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2015年7月

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第7幕「第二次世界大戦と日米戦争」

第7幕「第二次世界大戦と日米戦争」

1. 第二次大戦勃発
  ○第二次大戦勃発   
   ー独ソ不可侵条約直後の1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵入し、9月3日
    これに対して英仏が宣戦布告。第二次世界大戦勃発。日本外交に外交転換の好機。
   
   ー平沼の次の阿部信行内閣は汪兆銘政権樹立で停滞し、アメリカとの国交回復にも失敗し
    通商航海条約廃棄は発効。物価上昇、社会不安も深刻で、内閣はささいなキッカケ
    で1940年1月に総辞職。

   ーその次は、海軍の米内光政が組閣。米内内閣は、現状維持的な性格。懸案の汪兆銘政権
    樹立もようやく3月に実現。

   ーところが1940年4月、膠着していた西部戦線でドイツが電撃戦。5月にはオランダ、
    ベルギー、ルクセンブルク、6月にはフランスを降伏させた。このような情勢の急変
    で日本の世論もまた一変。

 ○近衛第二次内閣(1940年7月)と大政翼賛会
  ーオランダ、フランスの崩壊により東南アジアに力の真空。イギリスが降伏すれば真空は
   さらに拡大。日米通商航海条約の廃棄もあり、南方の資源は日本にとって喉から手が出る
   ほど欲しかった。こうして対独接近と南方進出を説く声が高まる。近衛は新党結成の準備
   非常な人気。陸軍が陸相の辞職で米内内閣を倒すと、近衛が再び組閣。1940年7月。

  ー近衛の組閣とともに近衛新党運動は一段と活発になり、既成政党はこの流れに取り
   残されまいと、次々に解党してこれに参加。10月に成立したのは「大政翼賛会」
   という巨大組織。しかし内実は乏しい。

 ○三国同盟成立(1940年9月)と松岡洋右 
 ー外相には「英雄」松岡洋右。背後に外務省中堅の革新派の支持。松岡はただちに日独
   関係強化、9月日独伊三国同盟成立させた。次いで対ソ交渉着手。1941年4月、日ソ
   中立条約締結。このような日独ソ提携の力を背景にアメリカと交渉、松岡の方針。

  ー松岡が日ソ条約の調印に成功した頃、近衛首相の周辺では日米関係改善のための
   秘密の日米交渉が進みつつあった。しかし帰国した松岡が興味を示さなかったため、
   1941年7月、近衛はいったん総辞職し、再度大命降下を受けて第三次近衛内閣組閣。
   日米交渉をすすめるために松岡を切った。


 ○日本軍仏印進駐(1940年9月)アメリカの態度硬化

 ー日本軍は、重慶政府が屈服せぬのは援蒋ルートからの在外中国人他の支援のせいと判断
      「援蒋」ルート:
        ・雲南省昆明からビルマ、3000kmの山岳ルート
        ・仏領インドシナへのフランス・インドルート
        ・新チャン省からソ連に至る西北ルート
   その遮断をはかるべく仏印進駐(1940)。東南アジアを経由する列国の対中援助を遮断
   して中国を屈服に追い込む、また東南アジアの戦略資源確保し、英米への依存脱却
   ねらい。これが英米の反発を呼び、日中戦争の国際的拡大へ。
 
  ー蒋介石:抗日戦争の国際化はかねての予測・期待。
   日本の南進とドイツ・イタリアとの枢軸同盟が英米とくに米国の強い反発
   アメリカの対中支援。1940年9月の日本の仏印進駐はさみ、4500万ドル借款
   くず鉄対日禁輸、11月、汪兆銘制権との「日華基本条約」ただちに否認。
   重慶政府への借款、アメリカ5回 6.2億ドル、英、5800万ポンド。


  2. 日米戦争

  ○日米交渉不調
  ー1940年末から断続的に続けられた日米交渉、アメリカはより非妥協的に。
   近衛は対米関係に依然として鈍感。第三次内閣組閣してすぐ、日本は7月
   に仏印進駐。今度はアメリカは在米日本資産の凍結および石油の輸出禁止で応じた。

   ーアメリカの態度は、7月ころからさらに厳しくなる。理由は独ソ戦。6月に独ソ戦が勃発
   アメリカはもはや日本に不本意な譲歩・遠慮は不要になった。しかし、日本はまだ日米
   交渉に期待をかけ、近衛・ルーズベルト頂上会談を考えたがアメリカは応じなかった。

  ○御前会議と東条英機内閣
   ー1941年9月6日、御前会議で、10月下旬をメドとする対米英欄戦争の準備が決定。
    一方、日米交渉は進展せず、第三次近衛内閣総辞職。
    10月18日、東条英機、首相に任命。和平の最大の障碍である陸軍のリーダーを起用し、
    責任ある態度をとらせようとの判断。11月5日の御前会議、日米交渉の最終案決定。
    それがまとまらない場合には、12月初旬に武力発動を決意すると定められた。

   ーこの頃、「近衛日記」によると、山本は近衛に日米戦争の見込みを問われ「それは是非
    やれといわれれば初めの半年は1年の間は随分暴れて御覧に入れる。しかしながら、2年
    3年となれば全く確信は持てぬ」と述べたという。井上成美は戦後、この時の山本の
    発言について「優柔不断な近衛さんにはっきりと海軍はやれません。戦えば必ず
    負けます」と言うべきだった、と指摘。
     山本はその後、嶋田繁太郎への手紙で、近衛公は「随分と人を馬鹿にしたる口吻にて
    現海軍の大臣や次官に不平を言われり。是等の言い分は近衛公の常習にて驚くに足らず
    近衛公に信頼して海軍が足を地から離すことは危険千万にして誠に陛下に対し申し訳
    なき事なりとの感を深く致候」と書いた。

  ○ハルノートと真珠湾攻撃
   ーしかし、1941年11月26日、アメリカのハル国務長官は日本提案を拒否し、これまで
    の日米交渉を白紙に戻すに等しいハルノートを示した。アメリカ側には妥協案もあった
    が、イギリス、中国、ソ連はアメリカの参戦を期待し、働きかけたこともあって強硬策
    が選択された。

   ーただ、ハルノートは期限が付されておらず、必ずしも最後通牒ではなく、さらに
     交渉することは不可能ではなかった。吉田茂などはそう考えた。しかし大多数の
     関係者は、ハルノートで戦争不可避と考えた。(北岡見解)。

   ー日本はハルノートは受け入れ不可として、1941年12月8日、真珠湾攻撃に踏み切った。
    これに対して米英も対日宣戦布告、中国も日本と同盟国ドイツ・イタリアに宣戦布告
   (12月9日)。

    
 3. 敗戦へ

 ○蒋介石の悲願:太平洋戦争
  ー太平洋戦争勃発は、蒋介石にとり、満州事変以来の中国の政略(日中問題の国際的
   解決)が苦難の果てに達成されたことを意味。

  ー日本は結局、敗戦まで中国には宣戦布告せず。日本のとっての中国の相手は重慶政府
    ではなく、南京にこしらえた王政権だったから。

  ー1942年1月、「連合国共同宣言」中国、英米ソなど25ヶ国調印。連合国軍結成。
    中国戦線の最高司令官、蒋介石任命。3月、参謀長Stillwell将軍、重慶着任。

    日本:開戦と同時に上海租界制圧、香港攻略・1941年末占領。
    援蒋ルートの要ビルマ・ルートも1942年2月ビルマ占領で遮断。
    マレー半島からシンガポール攻略。マレーの虎、山下奉文大将、パーシバル将軍降伏。
    この遮断は、マレー・シンガポールの失陥による東南アジアからの
    華僑義援金送金の激減とあわせ中国抗戦体制に打撃。
    ただ、中国軍の勢力は、アメリカの武器供与などによって徐徐に高まる。

   ー1942年10月、米英両国、中国に対する不平等条約廃棄発表。
    1943年1月、治外法権撤廃等の条約に調印。中国は4大国の扱い。条約上も確認。
 ○混迷つづく中国戦線
  ー中ソ関係はしばしば中国を落胆。ソ連は抗日戦争初期には数少ない支援国だったが。
    ドイツと日本の軍事的脅威が現実になると、独ソ不可侵条約(1939年8月)
    日ソ中立条約(1941年4月)締結。とくに日ソ中立条約には「ソ連は満州国の
    領土保全と不可侵の尊重を保証・・」と明示。領土問題にも踏み込んでおり、
    中国の対ソ世論不信感↑。

   ー国共の相互不信増幅。国民党は華北の抗日根拠地の拡大と八路軍の増強に脅威。
    共産党は、国民党は日本軍に妥協して反共に転ずるのでは、との疑念。
    国民党は1939年1月「異党活動制限辯法」以来、共産党の活動にタガはめる措置。
    不服従の場合は武力行使も辞さず。1941年1月、華中の新四軍事件。攻撃・武装解除
    国民党による財政締め付け、日本軍の掃討作戦で、辺区を苦境に。

   ー共産党、組織の簡素化、生産性向上、税制改革などで組織強化はかる。
    共産党は、辺区をしだいに「解放区」と呼ぶように。独立自主方針により強調。

   ー日本の大本営は、1942年9月、重慶攻略作戦準備命じたが、11月に作戦中止発表。
    太平洋戦争の戦局は急速に日本不利に。中国戦線で積極攻勢できる状態ではない。

   ー重慶(大後方も)政府の抗戦体制にも困難。モノ不足とインフレが汚職・腐敗を
    助長。公的組織が密輸、密売。蒋介石の義兄、孔祥熈の米ドル公債不正、辞任で
    幕引き。重慶政府のひずみ、ゆがみは「独裁批判」世論を高め、統治基盤を侵食。

   ー共産党の整風運動。:日本軍の掃討作戦、国民政府の財政締め付け・軍事封鎖の危機感
    を、党の内部かため、組織の規律強化、党員の思想統一のエネルギーに転化。

  ○カイロ会談とヤルタ会談
   ー太平洋戦争の戦局、連合国側、日本を圧倒。
    当初の半年のみ戦果:真珠湾攻撃、シンガポール攻略、ミッドウェイ海戦以来惨敗。
   ーヨーロッパ戦線でも。9月イタリア降伏。

   ー1943年11月、カイロ会談。米英中3国。
     宣言:日本にたいして無条件降伏、台湾・満州の中国返還。朝鮮の独立要求。

   ー1945年2月、ヤルタ会談、米英ソ。
     密約、ソ連の対日参戦の条件、
     中国に関しては、中国の主権を著しく侵害するもの:
          (外蒙古の現状維持、大連、旅順へのソ連の権益保障、
           中東鉄道、満鉄線の中ソ合弁とソ連の特殊権益の保障。)
     ルーズベルトは、中国戦線での反抗が進まない中、強力なソ連参戦を促したかった?
     蒋介石は激怒。しかし国力の違いでやむなく受けいれ。

     しかしその後、ソ連と交渉重ね、ソ連参戦後、8月14日、中ソ友好同盟条約締結。
     ヤルタの内容を基本的に認めるのと引き換えに、東北の領土・主権・行政権を
     中国が有する。国民政府が新疆省の管理権を全面的に回復、中共が国民政府の
     軍令・政令に服すること、ソ連が中共を支援せずと宣言する。ソ連容認。

  ○アメリカの中国支援
   ー大戦中に中国の「大国化」を後押ししたのはアメリカ。中国の外交はアメリカ基軸に。
    しかし戦局は、中国戦線膠着。太平洋戦線はアメリカ圧倒。
    日本への爆撃基地でも中国の重要性低下。日本軍は長期抵抗の予測。
    中国軍の実力では大規模な反抗は困難?スターリンの対日参戦要請。

    アメリカは中国戦線参謀長ステルウェルを通じ、訓練された中国軍のビルマ戦線投入も
    要望。蒋介石は共産党との抗争不可避と考え、対中援助物資の中共への分配を拒否。
    ステルウェルは蒋介石の指揮能力、抗戦意欲に疑念。両者に亀裂、軋轢。

    ルーズベルトは中国戦線の惨状に危機感。中国全軍の指揮権をスティルウェルに移譲する
    よう強硬に迫った。蒋介石はこれを屈辱と受けとめ、また移譲によってさらに威信低下
    をおそれて逆にスティルウェルの解任を要求。ルーズベルトはこれ以上こだわると
    蒋介石は失脚して中国が戦線離脱するリスクも考慮し、受け入れ。
    アメリカの対中感情は一時的に悪化。だが、中国の政治的統一と安定が戦後に予想
    されるアメリカ主導の国際体制再構築にとって重要。

    国民政府としても、国内政治改革による安定確保は至上命題。1945年5月、第六回
    党大会(党員265万)で、戦後の復興プラン、憲政推進、憲法制定のための国民大会
    を1945年11月の孫文生誕記念日に招集、決定。

 ○太平洋戦線全面敗退と大陸打通作戦
   ー1944年4月、太平洋戦線での相次ぐ敗退で日本は制海権はもとより、海上交通権喪失、
    日本軍は中国大陸での陸上交通の確保と空軍基地破壊のため、「大陸打通作戦
   (一号作戦)」開始。兵員41万、作戦距離2000km。日中戦争中最大規模軍事攻勢。
    
   ー1944年末までに、河南省の洛陽、湖南省の長沙、衡陽、広西省の桂林、柳州、南寧、
    貴州省の独山をあいつぎ占領。作戦は「打通」では成功。しかし大局的には意味無し。
    鉄道、道路は破壊されており使い物にならず。米空軍の爆撃は成都の移動して続行。
    やがて44年8月マリワナ諸島占領後は、ここを日本本土爆撃の主要基地として使用。

 ○ポツダム宣言と日本の敗戦
   ー1945年4月、米軍沖縄上陸。5月、ベルリンをソ連軍が包囲、ドイツ降伏。
    中国では「打通」で手薄になった華北被占領地に八路軍が侵攻して解放区を拡大。
    1945年7月、米英ソの首脳がドイツ、ポツダムで会談。
    日本の降伏条件(日本の領土削減、軍備撤廃、戦犯裁判、連合国による占領)決定。
    中国の承認を得たのち、26日に米英中の共同宣言として発表(ポツダム宣言)。
    のちにソ連も加わる。

    日本がその受諾を決断できないでいるうちに、広島・長崎に原爆が投下。ソ連は
    対日参戦(8月8日に宣戦布告、9日に侵攻)。これにより戦争継続を断念した政府は、
    8月10日に天皇制の護持を条件とするポツダム宣言受諾の意向を連合国側に伝えた。

 ○蒋介石の「以徳報怨」:
   1945年8月15日、午前の蒋介石のラジオ放送:「8年間にわたって受けた苦痛と犠牲を
  回顧し、これが世界で最後の戦争になることを希望するとともに、日本人に対して一切の
  報復を禁じた。「不念旧悪(過去の罪悪をいつまでも恨むな)」「与人為善(人のために
  善を為せ)と論じた演説はのちに「以徳報怨」(徳を以て怨みに報いよ)の4文字に集約。
  敗戦国日本にたいする中華民国の基本方針を見なされるようになった。

   この演説には、44個師団105万人の大規模に展開していた支那派遣軍がその軍備など
  が共産党軍に渡らぬ洋国民党軍に円滑に委譲させるための戦略的意図も含まれた?

