎年、輩出される理工系学部卒業生は約100万人。

   その中から20万人がIT業界に採用。

 

  ー背景にラディブ・ガンディーの政策。 

  ・1984. コンピュータの輸入関税を大幅に引き下げるラジブガンディー政権の「新

   コンピューター政策」がインドのIT国家戦略の本格的推進の契機に。

 

  ・1986、ソフトウェア輸出促進の指針も。

   IT分野に海外から大型直接投資始まり、南部のバンガロールでは海外IT企業の拠点設立

   相次ぐ。ラジブガンディー首相は1991にテロで死亡。しかしインド政府は情報通信を

   専門とするIT省」を設立するなど政策的にIT産業の振興をはかってきた。

 

 3. Off Shoreから自主開発へ

 ー現在のBgは下流工程だけ請け負うオフショア開発拠点だけではない。

 ・最先端のテクノロジーを用いた研究開発など上流工程の戦略開発拠点に脱皮しつつある。

  今では、クライアントのニーズに合わせてシステムの機能などを決める「要件定義」など

  上流工程も請け負う。

 

 ・インド大手ITサービス企業は、戦略的にBuffa Resource(余剰人員)抱える。新しいPT

  を受注した時に対応できるため。人的余裕でRDチーム編成。時代先取り総合サービス可能。

  高度IT人材をこれほど雇える国は世界でインドだけ。

 

 ー近年、IT業界は、技術仕様やプログラムのソースコードなどを公開する「オープン化」が

  トレンド。リナックスやアンドロイドなどはソースコード公開。インドの優秀なエンジニア

  はすぐに理解し活用できる。インドの高度IT人材を大量に雇って鍛えれば、データサイエン

  ティストなど自前で育てられる。またIoTはブロックチェーンなど最新技術でもすぐキャッ

  チアップできる。

 

 ーBgのインフォシス社内研修施設「グローバル・Education Center」は世界最大の

  training center。専任講師600人。1万人以上を同時に訓練。

  インフォシス入社者は全員がこのキャンパスで4ヶ月から半年訓練。初心者が

  アメリカ大学のコンピューターサイエンス学部卒業レベルに到達する。

 

 4. 世界のinnovationセンター、スタートアップSU熱

  ー今やBgは世界的なSUハブとして脚光。インドSU急増。

  ・テクノロジーSU2016。US:52000~53000、UK:4900~5200、

   インド、4700~4900、イスラエル:4500~4600、中国:4200

 

  ・インド:2010:480、2016:4700~4900、2020:10500~11000?

   SUが増えた理由:スマートフォンの急速な普及で、ネット経由で様々なビジネス提供

   可能に。インド平均年齢25歳、ほとんどがデジタルネイティブ世代。スマートフォンの

   普及で膨大な潜在顧客層創出。

  ・またデータ通信費用が大きく低下したので、SU立ち上げの初期費用削減。

   PC、スマホ、クラウド環境あれば起業できる。通信費用低下にはReliance Jio社が

   大きく貢献。

 

  ーReliance Jio社訪問:

   インドのデータ通信コストの急削減にはReliance財閥兄弟の兄が立ち上げたJioが

   大きく貢献。通信が4Gのモバイル通信の時代にはいり、Jio社ではモバイル通信参入時

   にしばらくタダにして市場の通信価格を格段に下げた。そのおかげでインドのデータ通信

   価格は国際的にももっとも安価。Reliance財閥は、貧困階級の出身でグジャラート州の

   小学校の教師をしていたAnil Dhirubhai Ambani氏が創設。今では世界屈指の巨大企業

   グループ。村塾研修団はムンバイの隣市にあるJio社を訪ね、執行社長から懇切の講義を受けた。

     

  ーエコシステムの充実も重要

    VC180社、エンジェル・個人投資家350人、2016投資総額40億ドル

    US610億、中国480億、欧州120億に次ぐ。イスラエル22億、日本13.5億を上回る

 

  ー島田村塾研修グループは、上記の江藤宗彦氏の紹介で、バンガロール、グルがオン、ムン

   バイなどで多くのベンチャー企業を訪ねた。例えば一定期間、好きな車を所有できるカー

   シェアリングベンチャーのRevv社、心電図のAI解析ベンチャーTricog社オンラインの

   保険勧誘サービスベンチャーTurtlemint社など創設ほどない意欲的なベンチャー企業が

   印象的だった。

 

  ー同時に、日本からはるばるインドに来て、バンガロールでMarket Drive社というe-

   Commerce企業を起業した意欲満々のベンチャー経営者、伊藤太氏からインドの

   ベンチャー事情を身近に聞いたことは貴重な勉強になった。

 

  ・伊藤氏は数年前に日本でアプリで結婚紹介をする事業を起業したが、心に期するところが

   あって青雲の志に萌える若者が競いあっているインドに人生の夢をかけて飛び込んだと

   いう。彼はやがて10兆円規模のユニコーンを育てたいとしており、気宇壮大な若い日本

   の起業家の姿に明日への勇気が湧く思いだった。

 

Ⅴ.    Modiが変えるインド

 

 1. Modi政権が変えるインド

 