 ○その後、第二次国共内戦に破れた蒋介石は国民党軍を率いて1949年に台湾に移動。

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第6幕「日中戦争と傀儡政権」

第6幕「日中戦争と傀儡政権」

○盧溝橋事件
ー組閣から1ヶ月、1937年7月7日、北京郊外で、盧溝橋事件勃発。盧溝橋付近で夜間演習を
  していた支那駐屯軍の1中隊に対して発砲があり、中隊長が点呼。兵1人が行方不明。豊台の
  大隊本部に連絡。大隊本部は主力を現地に急派。盧溝橋付近に展開した日本軍は、翌8日午前
  5時半頃から永定河堤で中国軍と衝突。実は不明兵は当夜のうちに原隊に復帰していた。

 ー中国側では前年12月の西安事変以来内戦はほぼ停止。「一致抗日」の体制づくりが進んだ。 
  蒋介石には、これが偶発でなく日本軍の計画的行動との推定情報も。蒋介石は9日には中央軍
  含む4個師団に「守土抗戦」増援命令。妥協なき徹底抗戦指示。

 ー盧溝橋事件は柳条湖事件とは異なり偶発事件。当初は政府も現地軍の局地解決の方針。
  しかし、やがて華北問題を一挙に解決するため、中国に一撃を加えるべき、との議論
  が台頭。 

 ー1937年、支那事変(日中戦争)開始時、石原莞爾は参謀本部作戦部長として不拡大方針。
  しかし作戦課長の武藤などは強硬路線を主張。石原は不拡大で、参謀本部をまとめ得ず。
石原はこのままでは早期和平方針を実現できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に
 「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意をしめし、近衛首相自ら南京に飛び、
 蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したが、
 近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。

 石原は戦争が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与
 したが、当時の関東軍参謀長、東条英機ら陸軍中枢と対立。1937年9月の参謀本部機構改革
 では石原は参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷。

  翌年から参謀長の東条英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東条の
 不仲が決定的。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育て
 ようと考えていたが、これを理解しない東条を「東条上等兵」と呼んでバカ呼ばわりをした。

 東条も、上官に対して無遠慮に自説を主張することに不快感をもち、石原の批判的言動を
「許すべからざるもの」と思っていた。1938年、関東軍参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官、
 さらに閑職へ。東条の根回しとされる。太平洋戦争開戦前の1941年3月に現役を退いて
 予備役へ。以降は言論活動などにいそしむ。敗戦後の東京裁判では戦犯にならなかった。

ー近衛文麿内閣は当初、「現地解決、不拡大」方針。しかし、11日、中国中央軍北上情報が
 入ると、この紛争を「北支事変」と決定。中国側の計画的武力抗日と断定。
 華北派兵増派。参謀本部も関東軍と朝鮮軍に出動指令。停戦交渉継続の中で、戦闘は北平周辺
 から天津に拡大。7月28日、日本軍による平津(しん)北平・天津地域での全面攻撃に発展。

ー蒋介石は当初、国民には抗戦の決意を伝え、日本には和平のシグナルとなる談話を慎重
 に練って発表。日本軍は平津地域の全面攻撃でこれに応えた。増援強化された日本軍
 にはかなわず北平(無血開城)、天津を失い、保定方面に撤退。

ー蒋介石は和平絶望・徹底抗戦を声明。国民政府8月7日国防会議開催。第一期、100万
 兵力動員計画策定。華北には75万。武器弾薬備蓄は6ヶ月。持久戦を1年程度と見込む。

2. 第二次上海事変

 ○第二次上海事変
 ー上海近辺でも軍事緊張高まり。1937/8/13、海軍陸戦隊と中国軍の戦端開始。日本政府は
  陸軍二個師団派兵決定。中国も1932年の停戦協定破棄。空爆を含む大規模攻勢。
  日中戦争の上海波及。[第二次上海事変]。

 ー中国軍、数で上回り優勢。日本、長崎から海軍航空隊による南京への渡洋爆撃敢行。
  陸軍二個師団増援展開、中国、逐次大部隊投入。上海周辺2ヶ月以上も、ベルダン以来
  最大の凄惨な攻防。日中両国とも宣戦布告せず。事変のまま。

 ー8月30日には海軍から、31日には陸軍から増派の要請。石原莞爾参謀本部第一部長一人が
  不拡大を名目に派兵をしぶっていたが、9月9日、台湾守備隊、第9、13、101師団に動員
  命令が下された。9月末までに、第11師団は戦死1560、戦傷3980、第3師団は戦死1080、
   戦傷3589、9月27日、石原莞爾部長の罷免が決定した。

   蒋介石は上海戦で英米の介入に期待。国際連盟に日本の侵略を提訴し、対日制裁要求
   つづけた。しかし援助申出てきたのはソ連のみ。警戒感はあったが、国内共
共産党にも
   配慮して受けいれ。アメリカは停戦を呼びかけたが、日本への輸出は継続。英国も
   アメリカの協力なくして強い動きはできず。

  ー日本、1937年10月までに5個師団(上海派遣軍)約20万投入。中国は40万で頑強な抵抗
  (中国軍、当時、220万。うち練度・装備優れた中央軍90万、蒋介石直系部隊40〜50万)
   精鋭の約半分が3ヶ月半にわたる上海防衛戦に投入。9月下旬以降は蒋介石自身
   が上海戦区司令長官兼務:異例!執念示す。

  ー日本軍は戦死9000という損害被りつつ、11月中旬には租界を除く上海全市を制圧。
   中国軍は20〜25万の死傷者。市街地と周辺の破壊惨状。

 ○日独伊三国防共協定(1937年11月)
  ー近衛政権は、1937年11月、日独防共協定にイタリーも参加し「日独伊三国防共協定」
   締結。ドイツは1938年3月オーストリア併合。5月満州国承認。中国から軍事顧問団
   引揚げ。対中国武器供与停止。日本は1938年7月ソ連との国境紛争(張鼓峰事件
   で軍事的敗北。ドイツとの提携強化は魅力的。

3. 国民政府首都を重慶に

  ー1937年11月5日、中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形と
  なり、指揮命令系統が混乱したまま総退却。11月15日から18日にかけて、南京において
  高級幕僚会議。トラウトマン和平調停工作もにらみながら、南京固守作戦の方針決定。

 ー11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命。同時に重慶に遷都を宣言し、暫定
  首都となる漢口に中央諸機関の移設を開始。

4. 南京陥落と南京事件

○南京陥落と南京事件
 ー1937年11月、第二次上海事変に投入された松井石根率いる上海派遣軍と第10軍は、軍中央
  の方針を無視して首都南京に攻め上がった。12月1日、軍中央は、現地軍の方針を追認
  形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対して南京攻略命令を下達した。
  12月8日、中支那方面軍は南京を包囲。12月9日、同軍司令官松井石根は、中国軍に対して
  無血開城を勧告。中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は進撃開始。
  12月13日に南京入城。
 ー当時の上海軍の発表では、南京本防御線攻撃から南京城完全攻略まで、日本側戦死800人、
  戦傷4000、中国側:遺棄死体8.4万。捕虜10500。等。
 ーこの南京での戦闘は、多数の市民が巻き添えで殺害されたとの報道が国際的にも多く伝えら
  れ、いわゆる”南京大虐殺”として日本軍への国際的非難が集中した。戦後の東京裁判でも
  焦点のひとつになった。
 ー“大虐殺”の犠牲者は3万人とも30万人とも言われ、未だに事実は不透明。
  中国軍が敗走する過程で、多数の死傷兵が遺棄されたこと、また日本軍が中国投降兵
  を捕虜として扱わず、給養不能を理由に殺害した事例が少なくなかったことなどが
  報告されている。
  一般民衆が犠牲者になったか、については欧米記者などの証言が報告されているが、
  直接目撃したという証言と、目撃はしなかったという証言など混在。中国の投降兵や
  敗残兵が、私服で逃走を図ったところを、“便衣隊”として殺害された例も多かったとされる
  がそれが一般民衆の殺害と混同された面もあると推察される。
 ーいずれにせよ、多数の戦闘員、非戦闘員が戦闘中ならびに戦闘後の混乱のなかで犠牲者に
  なったことは南京攻略の惨禍として特筆される。
  南京攻略に参加した日本軍の質の問題も看過できない。その大半は正規兵でなく予備役
  ないし後備役であった。現役精鋭師団は本土に温存。1938年のデータでは、
  中国方面10個師団の現役兵比率は、17%、と推計されている。
  
 ー南京陥落後、日本はドイツを仲介に立てた和平工作(トラウトマン工作)にいったんは
    応ずる姿勢。しかし中国を敗戦国とみなす日本の要求がエスカレートし、中国は受け
    入れ難く、交渉打ち切り。

○第一次近衛声明(1938.1.16)
  ー1938年1月16日、日本政府は「爾後、国民政府を対手をせず、帝国と提携する
    に足る新興支那政権の成立発展を期待し・・」(第一次近衛声明)。
    蒋介石政権を抹殺した上での傀儡政権樹立へ戦略変更。

   ー北方戦線。日本軍攻勢。西はチャハル省、山西省、すい遠省へ。
    南は、京漢(北京←→武漢)、津浦(天津←→南京)兩鉄道線に沿って、
    河南省、山東省、黄河の線まで作戦展開。

  ○傀儡政権樹立
   ー占領地域では1937年末までに次々に傀儡政権樹立。
     張家口の蒙きょう連合委員会(11月)
     北京(日本占領後に北平から改称)の中華民国臨時政府(12月)
     南京の中華民国維新政府(1938年3月)など。
    近衛声明が言う「新興支那政権」
   
   ーこれに参加した人々は実力も声望も失った旧軍人や政客。占領地統治など不能。
    日本は「事変」としたので、占領地に軍政を布けず傀儡政権立てざるを得ず。
    拡大した戦線を維持するために派遣された日本軍は1937年末までに16個師団。
    (日露戦争をはるかに超える)

   ー中国側:上海戦敗北、南京防衛戦失敗、華北の喪失、蒋介石政権にとって大打撃のはず
 これら軍事的敗北で政権は弱体化し、地方政権に転落と日本側は予測。
    しかし、蒋介石政権はその抗戦の姿勢を評価され、求心力むしろ強化。

  ー1938年5月、近衛は内閣改造。宇垣外相、池田成彬(三井総帥)を蔵相兼商工相。
   1月の「対手とせず」声明が失敗と気づき、その転換を図るため。宇垣は中国に多くの
   権益をもつイギリスと交渉。国民党の孔祥煕行政院長を相手とする和平交渉に着手。
   これには陸軍、外務省からも反撥。かつて英米派だった外務省にもアジア派と枢軸国
   とむすぶ革新派が中堅若手の多数に。近衛の支持も不十分な宇垣は9月に辞任。

  ○第二次国共合作(1938年9月23日)と戦線拡大
    国共両党の政策協定は結ばれなかったが、共産党が三民主義を奉じて国難に対処する
    との国共合作宣言を発し、9/23に蒋介石が共産党の合法的地位を認め、第二次国共
    合作が成立。

   ー長江両岸沿いに西進した日本軍は、中国軍の抵抗で損害受けつつも(戦死者2万と推計)
    1938年10月下旬には中国軍の退却した武漢を占領。並行して、日本軍は外国から香港
    経由の補給路を断つべく、広州作戦実施。守備軍が武漢戦に引き抜かれて手薄だった
    広州は武漢占領の1週前に日本軍の手に陥ちた。かくて、中国の沿海部、長江沿岸の
    主要都市は開戦1年半の間に軒並み日本軍が占領。

   ーかつての清国は敵軍が北京に迫れば皇帝は逃亡。占領されれば屈辱的条約。しかし
    この頃の国民政府は首都どころか要地をほとんど占領されても抗戦やめず。
    中華民国25年で育まれた中国ナショナリズム。ナショナリズムの醸成に決定的な
 触媒になったのが、日本の侵略。日本が戦火を拡大すればするほどナショナリズム
    高揚。抵抗が日本の想像を超えて強化。 
 
   ー不拡大方針をなし崩しに戦線拡大の結果、日本は武漢、広州、を占領した1938年末
    100万に近い部隊を中国に。国内は近衛師団のみ。軍事動員力は限界に。

   ー日本政府の判断と方針。武漢・広州の占領で抗日支那政権を粉砕したと考え、
    軍事的にはとるに足らない存在となった重慶の国民政府を分裂・屈服させる方針。

 ○「東亜新秩序」第二次近衛声明(1938年11月3日)
  ー1938年11月3日、近衛声明「日本が提唱する東亜新秩序建設に参加するなら
    国民政府も拒否しない」。(事実上の中国からの列強の締め出し)

  ー東亜新秩序構想にアメリカは強く反撥。アメリカは、「いかなる国もその主権に属さない
   地域について新秩序なるものの建設を指図する資格はない」「門戸解放原則を無視した
   新秩序は認めない」と強く非難。

  ーこれと前後してアメリカは中国に対し、事実上の借款供与に踏み切った。
   これまで一応、中立を守ってきたアメリカが、ここで中国援助の方針を打ち出した。
   日米戦争の思想的起源は「東亜新秩序構想」にあったと言える(北岡伸一)。

5. 傀儡政権と汪兆銘南京国民政府

 ○汪兆銘傀儡南京国民政府
  ー新秩序の不可欠要素が、汪兆銘工作。中国国民党で蒋介石に次ぐ実力者の汪兆銘を
   重慶から脱出させて新しい政府を作らせ、これと和平を結ぼうとの工作。

  ー汪兆銘は国民党副総裁、国民政府行政院長。孫文を継承する革命党の巨頭。
信望大。
    汪兆銘は、武漢失陥の前後から対日妥協による「和平救国」唱え、日本側と
    水面下の交渉。1938年11月、王派と日本軍関係者で「日華協議記録」
    日華防共協定、満州国の承認、治安回復後2年以内に日本軍撤兵、合意。
    王は11月18日、一党を率いて重慶脱出。

   ー汪兆銘ら、重慶→昆明→ハノイへ。
    第三次近衛声明(12月22日)。汪兆銘の重慶脱出に合わせて発表約していたもの。
    善隣友好、共同防共、経済提携、しかし日本軍撤兵の文字なし。
    日本は「日華協議記録」合意後に、御前会議で、要求をさらに上積みした
    「日支新関係調整方針」を決定して上乗せ。汪兆銘、衝撃と落胆。期待していた
    雲南省の龍雲ら地方実力者の同調もおこらず。

   ー日本軍未占領地で和平派政権樹立の構想は当初からつまずき。ペテンで梯子はずされ。
    同調者もなく。遺された道。日本軍占領地で軍の言い分を聞くだけの傀儡政権。
    要求積み上げる日本側との交渉1年。1940年3月、南京に「国民政府」組織。
    既存の傀儡政権、臨時政府(北京)と維新政府(南京)も合流。
    王派の威望のなさは予想以上。重慶政権は瓦解どころかかえって求心力高まる。

   ー汪兆銘派は「漢奸」(異民族に協力する裏切り者)の汚名を避けたく重慶政府とひそか
    に連絡。南京国民政府の使い道。物資確保、労働力徴発、通貨発行(インフレ対応)。
    日本の労働力不足を補う中国人労働力の移入(1942年決定)、主に戦禍のよる窮乏
    が深刻だった華北地方から。1943年以降、約40万人が傀儡政権の協力で日本へ。
    これは事実上の拉致・強制連行に近い。

  ○持久戦へ:国民政府、共産党
   ー日本軍:1938年12月はじめ、これまでの大量攻勢を変え、長期対峙戦略。
 最小限の兵力で占領地の治安回復、反日勢力の掃討。

   ー中国側:広大な国土で長期持久戦を志向してはいたが、主要都市の相次ぐ失陥は
    予想以上の軍事的、経済的苦境。中国軍の兵員数は日本を上回っていたが、個々の
    部隊の火力の弱さと組織的用兵術の欠如、補給態勢の不備は、膨大な損害に。
   ー蒋介石、武漢失陥後の11月、湖南省の南岳、軍事会議で新方針。
    軍における政治部の強化、民衆の動員と遊撃戦を中心とする持久戦。

   ー共産党は遊撃戦による長期抗戦をさらに強調。毛沢東『持久戦を論ず』(1938)。
    抗日戦争は、戦略的退却、対峙、反抗。対峙段階では民衆の遊撃が有効とした。
    「抗日根拠地」を農村部に構築。日本軍の戦線拡大過程での暴虐、収奪は抗日の
    エネルギーに。抗日根拠地の増大、拡大。やがて行政区「○○辺区」に。

   ー対峙状態に入って、日本軍は、戦闘力の高い常設師団を随時内地に帰還させ、
    守備任務に適した警備用師団と戦闘力のおとる独立混成旅団を多数、抗日根拠地が
    広がる華北に展開。広範な地域に展開したので、1km2あたり日本兵1人の配置。
    1940年時点では0.37人。分散配置と軍紀の劣化した日本軍は抗日住民と八路軍の
    襲撃に悩まされた。
   
   ー八路軍の大作戦。1940年夏から秋「百団作戦」。100あまりの団、20万人動員。
    山西省から河北にかけて鉄道、通信線、日本軍警備拠点への一斉攻撃。予期せぬ
    大被害。日本軍死傷者5000人。中国側も2万超える死傷者。

   ー日本はただちに報復戦「燼滅作戦」。軍ばかりでなく疑わしい住民も死滅せよ。

 中国は「三光作戦:焼きつくし、殺し尽くし、奪い尽くす」と呼んだ。八路軍も
    根拠地でも大被害。

   ー奥地に押し込められた国民政府も苦境。大後方(内陸部西南6省、西北5省)は経済的に
    遅れ。限られた大後方の経済資源は、工業建設と援助物資の運輸ルート確保に優先。

  ○三国同盟強化に海軍反対、近衛内閣総辞職(1939年1月)
   ー三国同盟強化に海軍は反対。対独接近が日英そして日米関係悪化させる恐れ大。
    この問題を解決できず、近衛は1939年1月、辞職。

   ー近衛の後、平沼騏一郎が首相に。対米関係は著しく困難に。東亜新秩序後、アメリカは
    対中支持明確に。英国も同調。1939年7月、日米通商航海条約廃棄通告。
    日本はこの年、5月そして7〜8月、モンゴル人民共和国と満州国との国境での
    戦闘でソ連軍に完敗(ノモンハン事件)。

   ー防共協定の強化は海軍の反対で合意ならず。そこに8月「独ソ不可侵条約」締結。
    平沼首相「欧州の天地は複雑怪奇なる現象を生じ・・」として内閣総辞職。

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第5幕「満州事変と2.26事件」

第5幕「満州事変と2.26事件」

 1. 政党政治の混迷と陸軍の政治的台頭
   ーこの頃(昭和初期 1924〜32年)、内閣の寿命が短い。短命と不安定。
    (以下、北岡分析)
   ー有権者の増加によって伝統的地盤だけでは勝てない。政権を利用した政治資金調達や
    選挙干渉も。野党は政権獲得に奔走。そのため首相奏薦に決定的な力を持つ元老の
    西園寺に接近、反対党のスキャンダルを暴き、軍や枢密院など政党政治に敵対的な
    集団と提携したり、政党政治否定原理に訴えることも。

   ー護憲三派内閣(第一次加藤高明内閣)は、公約だった普通選挙法が成立する(1925年
    3月)や否や政友会は倒閣に走り、高橋是清を引退させて田中義一を総裁に迎え入れ、
    (4月)、革新倶楽部と合体して議席数を増やし(5月)、税制改革をめぐる不一致で
    内閣を倒したが、加藤に大命が降下してもくろみはずれた。

   ー第二次加藤内閣は、加藤の病没で半年。つづいて、憲政会の若槻礼次郎が組閣(1926
    年1月)。これに政友会は執拗なスキャンダル攻撃。また憲政会の中国政策を無策と
    攻撃。枢密院の力を借りてこれを倒した(1927年4月)。

   ーこうして成立した田中内閣は人気低迷。第16回総選挙で鈴木喜三郎内務大臣は選挙
    結果で政権が移動することは天皇大権に反すると政党政治否定論まで。田中内閣は
    中国政策の転換を訴えたが成功せず、山東出兵を行い、北伐軍と衝突して済南事件
    (1928年5月)。張作霖爆殺事件(1928年6月)の処理を誤って天皇の不信任を
    受けて辞職(1929年7月)。

   ー田中内閣の後、民政党(憲政会と政友本党が1927年6月合体して成立)総裁の
    浜口雄幸が組閣。浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結した時、政友会は内閣が
    海軍軍令部の意見を不当に無視し、統帥権を干犯したと非難。浜口はテロで重傷
    負って退任。その後の第二次若槻内閣は満州事変を処理できずに閣内不一致で辞職。

   ーこれに代わった犬養毅政友会内閣は、民政党の不人気に乗じて第18回総選挙で大勝
    したが、1932年2月、海軍士官を中心とする5.15事件で倒れた。

   ーこのような過激な政争で、政党は自ら国民の不信を招き、政党政治に敵対的な政治集団
    を力づけた。政党政治の基礎を堀崩したのは政党自身。1930年代、経済が行き詰まり、
    国防の危機を訴え、満蒙権益の危機を訴えた軍の台頭に政党はとうてい対応し得ず。

   ー事実として政権交代がつづいたのは、首相の奏薦の任にあたった元老が比較的公平な
    判断をしたから。山県と違って強大な勢力をもたなかった西園寺は、何よりも政権の
    安定を期待。政党間の政権移動はそのひとつの方法だった?

 ○陸軍皇道派の台頭
   ー政党政治とW体制の打破を掲げる集団が陸軍中堅層に台頭。
     陸士出身:永田鉄山、小畑敏四郎、板垣征四郎、石原莞爾ら。
     定期的に会合。彼らが、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎らを擁立して
     陸軍の改革と満蒙問題に解決に邁進しようと申し合わせ、1929年。

 1925年8月20日、容共派の重鎮、孫文の有力後継者と目されていた膠仲鎧が暗殺。幹部による
調査委員会。刺客は逮捕されており、糾明は容易だが、問題はその暗殺計画に胡漢民の従兄が
関与。長年の同志、反共右派の代表者である胡に首謀者としての容疑がかけられたため、蒋介石は胡を拘束のうえ、ソ連への出国をすすめた。胡はソ連に去って失脚。蒋介石はついで、軍事部長兼広東省長の許崇智に事件の責任をとるよう要求、失脚。

 主要幹部が死亡、失脚したので、蒋介石は権力集中。第二次東征で陳炯明の本拠地恵州陥落。
広東の軍事的統一達成。1926年1月、第二回党大会、蒋介石は汪兆銘(容共派)に次ぐ2位となり中央執行委員会常務委員。2月には国民革命軍総監に就任。 蒋介石は北伐を志向したが、
共産党もソ連顧問団も時期尚早と反対。ソ連の援助は重要だが、蒋介石は次第にソ連や中国共産党の動きに不信感。とくに国共合作による中共の勢力拡大は看過しえなかった。

 このような状況下で、1926年3月、中山艦事件。共産党員が艦長を務める国民革命軍の軍艦「中山」が、軍総監、蒋介石の許可なく広州から軍官学校のある黄埔へ航行。蒋介石は艦長を逮捕、広州市内に戒厳令。ソ連軍事顧問団公邸、共産党が指導する広州の省港ストライキ委員会
を包囲。労働者糾察隊の武器を没収。蒋介石はこの事件を利用して共産党やソ連の軍事顧問団を
牽制した。党内の支持基盤は弱く、共産党やソ連代表団に支えられて政権を維持してきて汪兆銘
は、自分の権力基盤がゆらいだことに動揺し、3月21日、病気療養を理由にフランスに出国。事実上失脚。かくて蒋介石は国民党の権力を全面掌握。

蒋介石はさらに最高権力者の地位を固めて行く。4月16日、蒋介石は国民政府軍事委員会主席に
選出。5月に開催された第二期中全会で、党中央組織部長。この会議で、党務整理案を承認。
共産党員は国民党の訓令に絶対服従。中央部長職から共産党員を排除。さらに7月6日の臨時党大会で、中央執行委員会常務委員会主席に就任。党と軍の最高職を得た蒋介石は孫文の後継者としての地位を確実なものとした。孫文の後継者として北伐に乗り出す。

 1926年6月5日、蒋介石は国民革命軍総司令に就任。7月1日、北伐宣言および国民革命軍動員令。北伐に参加する国民革命軍は全8軍25個師団、約10万。国民革命軍の中核部隊は黄埔軍官学校出身者だったが、短期の養成には限界があり、蒋介石直系の第一軍以外の軍団は、各地の軍閥などを糾合。非国民党系の部隊を多く抱え
込まざるを得ず、総司令として各軍の統率の手腕が
問われる。

 国民革命軍は破竹の勢いで各地を制圧していった。7月に長沙、8月に湖南省全域、10月には
革命の勃発地である武漢を占領。湖南、湖北を制圧したのち、江西では蒋介石自ら作戦を指揮。
11月には南昌を占領。11月下旬には挟西省、12月には福建省も支配下に。民衆の支持は、「農民協会」で組織化。上海など都市部の自治運動も反軍閥色と強め、北伐軍を支援。

 1927年1月、武漢占領をうけて国民政府は武漢に遷都した。国民党右派の要人は蒋介石とともに北伐に参加し、南昌の司令部に滞在していたため、武漢国民政府の要職の多くは左派で占められた。蒋介石の権勢拡大に危機感を深めた左派はホロディンと結んで蒋介石から権力を剥奪しようとする。遷都直前、先行して武漢に入ったかれらは国民党第二期3中全会の武漢開催を決議。
そこで蒋介石の権限を抑え、左派の領袖、汪兆銘をフランスから呼び戻して国民政府主席に
据えようと画策。

 蒋介石は南昌の総司令部で作戦を指揮し、武漢の国民政府に合流しようとしなかった。武漢は
共産党に乗っとられた政権に見えた。蒋介石は武漢の一連の会議は正当性がないとして、国民党第二期3中全会を南昌で開催することを決定した。しかし、武漢側の工作で、南昌の党中央執行委員多数が武漢に赴いたため、南昌側の正当性がゆらぎ、武漢側が有利となった。北伐の軍事作戦中で武漢側との決裂を避けたい蒋介石は、武漢訪問や汪兆銘復職に賛同するなど妥協。

 結局、国民党第二期3中全会は武漢で開かれ、党中央執行委員会常務委員会主席職の廃止、国民革命軍総司令の権限縮小、集団指導体制の確立が決議。蒋介石の権限は縮小され、共産党が重視する委員会には共産党員が委員として参加。共産党員がはじめて閣僚として参加。汪兆銘の国民政府主席復職、党中央執行委員会常務委員会の首席委員、党中央組織部長就任が決定。
  武漢分共の後、国民党の武漢側と南京側は党の再統合に向けた交渉を開始。経済・軍事で
  優位な南京側と蒋介石の下野に固執して武漢側の溝はなかなか埋まらない。蒋介石が徐州
  の闘いで孫伝芳軍に予期せぬ敗北を喫し、蒋介石は周囲の説得を受け入れて一時下野。

○蒋介石と田中義一首相会談
ー下野表明した蒋介石は1927年9月末、私人の資格で日本訪問。11月5日、私人とは言え、
 田中義一首相との非公式会談。蒋介石は北伐支援を求め、田中は北伐を急がず長江以南を
 固めよと主張。実りのない会談。田中首相は、満州・北支は日本が統治の考え?

ー済南事件や張作霖爆殺事件など田中の首相在任時に起きた一連の対中干渉政策がその後の
 中国側の反日感情を決定的にした。

○宗美齢との婚約
ー約40日にわたった訪日(蒋介石はその後再び日本を訪れることはなかった)で蒋介石が
 得た収穫のひとつ。有馬温泉に湯治中の宗美齢の母親を訪ね、美齢との結婚許可を得たこと。 
 宗美齢は宗家三姉妹の末妹。孫文夫人の宗慶齢の妹。この結婚で蒋介石は孫文の義弟という
 政治資本を得た。美齢の兄が国民政府財政部長の宗子文。長姉、宗霞あい齢が孔祥煕(その
 後、同工商部長)夫人。

 こうしたなか、北伐軍は1928年3月22日に上海、24日に南京に入城。4月12日、蒋介石は共産主義者の容疑者数千人に対して攻撃開始(上海クーデター)。国民政府を南京に設立。国民党から共産主義者を排除、ソヴィエトからの顧問は追放。これが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府(武漢政府)は大衆に支持されず、軍事的にも弱体。まもなく蒋介石と地元江西に軍閥李宗仁にとってかわられ、結局、汪兆銘は蒋介石に降伏し、南京政府に参加した。

ー北伐軍、北京へ。第二次北伐のさなかに、その後の中国と日本の不幸な歴史の予兆とも
 言うべき血なまぐさい事件が起きている。済南事変と張作霖爆殺事件。

           
2. 済南事変、張作霖爆殺事件

○済南事変

 済南は山東省の主要な商業都市。山東省の居留民(1927年末)は16940人、済南に2160。
青島に13640人。

 1928年1月蒋介石が国民革命軍の総司令官に就任。2月に内部で協議し、4月7日国民党は北伐宣言。南軍の内部にはいわゆる客軍が多く、蒋介石の指令、監督が徹底しない。現場で略奪、暴行など働く危険が多い。1927年の南京事件、漢口事件も南軍兵士による同様な被害の例。

 日本側は日本の権益と居留民の保護を理由として4月下旬出兵(第二次山東出兵)。4月20日、
臨時済南派遣隊到着。第六師団は青島に留まっていたが、4月29日、南軍によって膠済鉄道と
電線が破壊されたため、5月2日済南到着。済南に3539人が終結。

 5月1日、済南が南軍の手に落ちると、日本国旗侮辱や反日ビラ頻発、囚人解放、市内は騒然・緊迫。蒋介石総司令官は治安は中国軍が確保するので、日本軍は撤去して欲しいと要望。斎藤警備司令官はそれをうけて防御施設など撤去。問題は革命軍の排日傾向と前年の南京事件にも関わった客軍部隊が済南に到着していたことを日本軍が軽視していたこと。

 国民革命軍兵士が邦人店舗略奪事件。これがきっかけに日本軍と革命軍が衝突。国民政府は
日本軍の不当な攻撃と諸外国や国際連盟の働きかけたが、第三国でもそれは支那一流の宣伝と
受け止められた面もあった。NY times, North China Daily Newsなども中国側主張に疑問。
どちらにどれだけ非があったかについては諸説。

日本側は日本人居留民の被害(暴行、略奪、死傷、破壊行為)など多数(400数+人)の記録。

5月4日、日本は緊急閣議を開いて、増派を決定。5月7日の時点で、南軍は済南を包囲し、千仏山の山砲は日本軍に向けて準備中、済南城内でも戦闘準備中。日本軍兵力は1/10程度。蒋介石は
5月6日午前、ひそかに済南城を脱出。

5月5日、南軍によって惨殺陵辱され遺棄された日本人の死体が発見されると、軍民は激高。積極鷹懲罰。5月7日、午後4時、12時間の期限つきで、暴虐行為に関係した高級武官の処刑、日本軍に抗争した部隊の武装解除、南軍は済南および膠済鉄道沿線12km以外に隔離を要求。南軍が
これを拒否したため、日本軍は済南周囲を掃討、済南城を砲撃。砲撃は司令部と城壁に限定。
安全地帯と避難路を指定。南軍は夜、城外に脱出。5月11日、日本軍は抵抗なしに済南城を占領。
ー中国軍が衝突回避を優先して撤退北上したため、済南は日本軍の占領するところとなり
 その後さらに増派された日本軍によって山東鉄道の沿線地域がほぼ1年にわたり占領。

 済南事変は、日中関係はもとより、東アジアをめぐる国際政治の大きな転換点となった。
 (1)それまでイギリスを主要敵としてきた中国の反帝運動が明確に日本を標的にした。
 (2)蒋介石らの対日感情を決定的に悪化させた。
 (3)第一次済南出兵には同調的だった英米両国が、国民政府に接近し日本に批判的になった
 (4)出先機関(現地軍)が事件を拡大・激化させ、それに軍中央、政府が追従して軍の増派。
 それをメディア・世論が中国に懲罰をと後押し。このパターンはそれ以降の対中国侵略で増幅。   


○張作霖爆殺事件

  関東軍は軍閥をとおした間接統治には限界がある。傀儡政権による間接統治(満州国建国)
を画策。張作霖の東三省復帰は満州国建国の障碍になるとして排除方針。

 4/19、北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定。
5/3、済南事件が起きた。5月16日、もし満州に侵入したら、南北両軍の武装解除を行うことを
閣議決定。アメリカから事前説明要求。5/19ケロッグ国務長官「満州は中華民国の領土」
同国の領土保全を定めた9ヶ国条約を提示。しかし5/20関係当局の協議で「既定方針どおり」に進めることになったが、田中首相は難色。関東軍宛に錦州出動予定中止を打電。河本大作は「田中首相がアメリカに気兼ねしてためらった」とした。*政府統治機能不全あきらか。

 村岡長太郎関東軍司令官は、国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐには、奉天軍の武装解除、および張作霖の下野が必要と考え、関東軍の錦州までの派遣を中央に要請していたが、田中首相が認めないので、村岡司令官は張作霖の暗殺を決意?河本大作大佐は当初は村岡司令官の発意に
反対したが、のちに独自全責任をもって決行したとする。

 1928年6月4日早朝、蒋介石率いる北伐軍との決戦を断念して満州に引き上げる途上の
張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊の皇姑屯(こうことん)の京奉線と満鉄連長線
の立体交差地点を時速10kmほどで通過中、満鉄線の橋脚の仕掛けられていた黄色火薬300kが
爆発。列車は大破炎上。張作霖は両手、両足を吹き飛ばされ、現場で虫の息ながら「日本軍が
やった」と言い残したという。警備、側近の17名が死亡。さらに軍関係者など数名は途中下車
や先行列車に乗り換えるなどで被害から免れた者もいた。

 関東軍司令部は、国民党の犯行に見せかけて張作霖を暗殺する計画を、関東軍司令官村岡
長太郎中将が発案。河本大作大佐が全責任を負って決行する。河本からの指示で、6月4日早朝、
爆薬の準備は、現場の守備担当だった独立守備隊第四中隊長の東宮鉄男大尉ら3人が協力して
行った。現場指揮は東宮大尉。他のふたりは張作霖が乗っていると見られる特別車両を狙って
独立守備隊の監視所から爆薬に点火。なお、特別車両は西太后がお召し列車として使用して
いたもの。河本らは、あらかじめ買収しておいた中国人アヘン患者3名を現場近くに連れ出して銃剣で刺殺。死体を放置して「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)のしわざ」と偽装工作して発表。しかし、死んだふりをしていた一人が逃亡し、張学良のもとに駆け込んで事情を話したため、
偽装がばれた。ただ、毛沢東は後に、これはコミンテルンの謀略とするなど、多くの仮説がある。
田中首相は12月24日、天皇に、これは河本大佐が発案し、少数に指令して実行したもので、その犯行を認めたうえで処分することを上奏。しかし陸軍の閣僚、重臣らが強く反対。白川陸相は
再三にわたり関東軍に問題はない、と上奏。うやむやな幕引きをはかった。その圧力の下で、
田中首相は、翌年6月27日、「陸相の上奏のように関東軍は爆殺には無関係と判明しましたが、警備上の手落ちはあり、責任者を処分します」旨、上奏。天皇は「それでは前と話が違うではないか」と叱責。田中首相が恐縮して弁解しようとすると鈴木貫太郎侍従長が「田中のいうことは
ちっとも判らぬ。もう聞きたくない」とした。鈴木侍従長から天皇の不快感を聞かされた田中首相は引責辞任の腹を固め、内閣総辞職。河本は停職ののち陸軍から除隊。

 爆殺事件が起きたとき、息子の張学良(当時27歳)は北京にいたが、父の死を知るや
日本側に知られぬよう変装して奉天に戻り、迅速に後継体制を整えた。その間の10数日、
張作霖死亡の事実は伏せられ、6月21日になってようやく「本日逝去」と発表された。
張学良もまた父の爆殺が関東軍によるものであることを確信していたが、当面日本を刺激せぬ
よう注意しつつ国民党と結ぶ道を選んだ。
 日本側は、張学良と国民党の接触に神経をとがらせ、硬軟織り交ぜて圧力をかけたが、
張学良はそれに屈せず、この年の暮れ12月29日に「易幟(えきし)」を断行。易幟とは
旗印を替えること。すなわちここ東三省にも「青天白日旗」が一斉に翻った。これは国民政府
を中国の正統政権と認めることを意味する。

ー国民政府はこれに応えて張学良を東北辺防軍司令長官に任命。さらに東北における国民党
 の活動を制限し、東北政権の内政には干渉しないという条件を承認。またこれと引き換え
 に東三省にかかわる外交権は国民党が掌握することに。かくて商租権や鉄道問題など、
 いわゆる「満蒙諸懸案」をもっぱら東北政権と交渉して解決するという従来の日本の
 外交方針は行き詰まりが明白。満州事変はこの行き詰まり打破の意味も。

ー蒋介石は国民革命軍を4つの集団軍に再編し、北伐を再開。北伐軍は1928年6月8日、北京に
入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。北京に到着すると、蒋介石は孫文の遺体に
敬意を表し、首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祀った。そして12月には満州軍閥
張学良が蒋介石政府に忠誠を誓い、国民政府による中国の再統一は成った。

 蒋介石は、孫文の後継者としての立場を確立するために華麗な演出をした。1927年12月1日、蒋介石は浙江省財閥の宗嘉樹の娘、宗美齢(孫文の妻、宗慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。ちなみに蒋介石は以前にも宗慶齢に求婚したが、即座に断られている。
 