  1)2014選挙。BJP(インド人民党)の圧勝。

  ・下院545席中、BJPは282。単独で過半数。インドでは30年ぶり。

   2014.5.26 M政権正式発足

 

  2)M政権の基本方針

   ・MのBJP政権は、独立後長期にわたって政権を独占してきた国民会議派の憲法に明記され

    た思想と政治路線を否定。BJP型の思想と政治を打ち出す。

   ・「反植民地主義」:反英⇒繁栄のために機会の平等、競争による雇用と成長

   ・「社会主義:平等と計画経済⇒計画委員会廃止。M独自の官邸主導組織。

   ・「世俗主義」:宗教と政治の分離、多宗教容認⇒ヒンドゥー至上主義。

 

 2. Modi首相の経済戦略

  

  1)M式ガバナンスの特徴:

   ・国民会議派流の多数の合意を重視、5ヵ年計画など計画にもとづく政策決定の

    方式を廃止。官邸主導のトップダウンで政策打ち出し。

 

  2)華々しい政策提案

  ー「Make in India」製造業振興総合政策

    ・インドは製造業基盤が大国としては貧弱。

     インドは自動車生産では韓国抜き、粗鋼生産では中国、日本につぐ3位。

     しかしインド経済が人口増を吸収できる7%を超える成長を達成するには、雇用吸収力

     の高い製造業の拡充が不可欠。GDP総額のうち16%程度の製造業セクターを25%に拡

     大し、雇用吸収と経済成長達成。

    ・製造業を成長のエンジンとするため、日本の「太平洋ベルト地帯」をモデルにした

     産業ベルトの建設志向。

    ・デリー首都圏とムンバイ間、約1500kmを貨物専用鉄道で結び、沿線の両側150kmで

     産業開発を展開。デリーームンバイ間産業大動脈(DMIC)国家PT.

 

  ー「スキル・インディア」若者の職業能力開発政策。2015発表

     人材豊富。工学系の大卒150万人。中国一人当たりGDP1万ドル、インド2000ドル。

 

    ・「 Digital India 」「スタートアップ・インディア」IT育成政策

     インドの強みであるIT産業の一層の育成と発展を推進するための政策パッケージ。

      例えば 2016.1.開始された「スタートアップインディア」

       9項目のアクションアイテム発表。

         モバイルアプリで1日で法人設立

         コンプライアンス(法令遵守)監視の自己申告制

         低コストで迅速な特許審査

         失敗ケースの迅速な清算手続き

  

  ー「 Clean India」環境整備策

      2015,11に開催された環境保護国際協定Paris Accord.COP 21。

       先進国と途上国の利害が対立。途上国グループの代表格のインドは難しい立場

       M首相は開催ギリギリまで待って、パリ協定賛同を宣言。

       同時に、パリで太陽光発電を促進する国際ソーラー同盟創設を発表して国際

       リーダーシップをアピール。ちなみに発表の日はマハトマ・ガンディー生誕記念日

     

  ー高額紙幣廃止の爆弾宣言

  ・2016.11.8. TV演説。「腐敗やブラックマネーを根絶するため、今夜、午前零時に

   現行の1000rpと500rp札を無効とする。市民は10日から銀行で旧札を新札に交換

   せよ」当初は混乱と批判噴出

  ・数ヶ月後、痛みの記憶が遠ざかると、市民の高額紙幣廃止への評価が変わり始め

   次第に支持増えた。  

  ・高額紙幣廃止のいまひとつの効果。

   デビットカード、クレジットカードが一気に普及。携帯やスマホを使う電子決済が

   急速な広まり。高額紙幣廃止には、ブラックマネーのあぶり出しだけでない、現金決済

   からの社会の転換というねらい。

  ・高額紙幣廃止から3ヶ月後、2017.2.国内5州地方選挙「反汚職」「経済開発」をかかげた

   BJPが4州で政権。Mは勝った。

 

 ー「アーダール・ナンバー(基礎番号)」(インド式マイナンバー制度)。

  ・アーダール(ヒンディー語で基礎を意味)13億人情報をひとつのデータベースに集約  

  ・個人認証の方法が世界最先端。10本の指の指紋、目の虹彩の情報登録。

   カードや暗証番号なしに個人認証できる。

  ・既に12億人以上が参加、4億人分の銀行口座が固有識別番号にリンク。

   電子投票システムも。インドの識字率の低さや投票箱の盗難など選挙妨害にも対応。

  ・数年前まで遅れていた認証が世界最先端に。典型的はLeap flog戦略。

 

 ー間接税の一本化。会議派時代から検討。しかし税収減を警戒する地域政党の反対で実現

   しなかった。Mは、政権発足直後から改革の目玉。ねじれ国会で少数派の上院でも

   法案をとおし、品目ごとに全国一律税率(サービス、物品)の導入に成功。

 

 ー2019.5.23. インド下院総選挙。BJP圧勝。300議席以上を単独で確保。友党と

   合わせると350議席以上の大勝利。Mは2024まで5年政権担う。選挙直前まで2014選挙

   の総定数545の下院で獲得したの282を割り込むとの予測。結果は、前回より21議席上積

   み。ツナミと言われた。

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