 宗美齢は日中戦争が激化する中で、得意の英語力とアメリカに培った人脈をフルに活用して
ルーズベルト大統領はじめアメリカの政治上層部に働きかけ、中国への戦略的支持を引き出して
行った。また、カイロ会談では通訳をするなど大活躍をした。


○パリ不戦条約
 1928年8月27日、パリにおいて、アメリカ、イギリス、どいつ、フランス、日本、イタリア
 など列強15ヶ国が署名。その後、ソ連など63ヶ国が署名。
 不戦条約、戦争放棄に関する条約、国際紛争を解決する手段として、協約国相互での戦争を
 放棄し、紛争は平和的手段で解決することを規定。
 これに違反して戦争に訴えるならば、不戦条約違反となるので、他の条約国は法的に条約上の
 義務を免除される(戦争で報復できる)。

  
3. 柳条湖事件と満州事変

 ー世界恐慌の影響深刻。日本、1930年春から景気どん底。済南事変以来、高まる排日、南満州
  鉄道の経営悪化、張学良体制下での満州利権交渉の不調など。日本の対中政策行き詰まり。

ー石原莞爾「満蒙問題の解決は、日本が領有することではじめて達せられる」の考え。
  関東軍参謀石原莞爾、同高級参謀 板垣征四郎が、謀略による満州軍事占領をはかった。

 ー1931年頃、関東軍参謀の石原莞爾は満州での謀略を契機に全満州を占領する計画まとめた。
  張作霖爆殺事件(1928年)の失敗を繰り返さぬよう今回の計画はより周到に準備。

 1931年9月18日(金曜日)午後10時20分頃、奉天(現、瀋陽市)の北方、約7.5kmにある
柳条湖付近で、南満州鉄道の線路の一部が爆発で破壊された。

まもなく関東軍より、この爆破事件は中国軍の犯行によるものと発表。日本では終戦まで
張学良らによる東北軍の犯行と信じられていたが、実際には関東軍の謀略だった。

首謀者は、関東軍高級参謀、板垣征四郎大佐と、関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐。
爆破を担当したのは独立守備隊の河本末守中尉ら数名のグループ。線路に爆薬を装填して
自ら守備する線路を爆破し、中国軍の犯行と喧伝。自作自演の計画的行動。この計画は
関東軍、朝鮮軍指導部も承知していたとされる。

本荘繁関東軍司令官と石原作戦参謀ら主立った幕僚は、数日前から長春、奉天、遼陽などの
視察に出かけており、事件のあった9/18、夜10時頃、旅順に帰着した。しかしこの時、板垣
高級参謀だけは、関東軍の陰謀を抑えるために陸軍中央から派遣された建川美次少将を出迎えるという理由で奉天に残っていた。午後11時46分、旅順の関東軍司令部に、中国軍によって満鉄本戦が破壊されたため目下交戦中との電報がとどいた。

本荘司令官は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。しかし、石原ら
幕僚達が奉天など主要都市の中国軍を撃破すべしとの強硬意見を上申。それに押される形で、
19日午前1時半、石原の案による関東軍各部隊に攻撃命令が発せられた。

日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は不意をつかれて多少の反撃はしたが、本格的な抵抗せずに後退。背景に、張学良が日本軍の挑発には慎重に対処するよう在満の中国軍に指示。北大営の
戦闘には独立守備隊の主力が投入され、19日午前6時30分には制圧。日本側戦死2、負傷22、
中国側遺棄死体00。

奉天城の戦闘では、午前4時30分までに占領。日本側戦死2。負傷25、中国遺棄死体500。
安東、鳳凰城、営口は比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態。しかし、長春付近の
南嶺、北郊の寛城子には約6000の中国軍。激しい戦闘で、日本側戦死66、負傷79、それでも
中国軍を制圧。関東軍は19日中に満鉄沿線に立地する満州南部の主要都市のほとんどを占領。
日本「満州事変」中国「918事変」のはじまり。

○石原莞爾
 1889年1月18日、山県県鶴岡、旧庄内藩士の子として生まれる。幼年期は乱暴だが、成績は優秀。1902年、仙台陸軍地方幼年学校に合格、入学。成績トップ。体操などは不得意。1905年
陸軍中央幼年学校入学。戦史や哲学など良く読む。東京在住のため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ねて教えを乞うている。1907年陸軍士官学校に入学。教室のほかに戦史、哲学、社会科学など精読。反抗的態度のため、卒業成績は6番。卒業後、歩兵代65連隊で見習い士官。連隊長命令で不本意ならが陸軍大学を受験。1915年入学。戦術知識は高く、研究討論でも教官を言い負かすことも。次席で卒業。卒論は北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士、河合継之助』

 ドイツ留学。ナポレオンやフリードリヒ大王の伝記など読みあさった。日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者。1928年関東軍作戦主任参謀として赴任。自身の最終戦総論をもとにして
関東軍による満蒙領有計画を立案。

1931年、板垣征四郎らと満州事変を実行。23万の張学良軍を相手にわずか1万数千の関東軍で
日本本土の3倍もの面積をもつ満州の占領を実現した。満州国の建国については、「王道楽土」
「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ傾斜していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきと語った。石原が構想していたのは、日本および中国を父母とした
独立国(東洋のアメリカ)であった。それは石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に
備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったとされる。

ー事件の一報が旅順の関東軍司令部に。軍司令官 本庄繁 当初武装解除くらいが適当? 
 石原・板垣らは関東軍の全面出動と朝鮮軍への増援依頼を承認させた。9/19朝、陸軍首脳部
 会議、「関東軍の今回の行動は全部至当」しかし、同日の閣議では事件不拡大方針を決定。
 ○政治指導力欠如、政治機能不全

ー9月21日に事態は一変。関東軍から増援依頼を受けていた朝鮮軍が、独断で国境線を越えて
 奉天に向かった。朝鮮軍の国境外への出動は、軍令面では奉勅命令(天皇による正式命令)が
 必要だが、林銑十郎司令官はあえて無視して越境。”越境将軍”の軍規違反の行動は陸軍中央の
 強硬姿勢(出兵態勢のまま満蒙問題の解決を内閣に求め、できなければ陸相辞任による倒閣)
 とあいまって政府をはげしくゆさぶった。22日の閣議で朝鮮軍出動を追認。今回の事件を
 事変と扱う決定。宣戦布告なき戦争状態がここにはじまる。

ー「918事変」起きた時、東北の豪族、張学良は病気療養中。張学良は東北軍に抵抗によって
  紛争に発展させない指示。関東軍などの奉天制圧がすぐできたのは不抵抗のため?
  張学良は蒋介石の指示で抵抗で紛糾招かない方針。蒋介石はこれを”挑発”と見ていた。

 張学良の誤算は、これが挑発ではなく満州全土の制圧をねらった侵略そのものだったこと。
  後年の述懐。

ー蒋介石は、一方で共産軍の討伐、他方で広州で旗揚げした国民党反対派の軍事行動への
 対処で忙殺。蒋介石は内乱がやまず、国民にも国を愛する心がないことを日記でなげいて
 いるが、この日以降、毎日、この「雪恥」を忘れぬよう日記に書き付け。

ー蒋介石は、日本側と直接交渉せず、「国際的な公理の裁決を待つ」ことに望み。国際連盟
 に提訴。事変の直前に「連盟の非常任理事国」に帰り咲いていた中国は9/21に正式に提訴。

ー日本側:満州は多大の人命と戦費であがなった特殊地域の特殊権益を列強に認めさせることに
 躍起になっており、その地域で中国側に責任のある事件で提訴とは了見違いも甚だしい。
  直接交渉に委ねるべしと主張。
ー連盟理事会は事態の拡大を懸念したが、当初から日本に宥和的で中国には冷淡。1931年
 9月30日に採択された事件不拡大決議には日本軍の撤退期限なし。

ーその後、関東軍が日本政府の対中交渉を挫折させるために戦線を拡大し、主要都市に親日
 政権を樹立する動きを進め、奉天撤退後、張学良が司令部を置いていた錦州に無警告爆撃
 をする(日本政府の不拡大方針破綻)などがあって、国際世論の風向き変化。Stimson
 国務長官は、1932年1月、日本の行動を9ヶ国条約と不戦条約に違反するとして非難。

ー事変勃発当時、東京では若槻首相と幣原喜重郎外相は局地解決の方針で事態収拾
 に努力したが、関東軍の行動を制御できず、結局、内閣は1931年12月に総辞職。
 若槻内閣が辞職し、犬飼内閣が組織されると、陸相に迎えられたのは反宇垣系の
 荒木貞夫。こうして満州事変は、W体制と政党内閣を直撃したのみならず、政党内閣に
 協調的だった陸軍の宇垣系にも大きな打撃を与えた。

ー1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下 
 とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満州の軍拡をめざしていた石原は、中国戦線に
 大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく、不拡大方針を立てた。

ー国際連盟は、10月24日、日本に期限付き撤兵求める決議案提出。決議案は日本の反対で
 決議成立せず。その後も、関東軍の軍事行動はとまらず。1932年1月に錦州、2月ハルピン占領 
 前年の事変勃発以来、4ヶ月半で、東三省主要都市と沿線のほとんどすべてが日本軍の支配下に。
ーこの間、外国の対応は比較的穏やか。中国国民党は共産党との対立を抱え、全面的な
 対日抵抗に出なかった。利害関係の深いソ連は、日本に対して不可侵条約締結を提起
 する有様。英米も当初は若槻・幣原に対する信頼から、厳しい批判には出なかった。

4. 満州国建国と国際連盟脱退

ーこのような情勢を見極めつつ、中国の勢力を一掃したあとに、関東軍は清朝最後の皇帝だった
 溥儀(宣統帝、在位1908〜1912)を執政に迎え1932年3月1日傀儡国家満州国の建国宣言。

ー犬養内閣はその即時承認をさけた。
○5.15事件:その犬養首相は5.15事件で暗殺(1932年)。
 1930年のロンドン海軍軍縮条約を締結した政府に不満を持つ海軍若手将校が起こした事件。
 首相官邸、内大臣邸、警視庁、三菱銀行など襲撃計画。5月15日は日曜日。犬養首相は終日
 官邸に。三上中尉が首相を食堂で発見。拳銃に弾丸が装填されていなかったため、首相が三上
 を応接室に案内。首相が日本のあり方などを説教。裏手から来た黒岩中尉が腹部
を、三上が
 頭部を銃撃。首相は息があり「今の若者をつれて来い、言って聞かせる」と言ったがやがて
 衰弱死。

ー事件後、元老西園寺公望は関係者の意見を聞いた。天皇は人格者を、ファッショは厳禁との
 伝言。結局、海軍の長老で穏健派の斎藤を上奏。斎藤内閣は、非政党内閣。それでも政友会
 から高橋是清ら3名、民政党からは山本達雄ら2名入閣。政党の力なお大きかった。
 とくに高橋是清。犬養内閣から留任。蔵相。犬養内閣で金輸出を再度禁止した高橋は、
 為替切り下げで輸出競争力強化、財政の膨張と金融緩和で国内需要を創出。経済を急回復
(高橋財政)。

○リットン調査団
 ー国際連盟、1932年に、日本、中国、「満州国」での現地調査。リットン調査団(Victor
Alexander Lytton)報告書(対日勧告案)は9月に提出。ジュネーブ特別総会での採択に
かかる。報告書の内容は日本の満州での特殊権益を認めるなど日本にかなり宥和的。しかし、
  満州を国際管理下に置くという「満州を満州国と認めない」提案だったので、日本の世論
  は硬化。斎藤内閣は報告書正式提出の直前(9月15日)満州国を正式承認。

○国際連盟脱退
  こうした中、松岡は1932年10月、国際連盟総会に日本の首席代表として派遣。到着早々、
  松岡は原稿なしで「十字架の上の日本」(日本はやがて磔にされたイエスのように理解されるだろう)
を1時間20分演説した。卓抜の英語力が喝采を浴びたが、1933年2月24日、
  軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は賛成42、反対1(日本)、棄権(シャム)で採択。
  松岡は宣言書を朗読して退場。日本政府は3月8日、正式に脱退を決定し27日連盟に通告。

ー松岡洋右:山口県回船問屋の4男。父が事業に失敗したため、親戚が渡米していたことも
  あり、留学渡米。熱心なキリスト教信者となる。厳しい生活や差別の中で、対等の立場で
  自己主張を貫く対米意識を学ぶ。英語に練達。帰国後、帝国大学に飽き足らず外交官試験を
  受け、首席で合格。中国駐在が長かったが、講和会議の随員など歴任。満鉄勤務を経て、
  衆議院議員。国際連盟総会代表、外相など歴任。近衛内閣で3国同盟、日ソ中立条約締結
  などで活躍。


○「第一次上海事変」

  1932年、上海市郊外に、蔡廷錯率いる19路軍の一部が現れた。19路軍は3個師団からなり、兵力は3万人以上。日本は居留民の保護と防衛体制強化のため、上海に十数隻の艦隊を派遣。
虹口に隣接する中国領を必要に応じて占領する意図を明言していた。

 1月18日、日本人僧侶ら3人が襲われ死傷。1月26日、中国当局の戒厳令。中国人地区全域に
土嚢とバリケード。外国人住民に租界内への避難勧告。1月27日、日本含む列国が協議。上海市参事会の非常事態宣言(戒厳令)。1月28日午後、最初の軍事衝突。

 軍事衝突発生をうけて、日本海軍は第三艦隊(巡洋艦4、駆逐艦4、航空母艦2、陸戦隊7000)を派遣する決定。1/31に到着。さらに犬養内閣は2月2日に金澤第9師団、混成第24旅団(久留米師団中心)派遣を決定。これに対して国民軍は第87、88師、などを5軍として派兵。

 2月18日、日本側はさらなる軍事衝突を避けるため、中国側へ、列国租界から19路軍が20km撤退する事を要求。、蔡廷錯が拒否したため、20日、日本軍は総攻撃を開始。さらに双方増派して激戦。日本軍は3月3日に戦闘中止を宣言。

 一連の戦闘をつうじて日本側の戦死769、負傷2322、中国軍損害は死傷者14326。

36日間の戦闘で、上海全市で、約16億6千元の損害。中国住民の死者は6080。負傷2000
行方不明、14000と発表。

 3月24日から、日中および英米仏伊による停戦交渉が上海で開始。上海戦にたいする英米など
列強の反応は満州事変などにくらべはるかに強硬。上海はじめ華中における列国の利権が
脅かされたため? 5月5日、日本軍の撤退、中国軍の駐兵制限区域を定めた停戦協定成立(上海停戦協定)。

○満州領有確定
 ーまた連盟でリットン調査団の審議が大詰めを迎えていた1933年2月には、満州国の南側に
  位置する熱河省に侵攻。これを満州国に編入。これにより、万里の長城以北の部分は
  中国から武力で切り離された。5月中国側申し入れで「停戦協定(塘沽協定)締結。

 ー日本による満州領有と満州国領域が停戦で事実上確定。ただし、国民政府は満州国を認めず、
  1934年、華北当局と関東軍の実務協定で満州国を事実上認めさせた。⇒現地解決方式の定着
   
 ○満洲帝国成立
 ー1934年3月、満州帝国成立、執政の溥儀を皇帝に即位。ただし、皇帝は名ばかりで実権は
  すべて日本側。日本は満州を
  (1)総力戦体制の資源供給地、(2)重化学工業建設、(3)対ソ戦の戦略的基地、
  (4)日本の農村過剰人口のはけ口、30万人におよぶ(1945までに)。

 ○反満抗日闘争、東北抗日聯群
  ー満州事変後、日本の武力侵略と国民政府の不抵抗方針にたいして激しい抗議、未曾有の
   抗日運動。 

  ー反満抗日闘争、高まり、次第に統合化、「東北抗日聯群」に発展。モスクワも支援。


  ー現地解決方式で次々と妥協を重ねる現地の対応に、抗日世論は高まり、全国波及。 
    
  ○蒋介石の構想。
   日中戦争はやがて太平洋、世界の問題に拡大。なぜなら、日本の対中侵略の継続は、
   列強の権益が複雑に存在するがゆえに、列国の干渉は必至。持久戦に持ち込んで、列強
   の対日軍事干渉を引き出す。最終的には日中戦争に起因する世界戦争で日本を敗北させる

 ○華北自治工作推進
  ー関東軍と支那軍は地元の有力者を懐柔して華北の自治工作を進め、地区防共自治委員会
   を組織して順次、地区自治政府に格上げ。
 
 6. 国民党政府と国民軍の強化

  ーこの頃、国民党政府かつてない権勢。背景:広東派、広西派の反蒋運動を1936年6月に
   屈服させて31年以来の兩広の半独立状態を解消。共産党にも譲らず、対日政策にも強硬。

  ○西安事変。
    張学良(東北の支配者)、熱河失陥の責任をとって政軍を辞し、1年欧州巡遊後、
    強い指導者(蒋介石)を希求して帰国後、蒋介石の命で1935年秋に麾下の15万東北
    軍を率いて狭西北部の共産党掃討にあたることに。しかし共産軍の抗戦激しく、
    大損害。「内戦停止」「一致抗日」への思い。張学良は共産党入党を希望したが
    コミンテルンは疑義があって却下。

    共産党工作員や周恩来との接触をつうじて、共産党を「一致抗日」の信頼できる同盟者
    と認識。蒋介石に「内戦停止」「一致抗日」を説く必要痛感。蒋介石は耳かさず、共産
    党包囲戦督励のため、12月4日、西安入り。西安での張学良の説得にも耳を貸さず、
    叱責で応じた蒋介石を、張学良は揚虎城とともに「兵諌」を決意。12日朝、張学良の命
    を受けた東北軍の一隊が宿舎を急襲、蒋介石の身柄を確保。

    張学良は「一致抗日」の意向をもつと見られる毛沢東はじめ各地の有力者に同調を
    うながした。南京の国民党政府は張学良の職務剥奪と処罰、西安攻撃を決定。蒋介石の
    統治能力を買うモスクワは張学良の要請を受けず、平和的解決のぞむ。宋慶齢の父、
    宋子文が西安入りして調整。12月25日、蒋介石解放、平和解決の合意。

    南京では蒋介石は10万人、歓呼の歓迎。蒋介石の権威は高まり、国内統一と抗日戦線
    で蒋介石の求心力大きく。張学良は本人の予期を超える半世紀にわたる厳重監禁に。
   
 7. 2.26事件

  ○陸軍:統制派と皇道派
  ー犬養内閣の陸相に荒木貞夫就任時、陸軍中堅層はこぞって歓迎。しかし荒木は
   その後、中堅層に分裂誘引。理由(1)人事が党派的。荒木の盟友、真崎甚三郎が
   1932年1月参謀次長となり、軍部の要職には荒木・真崎派(皇道派)を多数起用。
   (2)荒木軍政で対ソ軍備強化は停滞。荒木は精神主義者。イデオロギー的反共主義者。
   ソ連の軍備を軽視。農村の荒廃の方が建軍の基礎を危うくするとの見方。

  ー対ソ準備に不安もった幕僚は、永田鉄山の周囲に結集(統制派)。永田は軍近代化
   目標を共有していた南次郎や宇垣系にも接近し、皇道派の追放ねらった。
   まず、1933年6月、真崎は大将昇進とともに軍事参議官になり、34年1月には
   教育総監として陸軍の中枢から遠ざける。1934年1月荒木が病気で陸相を辞し、
後任に林銑十郎が就任すると、永田はその下で軍務局長となって、皇道派の一掃に
   乗り出し35年にはその仕上げとして真崎教育総監の更迭断行。
  ー追いつめられた皇道派は、さまざまな反撃に。皇道派は中央の幕僚では少数派。
   イデオロギー的には強力。隊付き将校には厚い支持。反撃はまずイデオロギー闘争。
   そのひとつが天皇機関説事件。第二が、実力行使。1935年の相澤三郎中佐事件。
   つまり永田軍務局長斬殺事件。そして翌年の2.26事件。

 ○皇道派青年将校の反乱
  ー1936年2月26日未明、皇道派青年将校率いる歩兵第三連隊など1500人の兵士は
   岡田首相、高橋蔵相、斎藤内大臣、鈴木貫太郎侍従長、牧野伸顕のぶあき元内大臣、
   渡邊錠太郎教育総監、それに警視庁など襲撃。西園寺も当初計画では襲撃対象。

  ー高橋蔵相は、大恐慌後の日本経済をリフレーション政策で迅速にデフレから脱却させたが
   その結果、インフレ加速が予見されたため、これを抑制すべく軍事予算の縮小をはかった
   ことが軍部の恨みを買って、赤坂の自宅2階で青年将校らに胸を6発撃たれて暗殺された。
   
  ー2.26事件は、陸軍皇道派に対する包囲網を直撃したもの。クーデター後の建設計画
   は空白だが、破壊計画としては巧妙。側近を殺された天皇は激怒。自ら鎮定にあたる
   意志を示したため、軍当局の意志も鎮圧に決し、反乱は失敗した。
   「君側の奸を除く」という主観的意図で行われたクーデターは天皇の意志で阻まれた。

 ○2.26事件の後遺症
  ー陸軍首脳は2.26事件の再発を極度に怖れ。組閣への介入も部内の統率に自信ない
   表れ。事件後の粛軍でも、部内に動揺招きそうな政治的軍人すべて排除めざす。
   皇道派のみならず、対立する宇垣系も予備役編入。軍部大臣現役武官制復活も
   皇道派復活阻止のため。

  ー宇垣にせよ荒木にせよ、陸軍をそれなりにまとめ、他の政治勢力と交渉する能力あり
   粛軍でそうした軍人が一掃されたため、陸軍を外から統御することは一段と困難に。
   政治的軍人の放逐、陸軍官僚化により、陸軍はかえって抑えが利かなくなった。

  ー陸軍の要求は軍拡予算。
   斎藤内閣当時、高橋蔵相は公債を発行して積極予算を組んだが、1934年頃から
   インフレを懸念して公債発行を抑え始めていた。
   広田内閣の馬場蔵相は、高橋財政を転換。軍事費のための公債発行を行い、超
   大型の軍拡予算を編成。1937年度(昭和12年)予算は前年度比31.6%増。直接
   軍事費のみで予算の46%占めた。国際収支は悪化、財政金融政策も不能へ。統制
   への動きはじまる。

  ー広田内閣1933年11月「日独防共協定」。1933年に政権掌握したナチスは
   同年、日本に続いて国際連盟脱退、35年にはヴェルサイユ条約を無視して大規模な
   軍拡に着手。その夏から日本に接近はじめる。

  ー広田内閣は1937年1月倒れ、広田辞職後、西園寺は宇垣を首班に奏薦。
   陸軍穏健派として西園寺の最後の切り札。宇垣組閣に陸軍中堅層は激しく抵抗。
   宇垣は陸軍大臣を得られず、組閣断念。前年に復活した軍部大臣現役武官制が威力。
  
  ー参謀本部はその頃、作戦課長の石原莞爾を中心として、1941年までに対ソ戦争準備を
 完了するため、軍需産業の飛躍的発展を基礎として軍備を5年間でおよそ2倍にする
   計画をかためつつあった。首相はこれを唯々諾々受け入れる人物がのぞましかった。

  ー宇垣の組閣失敗の後、西園寺は第一に平沼騏一郎、第二に林銑十郎を推薦。平沼は
   辞退。石原はこの林に上記の計画の推進を期待したが、組閣方針に反対して林の
   下を去る。林内閣も政党と対立。何もできずに4ヶ月で辞職。

  ー林の辞職後に、西園寺が推したのは近衛文麿。近衛家は最高の名門。文磨は若く聡明
   で将来の華族のホープ。
  ー五摂家の近衛家の第30代当主。後陽成天皇の12世孫にあたる。父の病没後、近衛家を
   継承し、公爵。のち、貴族院議員、貴族院議長など歴任。3度にわたり総理大臣として
   内閣を率いた。第1次内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生。北支派遣、
   近衛声明、東亜新秩序提唱。第二次、三次内閣では、大政翼賛会を設立。外交では、
   八紘一宇、大東亜共栄圏を掲げた。戦争中、天皇に「近衛上奏文」で戦争の早期終結
   を訴えた。戦争末期には独自の終戦工作も。敗戦後、一時東久邇宮内閣に参加したが
   A級戦犯に指定され、服毒自殺した。

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第4幕「第一次大戦とワシントン体制」

第4幕「第一次大戦とワシントン体制」


 1. 第一次大戦の勃発と日本の参戦

  ー1914年夏。7月にオーストリアとセルビアの間で勃発した戦争が間もなく英仏独露を
   巻込む未曾有の世界大戦に。欧州列強はアジアに介入する余力を失い、むしろ日本の存在
   に期待。列強に依存することの多かった袁世凱の対日抵抗力も弱まり、日本の経済力も
    大戦中に飛躍的に向上。日本のこれまでの制約条件が変化し、日本の大陸膨張も積極化。
  ー大隈内閣、加藤高明外相のリーダーシップで積極的に大戦に参加。イギリスは日本
    の野心を警戒し、その参戦に条件をつけようとしたが、日本はこれを押し切って
    8月下旬、ドイツに宣戦布告。 ドイツの根拠地である膠州湾を陥落。

 2. 大隈内閣の「21ヶ条」要求

  ー1915年1月、日中間の懸案を一気に解決する目的で、日置益(えき)駐華公使が
    袁世凱大総統に直接、5項目21ヶ条の要求つきつけた。悪名高き「21ケ条要求」
 
    ・内容:
     第一:山東省ドイツ権益の主要部分を日本に譲渡。
     第二:満鉄と関東州租借地の期限延長、満蒙における鉄道などに関する租借優先権
        の明確化、土地所有権の承認など、満蒙権益の強化。
     (第三:揚子江流域の漢冶評公司に関するもの。)
     (第四:中国沿岸部の不割譲宣言)
     第五:顧問庸聘、警察改善、日本からの武器購入など。

  ー大隈重信内閣としては、日本の既得権益を確実化もしくは延長するために条約化し、
    後は国内からの諸要求をまとめ、国内の政府批判をかわそうとした?

    2月からの条約交渉は中国側に有利に展開したように見える。中国側は交渉経過を内外
    列強などに伝えつつ日置公使に反駁した。英米もとくに第5号に反発。

    情勢を察した日本は、5月4日の交渉決裂を受けて、7日に最後通牒を北京政府に
    突きつけ、5月9日午後6時を期限として、第5号をのぞくすべての条項の受諾を求め、
    もし、受諾しなければ、軍事行動に出ると通告。

    当時、日本は、山東半島に第18師団、関東州に関東軍が、さらに山東・満州には3月に
    それぞれ増派された2個師団。合計6万。中華民国側にはこれに対抗できる武力無し。 
    袁世凱は第5条含まない要求を受諾可として、5月9日、受諾した。

  ーこの一件は、それまで良好な面もあった日中関係を転換させる契機に、またそれまで
    列強との国際協議や協調を重視してきた日本が単独行動をとる契機ともなった。
    その代償はやがて膨大に。
  ー日本の山東占領と21ヶ条要求は、中国の都市知識人、華僑、留学生を強く刺激した。
   満鉄利権獲得以上の激しい批判。最後通牒を受けて受諾した政府に軟弱外交、
   売国外交の批判。袁世凱への批判強まる。

  ー1914年8月にドイツに宣戦布告していた日本は、9月に山東省に上陸。山東省、中国各地
   東南アジアの華僑が反対運動を起こし、世界の華人社会に拡大。日本の中国留学生は
   反対運動に合流。日本の最後通牒に屈した5月7、9日を国辱記念日として教科書に
   反映させようという動きも。日本政府は北京政府に抗議。これは日本が中国の教科書を
   問題とした最初。以降、国際連盟でも日中間でも教科書問題がたびたび問題化。

  ー第二革命の夜、犬飼毅らの斡旋もあって日本に逃れていた孫文は、1914年7月、
   東京で中華革命党を組織。この時期、孫文の周辺にいたのは、蒋介石ほか広東出身の
   実業家 宗嘉樹。宗は長女の宗藍(あい)齢を孫文の秘書とした。孫文は、その妹の
   アメリカ帰りの宋慶齢と東京で会うと結婚を決意。1915年10月、資金面で支援して
   いた梅屋庄吉宅(東京新宿、大久保百人町)で結婚披露宴。日本側、宮崎滔天、頭山満
   らが出席。中国側、 陳其美が出席。

  ーちなみに、梅屋庄吉氏は「孫文の革命をプロデュースした日本人」として有名。
   梅屋氏。長崎の生まれ。香港、シンガポールで貿易商として
   活躍。1895年、中国革命を計画している孫文を香港で知り合い、多額の資金援助。
   「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」。辛亥革命の成就に貢献。1905年ころ
   帰国し、日活の前身、M.パテー商会設立。映画事業でも成功。辛亥革命の記録多数。
   援助資金総額は現在価値で1兆円にのぼると推定。   

  ー孫文は21ヶ条要求を重大危機と認識しながら、それを理由に日本政府攻撃はせずにむしろ
   袁世凱を責めた。
    
 3. 中華帝国と袁世凱

  ー袁世凱は、議会権限の抑制、臨時約法の形骸化に成功しつつあった。
   しかし日本の山東省東部占領、21ヶ条要求受諾で、厳しい国内批判受ける。

  ー第一次大戦開戦後も、権力基盤強化と中央集権めざし、それはやがて袁世凱の
   アドヴァイザー(ジョンズ・ホプキンス大学学長、政治学者)Goodnow教授の影響も
   あり、帝政採用に帰結した。袁世凱麾下の幹部も帝政採用運動。それに応じて参政院が
   国民会議を開催。満票で袁世凱を皇帝に推戴。

  ー遠は国号を中華民国から中華帝国にあらため、元号を洪憲とした(1916年=洪憲元年)
   1915年12月冬至の日、北京の天壇で、遠は天命を受けて皇帝となった。
   
  ー帝政採用は国内で強い反発。国際社会の反応も肯定的とはいえず。
   日本の大隈首相は当初、不干渉主義だったが、外務大臣に石井菊次郎が就任すると
   (加藤高明は8月辞任、その後は大隈が兼任)一転反対に。1916年3月の閣議で、
   ”袁世凱の没落をめざす”という史上稀な乱暴な決議(北岡伸一)。

  ーこの頃から中国政策に大きな影響力をもったのは参謀本部。とくに1915年秋から年末に
   かけて、田中義一参謀次長と上原勇作総長就任、参謀本部の発言力強化。
   参謀本部を中心に、南方の反袁世凱軍閥、中国国民党、満州では清朝の復興めざす
   宗社党、中国から分離独立を求める蒙古王族、独立した勢力をめざす張作霖を同時に
   援助するという壮大な謀略に着手。結果、袁世凱は苦境に陥った。

  ー地方分権や共和制を主張する側からの反発も強かった。袁世凱麾下で強く反対したのは
   蔡鍔。蔡鍔は北京を離れ、雲南を拠点に反旗。有力者達が同調し、勢力は西南諸省に
   ひろがった。諸省は1915年12月に独立宣言。これは辛亥革命、第二革命に次ぐ
   第三革命と言われた。

  ー1916年5月までに10省独立宣言。袁世凱寄りの地方長官からも帝政廃止を勧告され、
   3月、袁世凱は中華帝国を廃止。帝政をめぐる抗争がつづくなかで 袁世凱は、
   尿毒症と神経性疲労のため、1915年6月6日に死去。

 4. シベリア出兵と西原借款

    ー1916年10月成立の寺内内閣は大隈内閣の中国政策を転換しようとした。
     日中関係の改善、対米関係の改善めざす。

    ー中国に関しては内政干渉をやめ、威圧的な政策を避けると同時に、親日的な段き棋瑞
     政権が成立すると、これに借款供与。列国に関しては大戦への協力を強化し、その
     見返りとして、戦後の講和会議で日本が要求することになる山東半島と赤道以北
     ドイツ領南洋諸島に関する要求を支持するよう約束を取り付け。

    ー難しいアメリカに対しても、アメリカ参戦(1917年4月)を契機に、前外相、石井
     菊次郎を特使として派遣し、石井・ランシング協定締結。その中に“近隣国に対しては
     特殊利益が存在することを相互に認める”というくだりがあり、門戸開放を唱えて
     日本の満蒙権益を批判してきたアメリカが日本の立場にもっとも近づいた瞬間。

    ー日中提携と列国協調はがんらい矛盾。日中提携は日本が列国以上に特殊な関係を
     もつことを意味。寺内内閣は世界大戦という有利な状況を利用してこの両立を
     めざした。

    ー1917年11月のロシア革命がこの状況を一変。
     帝国主義戦争を否定する立場から、ボルシェヴィイキ政権は対独戦争を中止。
     1918年3月にはブレスト・リトフスク講和条約。これはロシアにおける親独派の
     勝利と受け止められ、ドイツ勢力がロシアと結んで東に進出することまで危惧。

    ー寺内内閣の根底にロシアへの恐怖感。独露提携・東漸のおそれ。中国重視。
     ロシアとも友好関係必要。ところがロシア帝国倒壊。列国協調の基軸の崩壊。
     そこで日中提携の強化必要。寺内内閣は列国間の了解を大幅に逸脱して中国に
     巨額の借款を供与(西原借款)しはじめたのはそのため。

    ーシベリア出兵も:10月革命でロシアが世界大戦から離脱決定的に。英仏は
     干渉戦争を提起。革命政権を倒して東部戦線を再建しなければドイツが全力を
     西部戦線に投入してくるという判断。日本では諸論あったが、アメリカがチェコ
     軍団救出(オーストリア・ハンガリー帝国から独立めざすチェコ軍がロシア側に
     加わっていたところ、ロシア革命で行き場失う)のための共同出兵を提起した
     ことから寺内内閣は出兵を決断し、1918年8月実施に踏み切った。

    ーしかし独露の提携・東漸は幻影。西原借款もシベリア出兵も大失敗。
     西原借款によって中国に投資された巨額の資金は回収できなかった。
     シベリア出兵は数年にわたって数億円の資金を浪費、数千の犠牲者。
     寺内内閣は前半1年間は成果。ロシア革命後、方向性見失った。

 5. ヴェルサイユ講和会議と中国の反撥

   ー1918年11月11日、ドイツが停戦協定に調印して世界大戦は終結。協商国に加わった
    中国は、ドイツ、オーストリアに対する戦勝国。中国、戦勝国として講和会議に参加。
    52名代表団。中国は4階級中の三等国。議席は2。ちなみに日本は5大国として5席。

    中国、7ヶ条の意見書(1)21ヶ条は中国の参戦で無効になったと主張、(2)不平等
    条約改正のための原則認めよ。日本は段政権が21ヶ条要求を容認した文書提出して反駁。
    英仏は日本と諸利権を相互承認することで合意。形勢は日本に有利。
    中国は5大国(英仏米日伊)による山東共同管理案提出。受け入れられず。
    結局、講和会議は、4月30日、山東利権を「中国への返還を前提に」日本へ譲渡決定。

   ーヴェルサイユ講和条約は1919年6月締結。大戦後の新たな世界秩序模索。
    しかし欧州中心。

   ー講和会議の結果、中国世論反発。5月1日、学生たちが北京大学に終結。5月2日(日)
    天安門広場にあつまり、4大国公使に抗議書、アメリカ公使館だけ受け取り。段政権の
    山東利権の同意書の署名者 曹汝霖宅に放火。駐日公使、章宗祥を殴る。
   ー北京政府は学生取り締まりの姿勢(32名逮捕)だが、他方、曹汝霖、章宗祥らは罷免。
    彼らは日本留学経験ある日本通。これ以後、中国は日本通には否定的イメージ。
    日貨ボイコット。審定経た教科書にも「国辱」掲載。暴力ともなう正義も肯定。
    『5.4運動』。これは日中関係史の重要な転換点ともされる。  
   ーこの運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。陳独秀や毛沢東
    もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、
    「連ソ容共、労農扶助」と方針を転換。旧来のエリートによる野合政党から近代的な
    革命政党へと脱皮する事を決断し、ボルシェヴィキをモデルと考えるようになった。

   ー2020年11月、第一回、国際連盟総会開催。中国では「公理」実現の場として
    期待。その実現のため、中国は非常任理事国になるべく運動。しかし、山東問題や
    不平等条約問題は国際連盟の場では解決されなかった。
 
   ー1918年9月、原敬の政友会内閣成立。初の平民宰相。世論の喝采。
    大正デモクラシーを反映。
    背景:11月には大戦終了。1917ロシア崩壊。1918ドイツ崩壊。英仏も疲弊。
     唯一アメリカが世界を圧倒。日本でも新しい政党政治の時代意識?

    原内閣:産業化、鉄道網の整備。教育拡充。国民の教育水準向上。
    政治機構の政党化。官僚偏重改革、軍の既得権領域の解放。
    明治国家の極度に中央集権的・官僚的体質を薄め、脱権威主義化はかった。
    権威主義に風穴あける道具は政友会。じつは産業振興、教育拡充、政治機構改革も
    政友会の利益と勢力伸長に結びつく。

   ー原敬は1921年11月に暗殺。世論は原に対して冷淡。
    原はあまりに強力な政治家で、政友会勢力の拡大を実現。
    1920年5月、小選挙区制下での総選挙で大勝。464議席中、政友会276、憲政会110
    議会外の潜在反対派の山県閥も弱体化。
    ー原の死後、大勢力に見合った責任あるリーダー生み出せず、日本の政治混乱してゆく。

 6. ワシントン体制とロンドン海軍軍縮

    ーワシントン会議(1921年11月〜1922年2月)東アジア・太平洋地域の
     戦後秩序の確立めざす。中国に関する9ヶ国条約、海軍軍縮(米英日:5.5.3)条約。  
     日本の膨張を支える役割果たしたと米が批判する日英同盟は解消。

    ーアメリカが1921年7月に会議開催提議。日本は不安多かった。アメリカは従来より
     日本の対外政策批判。しかし唯一の大国となったアメリカとの協調は不可避。

    ーワシントン講和会議で、21ヶ条に関する諸条約が解決されなかったことに、
     中国世論は反発。日貨排斥、反日運動。反日運動は23年夏前には下火になり、
     関東大震災に際して、中国側が日本支援を申出るなど改善したかに見えたが、
     数百人の華工の虐殺が報ぜられると日本批判高まり。
    
    ーロンドン軍縮会議(1929年11月〜1930年1月)
     補助艦の制限が目的。米・英・日(5:5:3)日本の補助艦の技術は進んでいた
     ので、対米7割は確保したかった。
    ー山本五十六海軍少将は次席随員として出席。対米7割を主張して首席全権の若やぎ
     禮次郎を困らせた。結局、外交団は海軍軍縮に調印したが、山本は「劣勢比率を
     押し付けられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、まず空襲をもって
     敵に痛烈なる一撃を加え、然る後、全軍を挙げて一挙決戦すべし」との考え。山本
     は海軍空軍力の強化に力を注いだ。それが真珠湾攻撃、マレー沖海戦で成果に。
 
 7. 中華民国国民政府の成立

 ー袁世凱死去(1915年)後、混乱のつづいた中国で、孫文は1923年3月広東政府の
   陸海軍大元帥に復帰。広東政府はW会議にも参加できなかったので、W体制外の
   ドイツやソ連との関係強化を模索。ソ連の影響浸透。

 ー1924年4月、孫文は、国民政府建国大綱を発表。国民政府の骨格をしめす。
    三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)と五権憲法(司法、行政、立法、監察、
    人事)に基づく中華民国の建設に向け、軍政、訓政、憲政の3段階で実現する方針表明。
    以後は、中華民国政府の呼称。

    将来、共和制を志向するが、当面は軍、そして政党の政治。訓政期は国民政府。
    憲政への移行は戦後の憲法発布後の1948年5月20日。

  ーここで孫文を終生支え、孫文亡き後は孫文の遺志を継いで中華民国政府による全国統一
   を成し遂げたキイパーソンである蒋介石についてやや詳しく紹介。

 1887年10月31日、清国浙江省奉化県渓口鎮に生まれる。父は塩商人。母は王菜玉。
母が教育熱心。父は9歳で死亡。母の手で育てられた。母子家庭、母の苦労を見て育った。
10歳から16歳、毛鳳美の塾でまなび1902年、娘の毛福梅と結婚。その後、省の教育機関
で英語、数学、さらに西洋法律を学ぶ。

 1906年4月、日本へ渡る。東京振武学校で学ぶ目的。しかし保定陸軍速成学堂関係者しか
はいれず。しかしこの留学で、孫文の実践活動の中心だった陳其美と出会い交流を深めた。
同年冬帰国。改めて保定軍官学校に入学して軍事教育を受け、翌1907年7月再び日本に渡り、
東京振武学校に留学。2年間の教育課程を修了後、日本の陸軍士官学校には入学せず、1910年
より陸軍第13師団高田連隊(現在の新潟県上越市)の野戦砲兵隊の隊付き将校として実習受けた。この時に経験した日本軍に兵営生活は中国でも軍事教育の根幹にあるべしと後に述懐。

 1910年、アメリカから帰国途中、二週間日本滞在を許された孫文と、陳其美の紹介で
面会。蒋介石が「自分も中国同盟会の一員で、革命には軍事面で貢献したい」と自己紹介。
孫文は「まちがいなく革命の実行者になるだろう」との印象。指導者になるなど想像も
しなかった。

 1911年10月、辛亥革命が勃発すると蒋介石は帰国して革命に参加。陳其美と行動をともに。陳は杭州方面の革命軍第五団の団長。緒戦で勝利。浙江省の独立を宣言。上海では陳が蜂起に成功。蒋介石には軍事顧問の役割。蒋介石は陳の厚い信頼を得て義兄弟の契りを交わした。蒋介石は陳に同行し、護衛役を自負。

 1913年7月「第二革命」が勃発すると陳は上海で討袁軍総司令官として第五団に命じて蜂起を企てたが上海市内は政府軍に制圧されており第五団も政府側についてしまったので、蜂起は失敗。陳は地下に潜伏。蒋介石は日本に亡命。8月には第二革命も失敗。孫文も日本に亡命。孫文は
日本を革命の根拠地とし、日本の退役将校の支援を得た教育機関を設置するが爆発事件を起こして日本官憲により解散処分。

 1914年7月、孫文は議会政党だった国民党を解体し、東京で中華革命党を結成、その総理に就任。中華革命党は秘密裏に中国国内で軍事組織を編成。陳其美は東南軍司令官。孫文は1914年10月、東京で袁世凱打倒宣言。蒋介石は上海におもむき、陳を補佐。しかし革命は失敗して潜伏。この時期、蒋介石は上海で知り合った桃治誠と潜伏生活。故郷の妻は仏門に興味。

 1916年5月18日。陳其美はフランス租界の山田純三郎邸で、北洋軍閥の張宗昌の刺客によって
暗殺。蒋介石はすぐに駆けつけ号泣。陳は生前、孫文に「蒋介石こそ私の後継者」と書簡を
送っていた。

 袁世凱の死後、北京政府では北洋軍閥内部の対立が発生。各地で軍閥が割拠。
*中国は軍閥支配の構造。安直(安徴派vs直隷派)戦争、
奉直(奉天派ー張作霖vs直隷派)戦争1922年、1924年)など。
北京政府の実権掌握は安徴派軍閥。国務総理に就任した段き端。段は中華民国臨時約法を破棄、旧国会の回復に反対。

 孫文は雲南・広西軍閥と連携し、1917年9月広州に入って広東軍政府を樹立、大元帥に就任。かくして南北対立。いわゆる護法戦争。孫文はしかし独自の軍事基盤は脆弱。蒋介石を招いて基盤強化を試みたが紆余曲折。蒋介石は孫文が信じて任せている陳炯明が、孫文に背信的は行動をしていることに疑念、しだいに敵意を抱く。

 孫文は北伐で全国統一を果たす意思を固める。蒋介石はその意思を知り、協力しようとするが、指導的役割を託された陳炯明が、自己利益のみを追求していることを知り、現実を理解しない
孫文に諌言の手紙を書くが、孫文は受け入れず。蒋介石、不満で故郷にこもる。

 1921年5月、広東軍政府は改組して「中華民国政府」。孫文は中華民国非常大総統に。
6月14日、蒋介石の敬愛する母、王采玉が病没。11月23日本葬。墓碑銘には孫文が揮毫。蒋介石は孫文を尊敬し直す。蒋介石は“マザコン?”本葬後、蒋介石は3番目の夫人、陳潔如(上海実業家の娘)を迎える。桃治誠とは慰謝料払って離縁。孫文の求めに応じて、広東へ。以後、北伐計画に積極的に参加。

 北伐計画中、孫文と陳炯明の路線対立表面化。孫文は武力統一。陳は各省の連携による
地域統合型の国家建設。対立は先鋭化、やがて陳のクーデター。陳は広州総統府を砲撃。
孫文は側近達と軍艦「楚豫」に避難、60数日に渡って陸上の陳と交戦。蒋介石は6月29日
「楚豫」に駆けつけ、孫文を支援。蒋介石は孫文のたしかな信頼を確保。しかし戦況は不利で、英国軍艦に移って香港に退却。一方、陳炯明はしだいに孫文傘下の武将に追いつめられて敗退。

 1923年3月、孫文が陸海軍大元帥に就任。第三次広東軍政府が成立。新政府で蒋介石は
大本営参謀長に任命。蒋介石は陳炯明の残党や直隷派の呉風虜との戦いを指揮。蒋介石の
軍事的能力は広く知られ評価されるようになった。

 1923年1月、孫文は、ヨッフェと上海会談後、「孫文=ヨッフェ宣言」発表。「連ソ・容共」方針のもとで、国共合作を正式に宣言。1923年8月、孫文はソ連とのさらなる連携を求めて
「孫逸仙博士代表団」を送った。蒋介石はこの一員として赤軍の軍制を視察。

 モスクワで蒋介石はレフ・トロッキーから赤軍の組織原理を学んだが、一方、ソ連への不信感も。11月25日コミンテルンの席上、国民党を代表して演説。孫文の三民主義を中心に説いたが、評価は低く、批判受けた。この対応に、蒋介石はソ連への不信と共産党への警戒感とつのらせて
帰国した。帰国すると国民党の改組が進んでおり、共産党員が国民党の中央執行委員になっていたり、ミハイル・ボロディンが最高顧問になっていたり、これに怒った蒋介石は故郷にこもり
孫文らの視察報告の呼びかけにも応ぜず、故郷で過ごした。

 1924年1月、広州で中国国民党第1回全国大会。「連ソ・容共、労農扶助」方針が打ち出され、ソ連共産党の組織原理にもとづく組織の改組が実行された。中央執行委員会には国共合作で
共産党員も選出。毛沢東も共産党籍保持のまま中央執行委員候補に。蒋介石は中央執行委員には
選出されなかった。しかし、国民党の革命軍、国民党軍の組織化、その将校の教育機関である
軍官学校の設立が決議。蒋介石は、設立準備委員長、軍官学校校長兼広東軍総司令部参謀長
に任命。

○毛沢東:1893年湖南省の生まれ。地主の父親。高等小学校時代、康有為や梁啓超らの思想を
学び影響うけた。1911年中学進学のため長沙に。この時、辛亥革命。湖南の革命志願軍に入隊。
中学では明治維新に興味。1913年湖南省の師範学校で広く欧州の思想、社会科学を学ぶ。
1917年、湖南省を訪れた宮崎滔天の講演で日本が西洋の支配を破った日露戦争の話を聞いて
感銘。北京の図書館に勤務、上海で知識人と交流。1920年長沙師範学校付属小学校校長。
学友の楊開彗と結婚。岸英、岸青、岸龍の3児。国共対立時1930年10月、妻楊は国民党軍に
捕らえられて殺害。岸英、岸青の子供は親類に送り返された。岸龍はすでに死亡。
 1924年国民党全国代表大会で、中央執行委員候補に。1925年10月、国民党中央宣伝部長
代行。1927年上海クーデターで国共合作が崩壊。井岡山にこもり農村を革命拠点とする運動を
推進。1928年共産党大会で中央委員。その後、曲折を経て、共産党の実権を掌握。

 1924年5月3日、黄埔軍官学校校長。6月3日入学式。組織・訓練ではソ連式。孫文の思想と
中国古典の教え。日本の陸軍での体験など総合。士官と同時に兵士の養成に注力。彼らはやがて
北伐軍の中核。蒋介石にとって貴重で重要な人脈となる。しかし、軍官学校の中でも国民党と共産党の対立が不協和音になっていく。
 1924年8月商団事件。陳炯明の残党がイギリス系銀行と組んだ商人団をそしきして広東政府が
赤化しつつあるとして転覆を企てた武装蜂起。孫文の命令で蒋介石は軍官学校に学生を中核とする国民党軍を率いて鎮圧。同時期、北京では第二次奉直戦争が発生。これを契機ととらえた孫文は北伐宣言を発した。しかし商団の鎮圧に手間取って出陣準備が遅れて機会を逸した。

 しかし北京政府の実権を握った馬玉詳や張作霖から善後策について相談したいと要請を受け、孫文は北上を決心。この時期、広東を留守にして大丈夫かと聞かれた孫文は、「蒋介石がいるから大丈夫」と答えたという。途上、黄埔軍官学校校を訪ね、蒋介石と面会。孫文はこの時、「私の説いた三民主義はこの学校の学生に実行してもらいたい。私は死に場所を得ればよい」と語ったという。孫文はこの後、香港、上海、日本を経由して北京に入ったが、これが蒋介石との今生の別れとなった。

ー孫文の「大アジア主義講演」1924年神戸高等女学校、広州→北京の途中。欧米列強の
 帝国主義を覇道。アジアには力によらない“王道”がある。日本はアジアの側に立て、と講演。
 このころすでに、体調悪化しており、12月末ようやく北京入り。1925年3月12日に、顧維釣
 宅で、宗慶齢に看取られて逝去。

ー1925年にはいると陳炯明軍が勢力を挽回したきたので、蒋介石は第一次東征で対峙、攻略。
 軍官学校出身者の活躍顕著。陳軍を追いつめて広東省の大部分を制圧。陳は香港に逃亡。
 蒋介石は教育の成果を喜ぶ電報を孫文に送った。が、その喜びもつかの間、1925年3月12日に
 孫文は病没。知らせを受けた蒋介石は部隊を招集し「三民主義による中国統一という孫大元帥
 の遺志を達成するのが我々に課された使命である」と訓示。

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第3幕「満蒙権益と清帝国の終焉」

第3幕「満蒙権益と清帝国の終焉」

 1. 満州権益から満蒙権益へ
  ー日本が満州においてロシアから継承した権益の中心は、旅順・大連の租借権(1923年
   まで)、と東清鉄道南部支線(長春←→旅順・大連)の経営権。

    旅順・大連は1906年8月、これを「関東州」となずけ、関東都督を設置。
    11月には、南満州鉄道(満鉄)を設立、鉄道以外にも多くの事業。その
    総裁に後藤新平を任命。  
   ーアメリカは門戸開放を謳って当初、日本に好意的。しかし日本の対応はそれほど開放的
    ではなく、アメリカは次第に日本の満州政策は門戸開放原則に反するとの見方強まる。

   ーそれを最も歓迎したのが清国。奉天・巡撫総督 唐紹儀は、アメリカの鉄道資本などの
    導入によって日本による満州の勢力圏化を阻止しようとした。

   ー一方、アメリカ本土では1906年より日本人移民排斥問題が顕在化しており、
    T.ローズベルト大統領は日本の膨張のはけ口として日本の満州政策を黙認する態度。
    ところが、1909年3月に就任したタフト大統領は国務省の極東政策すなわちアメリカ
    資本によって満鉄と並行して満州を南北に走る鉄道を建設して満鉄の独占利益を破る
    ことを門戸開放の方法として主張。
   
   ーこのアメリカの計画はロシアの満州権益を脅かすとしてロシアの反撥招く。ここに
    日露両国は共同してアメリカのドル外交に対抗。進んで1910年7月第二次日露協約で
    満州における両国の権益を相互に保障し合う約束。

   ーやがてその領域は拡大。アメリカの性急かつやや拙劣な外交により、日本はやがて
    南満州全域、さらに東部内蒙古までを日本は勢力圏と見なすようになり、「満蒙権益」
    が叫ばれるようになった。

    
 2. 辛亥革命と中華民国樹立  
ー一方、中国では、1908年11月14、15日。紫禁城では西太后と光緒帝が相次いで逝去。
  光緒帝の甥で、数え3歳の溥儀(宣統帝)が即位。

ー孫文は、1895年10月に広州で最初の武装蜂起、1900年10月恵州、1911年の黄花崗まで、
  のべ11回蜂起していずれも失敗。その孫文が辛亥革命で清帝国崩壊の引き金を弾いた。
  その孫文について紹介。

ー辛亥革命で清朝を倒し、中華民国を樹立。「中国革命の父」、中華民国のみならず、
 大陸でも最近は「国父」と呼ばれる。中国では孫文より孫中山と呼ばれる。

ー清国広東省香山県翠享村(現中山市)の農家に、1866年11月12日、生まれる。ハワイに居た
 兄、孫眉を頼って1878年オアフ島ホノルルに移住。プナホウ・ハイスクールに通ううち西洋
 思想、キリスト教にめざめるが、1883年呼び戻され、帰国後、香港西医書院で医学を学び
 マカオで医師として開業するが、革命思想を抱くようになった。

ー1894年1月、ハワイで興中会を組織。1895年、日清戦後に広州で武装蜂起を企てたが、密告
 で頓挫、日本に亡命。1897年、宮崎滔天(アジア主義者、浪曲師、大陸浪人)の紹介で、
 頭山満(国家主義者、右翼の巨頭、日本・アジアの政治家、革命家と広い交遊)と出会い、
 頭山をつうじて平岡 浩太郎から生活費、活動費の援助を得た。また早稲田鶴巻町の2000平米
 の屋敷は犬養毅が斡旋。
ー1899年、義和団の乱。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗。1902年、中国に妻がいた
 にも拘らず、日本人の大月薫と駆け落ちに近い形で結婚。また浅田春という女性を愛人にし、
 つねに同伴していた。

ーのちアメリカを経てイギリスに渡り、一時、清国公使間に拘留され、その体験を『倫敦被難記
 として発表。世界的に革命家として有名になる。このあと、ハワイ生まれあつかいでアメリカ
 国籍を取得。革命資金を集めるため世界中を飛び回る。

ー1905年、欧州からの帰途、スエズ運河で、アラブ人達が黄色人種の日本がロシアに勝ったこと
 で大いに民族意識を鼓舞されている実態を目撃し、ますます漢民族国家の樹立の意識を高めた
 とされる。 同年、宮崎滔天らの援助で、東京池袋で、興中会、光復会、華興会を糾合して
 中国同盟会を結成。

ー1911年10月10日、武昌城内で新軍兵士が蜂起、武器弾薬庫を占領。11日、反乱軍が湖広
 総督衛門占領、漢陽、漢口の新軍も反乱軍に合流。武漢三鎮は反乱軍たる革命軍が占領。
 かれらは指導者不在だったが、清の派遣した新軍部隊長、黎元洪を都督とする湖北軍政府を
 設立し、清からの独立を唱えた。孫文はこの知らせをアメリカで聞いた。

ー湖北の独立宣言に対して、清は、陸軍大将蔭昌2個師団で鎮圧せんとしたが革命軍に破れた。
  その後、各地で独立が相次ぎ、11月までに湖南、きょう西省、など華中、華南を中心に
  14省が独立宣言。

 ー1911年11月、清は内閣総理大臣を慶親王から袁世凱に替えた。12月、清と独立諸省間で
  停戦成立。

 ー12月25日、アメリカから英国経由で孫文が帰国すると、29日、南京に集合した17省の代表
  が投票、孫文を臨時大総統に選出(孫文16票、黄興1票)。
  中国人留学生も大挙して中国に帰還。なかには蒋介石(第13師団野砲兵第19連隊)
  のように密かに陸軍を離れて革命に加わる者も。

 ー1912年1月1日夜10時。孫文が南京の兩江総督衛門で宣誓。中華民国の樹立で、数千年の
  帝政が終わり、アジアで最初の共和国国家成立。
    
 ーしかし、1912年1月の段階では、華北から東北は依然、清が統治。列強も清を承認。列強は
  袁世凱支持を明確にし、南京の中華民国政府を承認しない姿勢。幹部も、臨時大統領職を
  孫文から袁世凱に譲って、打倒清朝に注力すべしとの考えが優勢に。袁世凱も清朝皇帝の
  退位を模索。


 3. 清帝国の終焉と中華民国北京政府

  ー袁世凱の意向をうけた軍人や在外公使らが皇帝退位を求める上奏。2月12日、宣統帝
   薄儀は退位。薄儀のこどもの頃の鮮烈な記憶 ”光緒帝の皇后とその前で跪いた太った老人
   が泣いていた”(それは袁世凱が宣統帝退位を伝えた瞬間)。
 
  ー皇帝制から君主を戴かない共和制への移行は容易でなかった。
   袁世凱は孫文から臨時大総統の職位を継承するにあたり共和制を支持。
   一方、孫文は、臨時政府を南京に置く、袁世凱が南京で大総統の職位に就く、臨時参議院
   の定める臨時約法を遵守することを求め、参議院も賛同し、袁世凱を臨時大総統に選出。
   しかし袁世凱は南京で大総統になることを拒んだので、ここに中華民国北京政府が誕生。

  ー1912年3月10日、袁世凱、臨時大総統に就任。3月11日、臨時参議院は憲法に代わる
   臨時約法を定めた。この骨格は、議会主導の共和制を望む宗教仁らが主導して起草された
   とされるが、議会の権限が強く規定されていること。国務院、国務総理なども設けられた
   が、これらと大総統の関係が不分明で、以降の中華民国の政治に混乱と袁世凱の独裁を
   招く要因となった。

  ー国会開設に先立って、政党組織活発化。中国同盟会は公開政党となり、少数政党を
   吸収して国民党を結成(1912年8月)。孫文は理事長。実際の首班は、宗教仁。
   1912年12月から1913年2月にかけて行われた国会議員選挙は、衆議院、参議院
   とも国民党が圧勝。宗教仁は国民党による政党内閣を組織し、議会の力を利用して
   袁世凱に対峙しようとした。

  ー議会からの圧力を警戒した袁世凱は、3月20日、宗を上海駅で暗殺させた。享年31。
   袁世凱は、非国民党系の政党を進歩党として結集させ、国民党に対抗させた。
   13年4月、袁世凱は国会を通さずに日英仏露独の5ヶ国から250万ポンドもの借款
   を塩税を担保に受け取り、自らの政権基盤の強化に利用し、議会運営を有利に進めた。

  ー1913年6月9日、袁世凱は自らに批判的は江西都都督の李烈均らの地方長官を罷免。
   多くの地方が反発して独立宣言が相次いだ『第二次革命』。袁世凱はこれを鎮圧。
   孫文や黄興らは台湾経由で日本に亡命。

  ー10月6日、厳重な警戒下、袁世凱は議会で正式に中華民国大総統に選出。
   議会開催を重視するアメリカや中南米諸国はすでに中華民国を承認していたが、
   袁世凱の大総統就任をもって、日英露仏など列強は中華民国を承認した。

  ー袁世凱は、国民党を解散させるとともに、1914年はじめには国会および
    省議会も解散。大総統選挙法を改正してその任期を事実上撤廃。 
 
  ーその前後借款をテコにして軍事力を強化し、列強との調和を重視して、その在華利権の
   維持と安定した通商の環境整備につとめた。

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第2幕「日露戦争と韓国併合」

第2幕「日露戦争と韓国併合」

 1. 日英同盟

  ーイギリスはロシアが遼東半島を租借した1898年頃からロシアの脅威を深刻に受け止め
   警戒を強めた。イギリスの対外戦略の基本「光栄ある孤立splendid isolation」の再検討
   始まる。選択肢は多くなかった。フランスはロシアの同盟国。アメリカは孤立主義で
   海軍国。ロシアの膨張を止めるには陸軍国必要。残るはドイツと日本。ドイツはロシアの
   関心を東に向けさせたい。英独同盟と露仏同盟が対峙する緊張関係は避けたい。

  ー残るは日本。日本の実力は日清戦争で実証。しかも海軍力も備え。その頃、英国は海軍力
   でドイツの追い上げを受けていた。日本と結べば、アジアにおける海軍力に余裕が出て、
   欧州に幾分か引き上げ可能。

  ー当時、桂太郎政権。日英同盟論者は桂太郎首相、小村寿太郎外相、加藤高明駐英公使。
   日露協商論者は元老の伊藤、井上ら。両者は相容れない主張ではなかったが、最悪の
   場合、ロシアとの対決が可能か、の判断では両者にちがい。

  ー加藤高明は、尾張藩の下級
   藩士の家に生まれたが、東大法学部を首席で卒業。三菱に入社後、英国駐在。岩崎弥太郎
   の長女春路と結婚。公使から政界に入り、外相、首相を歴任。開明派のエリート。
    
  ー日英同盟の原動力は日本の実力により自信を持った若い世代。
   桂内閣(最初の非元勲内閣)で同盟締結は象徴的。

  ー日英同盟:1902年1月30日、第一次日英同盟。日英は相互の清における権益を守る。
     同盟はロシアの南下、とりわけ満州占領を意識。

  ー1901年9月7日、8ヶ国連合に3ヶ国(ベルギー、オランダ、スペイン)加えた11ヶ国
    と清の間で、辛丑和約(北京議定書)締結。
     内容: 
     ・ ケテラー殺害謝罪。公使殺害地点に記念碑
     ・ (義和団戦争の首謀者を王族も含めて断罪(死刑も))
       (西太后に処刑された人々の復権)  
     ・ (賠償は4.5億兩)
     ・ 第9条(駐兵権承認)北京から海浜に至る交通を維持するためとして、12ヶ所の
       外国占領承認(事実上の駐兵権承認)日本は天津に本部を置く清国駐屯軍派遣。
    
      ちなみに、盧溝橋事件の時、その地域に駐屯していた日本軍はこの辛丑和約に
      基づいて駐兵。

   ー1902年4月8日。清露間で満州還付条約が締結。ロシアは半年毎、三期に分けて撤兵。
    ロシアは第二期の撤兵を行わないばかりか、1903年清にたいし7項目の撤兵条件を
    つきつけた。

   ー日英同盟直後、ロシアは一時柔軟化。しかしまもなく政府内部で対日強硬派が台頭。
    ロシアの戦争準備が着々進むのを見て、日露間の緊張高まり、日本は開戦を決意。
○開戦。
1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対し、日本海軍駆逐艦奇襲攻撃。損傷あたえたがめぼしい戦果なし。同日、日本陸軍先遣部隊第12師団が、海軍第二艦隊の護衛の下で仁川上陸。第二艦隊は仁川港外でロシア巡洋艦ヴァリアーグと砲艦コレーエツを自沈に追い込んだ。(仁川
沖海戦)

2月10日、日本政府のロシアへの宣戦布告。2月23日、日本と大韓帝国との間で、日本軍の
補給路確保のための日韓議定書が締結。

旅順港での待機を決め込むロシア旅順艦隊の出口を、古い船舶を湾口に沈めて封鎖しようとした
海軍の作戦は失敗(旅順港封鎖作戦)。4月13日、連合艦隊の機雷で戦艦ペトロバヴロフスク
撃沈。旅順艦隊司令長官マカロフ中将戦死。しかし、5月15日、日本海軍の戦艦「八島」と
「初瀬」がロシアの機雷で爆沈。

○旅順要塞攻囲戦、黄海開戦、遼陽会戦。
 4月30〜5月1日、朝鮮半島に上陸していた陸軍第一軍は鴨緑江岸でロシア軍を撃破(
鴨緑江会戦)。遼東半島に上陸した第二軍は5月26日、旅順半島の付け根にある南山の
ロシア軍陣地を攻撃したが、予想外に守りが固く、第二軍は死傷者4000の損害。しかし第二軍は大連占領、そして遼陽目指して北進。6月14日、旅順援護で南下してきたロシア軍を撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利。

 海軍は旅順を陸軍の援助なしで処理したいと固執。しかし沈船での旅順港閉鎖作戦、その後の
機雷による封鎖作戦にも失敗し、ロシアバルト海(バルチック)艦隊の極東回航がほぼ確定したため、海軍は妥協して陸軍の応援を認めた。この経緯で、旅順要塞攻略のための第三軍の編成は遅れたが、5月29日、かつて旅順攻略に参加した乃木希典大将が司令官に任命。

10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊が旅順(旅順陥落の後は
ウラジオストク)に向けてリエパヤ港を出航した。

○旅順攻略。
 旅順攻略作戦は6月から開始。多くの拠点で、海軍も巻込む激戦となった。8月、第四軍も
加えて日露全面戦闘。8月末、遼陽で激しい戦闘。ロシア軍司令官クロパトキン大将は全軍を
退却させ、日本軍は遼陽を占領したが、ロシア軍の撃破はできず。

 旅順要塞攻略の戦略拠点として203高地を攻撃。日本軍も莫大な損害を出しながら、12月4日、203高地占領。旅順港を一望でき、旅順艦隊は既に無力化。しかし、要塞は落ちず。第三軍は
要塞攻撃を続行。東北方面の防衛戦を突破して望台を占領。ロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏。乃木大将は2人の息子を失う。

 沙河では両軍の対峙がつづいていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルグ
大将の主導で、1月25日、日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢。日本軍は戦線崩壊の
危機に陥ったが、秋山好古(司馬遼太郎『坂の上の雲』)少将、立見尚文中将らの奮戦で危機を脱した(黒溝台会戦)。
2月には第三軍が到着。

○奉天会戦
 日本軍はロシア軍の拠点、奉天へ向けた大作戦を開始(奉天会戦)。2月21日、
日本軍左翼が攻撃開始。第二軍、第三軍も投入。ロシア軍は予備軍も投入し、全面
戦闘。第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進。3月9日、ロシア軍
司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またも
ロシア軍の撃破には失敗。

 この結果を受けて、日本側の依頼をうけたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシアはこれを拒否。一方、両国陸軍は、一連の戦闘でともに大きな損害を受けて作戦継続が困難になったため、その後は終戦まで四平街付近で対峙がつづいた。

○日本海海戦
 バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ大航海の末、ようやく5月27日日本近海に到着。1905年
5月27日、午前2時45分、九州西方海域で、連合艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」が汽船(病院船
オリヨールだった)の灯火を夜の海上に確認。接近したところ、4時45分、無灯火航行中の
艦影とばい煙を多数視認。信濃丸、決死・全力で退却しつつ「敵艦見ゆ」の通報。

 5時35分、連合艦隊に「直ちに出航用意」の下令。6時6分、戦艦三笠を先頭に連合艦隊は出航開始。6時21分、連合艦隊は大本営に向け「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出動、
コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」(後半の一文は秋山真之の加筆とされる)。
 10時には最初に駆けつけた第三艦隊第5・6戦隊が、バルチック艦隊を発見。バルチック艦隊も連合艦隊を確認した模様。双方砲撃したが命中弾なし。第三艦隊第5戦隊の巡洋艦など5艦が
バルチック艦隊の前方を横切った。つづいて2波にわたって前方横切る。敵艦隊の正面から
方向を測定することで敵針路を掴むねらい。

 バルチック艦隊は針路前方に機雷が敷かれた場合の危険を避けるため、回避運動に入った。
その結果、隊列が乱れ、もともとの2列縦隊が3列縦隊になっていたという。連合艦隊の水兵は
後に「敵はダンゴでやってきた」と語っている。

 バルチック艦隊の全容を確認した連合艦隊は逐次本隊に合流。13時39分、南西方向に単縦陣で進む連合艦隊の主力(第一、火力、第二戦隊、速力)は、北東方向に進むバルチック艦隊を
ほぼ艦首方向に視認し、三笠は戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令。つづいて北西方向に変針し、
バルチック艦隊の左舷側に横距離を確保。三笠にZ旗掲揚指示。「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。
各員一層奮励努力セヨ」の文言割当。距離12000m。

 14時02分、完全な反航路(すれ違い)、距離6000m。両艦隊の距離は10000m。このまま進むと先頭旗艦がすれ違うのは14時10分。14時05分、距離8000mで約150度の敵前大回頭(
トーゴーターン)。いわゆるT字型。横隊の方が火力は大だが、戦艦は主砲で勝負。実際には逐次大回頭。回頭中は砲撃ができず2分間ほど失うが敵も照準合わせられず、前面で砲撃集中。激しい砲撃戦。30分間の砲戦でバルチック艦隊は第一旗艦クニャージ・スヴォーロノフ、第二旗艦オスラービァはじめ多数が攻撃力を失った。

 第二戦隊(高速)が背後から撹乱。第一戦隊は砲撃火力。第二戦隊は撹乱。第三戦隊は旧式艦隊で別の役割。戦隊ごとの機能特化で効果的に戦力運用展開。夜間も戦闘継続。機関停止しない限り砲撃。機関停止した艦艇は捕獲。

 バルチック艦隊は戦力の大半を一回の海戦で失った。損害は撃沈(戦艦6隻、他10隻)、自沈
5隻、拿捕6隻。残り6隻がマニラ、上海など中立国に逃亡。ウラジオストクに到達したのは3隻のみ。兵員は戦死4830名、捕虜6106名。捕虜にはロジェストヴェンスキー、ネボガトフ兩提督が
含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ。戦死117。戦傷583と軽微。大艦隊同士の
艦隊決戦としては海戦史上空前絶後の一方的勝利となった。

○長途の航海:
 カムラン湾出航後、ウラジオストクまで寄港地なし。石炭はじめ大量の補給物資。排水量が設計排水量をおおきく超過。舷側装甲帯の水線高さの減少や復元力の低下など、あっけない沈没の
一因。当時は2ヶ月に一度は貝やフジツボ落とすためドック入り必要。それができず速度低下。
実際、バルチック艦隊速度 11ノット。日本海軍 15ノット。第二艦隊は17ノット。

○指揮統率、哨戒。
ー東郷平八郎、優れた指揮、統率力。最前線で敵の動向に瞬時に対応。幕僚をもっとも安全な
 司令塔に配置。演習で練度向上。逃げるバルチック艦隊の風上に常に回り込んで優位を保った
 自分が万が一戦死した後の指揮委譲まで。

ー秋山真之の哨戒作戦。済州島と佐世保を一辺とする正方形。碁盤の目に哨戒用艦艇あるいは
 漁船まで配置。73隻。迅速な情報収集体制。

ー下瀬火薬:爆速が当時主流の黒色火薬はもとより現在のTNT火薬を上回る強烈な破壊力。
 ロシア将兵を恐怖に陥れた。超高感度と毒性のため欧米では使われなかったメリニット
 火薬の発展型。海軍技師 下瀬雅允が重傷を負いながらも開発。リスクより爆破力重視。
 日露戦争後、多くの爆発事故はこれが一因か?
 
ーその国際的背景条件:
  ーイギリス:同盟国として好意的対応。極東に向かったバルチック艦隊にたいし、英国は
    スエズ運河の使用を拒否。植民地先での燃料の供給などを厳しく制約。このため艦隊
    の極東到着は遅れ、艦船は整備不良で速度が落ち、水兵ははななだしく疲労。地中海に
    出ようとする黒海艦隊をイギリスは外交的影響力を駆使して妨害。日本海海戦の圧倒的
    勝利はこのイギリスの協力なしには実現しえなかった。
  ー清はロシアが占領している満州の回復ねがう。それには日露の対立の利用も想定。
    清は2月12日に中立宣言。清はロシアの満州撤退を望んでいたので、日本支持に
    傾いていた。清は満州地域の官憲にも中立を指示したが、「好意的中立」。
    鉄道運行、人馬徴収、食糧調達などの面で、ロシアは満州で困難に直面。
    実際、中国の地方大官から日本への献金相次ぐ。(直隷総督 袁世凱からは
    銀2万上海兩)。バルチック艦隊の航行状況も、清の沿岸部の大官から日本領事に
    伝達。戦争終結後、日本から袁世凱含む多くの中国官憲に「勲章」授与。

  ーアメリカは、対満州貿易の維持・発展に利害。門戸開放の原則からロシアに批判的、
    日本に好意的。英米の日本支持の最大は、外債調達への協力。ユダヤ資本の協力。
    ロシアのユダヤ人迫害に敵意。日本政府も、外債募集を重視。公債募集時に戦果が
    あがるように作戦展開。良好な国際関係維持に最大限の注意。

  ー一方、ロシアへの国際支持は弱かった。同盟国フランスはロシアがあまりアジアに
    深入りするのをこのまず。ドイツでも金融資本はユダヤ人問題もありロシア支持せず。

  ーかかる有利な国際関係でも、日本は一応の勝利にとどまった。
    1903年、日本は奉天会戦で勝利したが決定的打撃ではなかった。
    戦場が北にいくほどロシア有利。これを境に両国の軍事バランスは逆転しつつあった。
    ロシアはハルピンで決戦を予定。バルチック艦隊到着をもって巻き返す作戦だった。


 3. ポーツマス条約

   ー日本側もその危険は察知。アメリカも同様。5月日本海海戦で日本が勝利したのを
    きっかけに、米大統領Tローズベルトは和平の斡旋乗り出す。このままではロシアが
    勝利すると考え。

    ロシアが和平に応じたのは国内の革命情勢。これ以上戦争が継続すると革命を促進。
    フランスもそれを怖れ、和平働きかけ。

   ー講話会議は1905年8月アメリカのポーツマスで開始。会議は難航したが、 
     9月5日講話条約締結。中国は交渉参加希望したが認められず。
    ・満州(東3州)に対する中国の主権確認(中国にとって最低限の外交成果)
    ・日本の南満州でのロシア諸利権の継承が決まったが、中国政府の承諾が条件。
    ・賠償金は獲得できず。日本優勢の引き分け。

   ー日本は、ポーツマス条約にしたがって、ロシアの利権を継承すべく清と交渉し、
     1905年12月に北京条約を締結。
     日本が継承した長春以南の地域は満鉄(南満州鉄道株)が運営。
    ・旅順、大連租借地は、関東州と命名。関東都監府(のちに関東省と関東軍に)。

   ーしかし、戦争で巨大な犠牲を負わされた、連戦連勝と知らされていた国民は屈辱的
    講和として激高。東京は暴動状態(日比谷焼き討ち事件)。政府首脳はいかに民衆 
    が不満でも戦争はここで止めるべしと熟知。

   ー日露戦争:事態があまり不利にならないうちに戦争をしかけたこと。完全な軍事的
    勝利の可能性がまったくなかったことなど、日露戦争は太平洋戦争とほとんど変わらぬ
    困難。違っていたのは国際環境と、これに対する日本の指導者の取り組み。

   ー中国の受け止め。日露戦争での日本の勝利は専制にたいする立憲の勝利と受け止めた。
    1905年12月、立憲五大臣を主要国(日米英仏独露)に派遣。
    重視したのは日英独という立憲君主国家。とくに日本は重点的に調査。日本政府も
    手厚い便宜。かれらは議会制導入にともなう皇帝の地位と君主権の問題に注意。
    日本の制度と明治政府が範としたドイツからも学ぶべき、と結論。

   ー憲政五大臣ならびに随員達は、帰国後、国家制度や教育に関する意見書、報告書提出。
    最終結論として日本を範とすべしと具申。

   ー清は立憲君主制への意向を決議し、1906年9月1日「憲政を模倣して実行する」
    と予備立憲を宣言。

   ー1907年5月 袁世凱は予備立憲を急ぐべしとし、憲政を専門的に調査すべく、日本、
    イギリス、ドイツに限定して3人の憲政大臣を派遣。調査の本命は達寿を派遣した日本。
    達は伊藤博文らと協議、法学者 有賀長雄、穂積八束(やつか)を清に招請して憲政
    編査館で講義依頼。達らは、立憲を急ぐこと、欽定憲法で国体を強固に、皇帝の地位
    安泰をはかる、日本と同様に、内閣と憲法を制定してから国会開設すべき、と報告。

   ー1908年8月27日、清は憲政予備の詔を発布。9年以内に憲法制定、議会を招集方針。
    また欽定憲法大綱を提示。

    冒頭「君上大権」”大清皇帝は大清帝国を統治し、万世一系にして、永々に尊戴される” 
    これは日本の欽定憲法とほぼ同じ。明らかに日本を範とした。
    議会開設まで移行期間を設けたのも日本にならった。日本は1881年に国会開設が
    約され、89年に憲法発布、90年国会開設。


 4. 韓国併合

  ー日露戦争の結果、日本は朝鮮半島における支配的な地位、列国から承認。
    1905年7月、アメリカ、桂ータフト協定
    1905年8月12日、イギリス、第二次日英同盟。
       英国:ロシアにインド権益を侵害されることを警戒。
    1905年9月、ロシア、ポーツマス条約
   ー列国の承認を背景に、日本は、11月、韓国に圧力かけて第二次日韓協約締結。
    すでに1904年8月(日露戦争のさなか)第一次日韓協約締結。そのなかで、 
     日本の推薦する人物を顧問に雇い、重要な外交案件はあらかじめ日本と
     協議することを韓国は約束させられていた。
   ー第二次協定は、さらに、日本が韓国の財政・外交の権利を掌握するものとした。
    そのため、日本は、韓国総督府を設置、初代統監に伊藤博文任命。

   ー1907年6月、オランダ、ハーグで開催された万国平和会議に韓国皇帝(高宗コチョン)
    が密使を送り、日本の圧政を列国に訴える(ハーグ密使事件)と、日本はこれを咎めて
    皇帝を退位させ、第三次日韓協約を結び、軍隊を解散させるなど内政の権限も掌握し、
    一層の保護国化を推進。
    ちなみに高宗は殺害された閔妃の夫。高宗は政治に関心なく放蕩・漁色三昧。それも
    一因で世継ぎ問題をめぐり閔妃と高宗の父、大院君との熾烈な闘争に発展ともされる。    

   ー1909年10月、ロシアにむけて旅行中の伊藤博文がハルピンで韓国の独立運動家、
    安重根(アンジュンコン)に暗殺されると、これをきっかけに日本はさらに圧力を
    かけ、1910年8月、韓国併合を断交。初代総監に寺内正毅陸軍大臣を起用。

   ー韓国の抵抗は裏目裏目に出て、かえって日本の植民地化を促進。義兵による抵抗運動は
    あったが、次々に鎮圧され、列強もまた韓国にたいしてほとんど同情を示さなかった。

   ー明治のはじめより、日本外交の最大の目標は韓国の独立だった。朝鮮半島が敵対的な
    第三国の支配下に陥らないようにすること。日清、日露戦争も、朝鮮の独立が最大の
    眼目。ところが、日本は結局、朝鮮を自らの支配下に収めてしまった。矛盾に見える
    が、帝国主義時代においては、他国の支配を阻止することは、しばしば自ら支配する
    ことを意味した。(不可避だったか?)

   ーかつて利益線であった朝鮮半島が「主権線」に入った結果、こんどは満州が日本の
    利益線となった。満州は朝鮮以上に多くの列国が関係する国際政治のフロンティア。
    日露戦争以降の日本の対外政策は、満州権益の維持強化が基本目標となった。

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」Part1

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」Part1

第二次大戦後、今年で70年目を迎えます。世界各地で大戦を振り返り、様々な記念式典が催されます。中国では9月3日に大々的な抗日勝利の大会が計画されています。この夏には日本の安倍首相の「70年談話」が発表されるとされており、とりわけ中国や韓国は神経を尖らせているようです。

中国や韓国は、日本が歴史認識を欠いており、そうした国に将来はない、と厳しい批判を繰り返しています。中国や韓国における対日批判は多分に誇張された面がありますが、翻って、日本の中では19世紀末から20世紀半ばまでの約半世紀にわたる期間の日中関係や日韓関係についての事実展開を、私たちはどれほど学んで来ているでしょうか。

私自身は、終戦直前の生まれで、戦後教育で育って人間ですが、学校教育ではそのあたりをほとんど教わって来ていません。私たち以降、約三世代にわたって歴史的事実を知らないということは、歴史”認識”という以前の重大な知識の欠如と言えるのではないか、と思います。先方で事実が誇張されており、此方で事実が教えられていないというこの情報ギャップは、国際的な議論や理解を妨げる重大な欠陥と思います。

私はこの分野については全くの素人ですが、一人の日本人として、この知識ギャップを少しでも埋めるべきと思い、長いエッセイをまとめました。今回から数回にわたって、このブログにエッセイを掲載したいと思います。

1894年(日清戦争の開始)から1945年(日中戦争・太平洋戦争の終結)までの期間を、全7幕にわたって1幕ずつ掲載して行きたいと思います。

これは、完全原稿ではなく、島田塾で講演をした講演のメモなので、エッセイとしては読みにくいところが多々あろうかと思いますが、御寛恕戴ければと思います。

それでは、第1幕から始めたいと思います。

島田晴雄


「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第1幕「日清戦争」

 1. 歴史的、地政学的背景
  ー地球儀大観:18〜19世紀、英国からはじまる産業革命、
   欧州の工業力飛躍的に上昇、国力:経済力、軍事力の飛躍的強化
   新世界と旧世界の力の大規模な逆転

  ー旧世界の門戸開放迫る。植民地化もしくは開港、通商条約。
   インド、アフリカ、中東、アジア、中国、
   中国:アヘン戦争、アロー号事件、日本:黒船

  ー中国は3000年の文明史、儒教、道教の下になっている孔子の論語は2500年前
  ー中国漢民族は文化に誇りと自信:
    2500年間に大小28〜35の王朝、うち漢民族の王朝は5。
    しかし200〜300年のうちには漢文化に呑み込み、溶解する。

  ー華夷思想。(北狄、東夷、南蛮、西戎)
  ー国境・条約より文化・文明で秩序づけ
    冊封、朝貢外交
  ー西欧文明の衝撃:アヘン戦争。
    西欧流外交の洗礼、国境、条約

  ー19世紀:The Great Game: 大英帝国の世界支配に、台頭するロシア帝国が挑戦。
    大英帝国の権益侵食の脅威:
    欧州:東欧、中欧、中欧アジア、トルコさらに南下して中東も視野
    ロシア東進の脅威、シベリア鉄道。

   ー日本の台頭:黒船、開国、文明開化、西欧文明の急速な吸収:20年間の奇跡的転換
     明治維新:急速、大規模、無血革命、封建制から立憲君主制へ
     西欧型文明国志向(脱亞入欧)(大久保利通、ナポレオンのフランスショック)
     富国強兵:中央集権国家機構、軍隊、殖産興業(前田正名)、教育、 
    ー帝国主義世界の脅威の認識と国家戦略の構想。

 2. 戦争前史
   −1871年、日本は清と日清修好条規を締結。日清双方にとり最初の平等条約。
   ー1876年、日朝修好条規を締結し、日本は朝鮮を開国させた。

   ー清はダブルスタンダード。朝鮮を朝貢国(属国)のまま他の諸国とは条約を締結する。
    日本は朝鮮の独立を求めた。清は冊封関係を以前より強化しようとした。

   ー朝鮮は閔妃政権下でさらに開国をすすめ、1881年には日本モデルによる軍制改革開始。
    これに守旧派が反発。大院君(高宗:放蕩息子の父)はこれを利用してクーデター。
    →壬午(じんご)事変。清国が介入。大院君を逮捕し清国天津に幽閉。
    
   ーその後、閔妃勢力は逆に中国と連携強化。壬午事変以降、朝鮮では、開国派の中でも、
    清国との関係維持強化めざす事大党と、日本をモデルに近代国家樹立と清国からの独立
    をめざす独立党、改革党らの対立図式。

   ー1884年12月、清国が清仏戦争(インドシナをめぐるフランスとの戦争)で忙殺されて
    いる時に独立党の金玉均らは日本と連携してクーデター(甲申こうしん事変)。
    袁世凱率いる清兵が来援し鎮圧。甲申事変の結果、朝鮮では中国の影響強まり、
    袁世凱(北洋軍閥)は朝鮮の内外政に発言力強化。

   ー清国の優位の背景には、清国海軍の優越。
    清の近代海軍。1860年代から形成。渤海、黄海の北洋、上海周辺の南洋、福建および
    広東の海軍から構成。主力は北洋艦隊。1890年の北洋艦隊はドイツ製の定遠、鎮遠
    (1881年製、当時世界最大7000屯級)など主力艦9隻など25隻、総トン数4万屯。 

   ー甲申事変後、日本は海軍力、陸軍力(大陸展開可能な)の強化に注力。それでも、
    清全海軍(日清戦争開始時)82隻(うち水雷艇25)、総トン数 8.5万トン。
    日本海軍(日清戦争時)28隻(うち水雷艇24)、総トン数 5.9万トン。 

  ーエピソード:長崎清国水兵事件。
    1886年8月13日。定遠、鎮遠など4隻が修復のため長崎に来航。
    数名の清の水兵が寄合町の貸し座敷屋「遊楽亭」で乱暴。家財破壊。遊楽亭から通報
    で丸山巡査派出所当直巡査が駆けつけたが水兵は逆に巡査を暴行して立ち去ったl
    15日には、数百人の水兵が日本の巡査と乱闘して死傷者。清の軍事面の優位印象づけ。

  ーロシアの脅威:1861年には一時対馬占領。
   ー1885年シベリア鉄道計画発表、91年、着手。脅威は現実へ。

  ー1890年12月(明治23年)、第一議会の施政方針演説で、山県有朋首相は、日本は
    主権線(領土)を守るだけでなく、利益線に対する影響力を確保すべし、と言明。
    利益線とは、具体的には朝鮮半島。朝鮮半島を脅かしうる国は、清国とロシア。
  ー山県有朋:長州藩士、陸軍大将、第一軍司令官、公爵、内閣総理大臣歴任、元老。   
   
  ー1891年、大津事件:
    ロシア皇太子(のちの皇帝ニコライ二世)が日本訪問時、巡査、津田三蔵
    に襲われた。全国狼狽、政府は大審院に津田を死刑とするよう圧力。 
    ロシア脅威大。ロシアの力が朝鮮に及ぶ前に朝鮮問題をなんとか処理すべし。

  ー対等条約めざす努力。1894年7月、日英通商航海条約調印。
  ー条約改正を可能にした国際関係の変化。
    シベリア鉄道建設によるロシアの東方進出は国際関係に重大な影響。それまでは海経由
    だったので、英国植民地と海軍力でコントロール可能。鉄道建設は英国中心の国際秩序
    全体を動揺。イギリスはこれまでロシアに対抗するため、西アジアではオスマン帝国、
    東アジアでは清国を利用。しかし、この頃から日本にも注目。

 ー日清戦争の発火点は朝鮮における東学党の乱。東学は西学に対抗。儒教、仏教、道教
    など混在した民間宗教。乱鎮静後、睦奥宗光外相らは、この機会に清と戦うことを
    決意しており、清国にたいして朝鮮内政改革共同提出を提案。清が拒否すると単独で
    改革を要求。7月23日には王宮占拠。親日政権樹立。日清の対立深まり、一触即発。

3. 戦争の展開と結末

  ー日清戦争は、1894年7月25日、豊島沖海戦で始まった。
  豊島沖で、日本海軍第一遊撃隊(坪井少将「吉野」「浪速」「秋津洲」)が清の軍艦
  「済遠」「広之」を発見。砲撃。「済遠」が逃走はかったため、「吉野」と「浪速」が追撃
   途上、清の軍艦「操江」と「高揩しょう号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇。高陸号は
   朝鮮に向けて清兵1000人輸送中。坪井の命により「浪速」艦長東郷平八郎海軍大佐が
   停船を命じて臨検、拿捕しようとした。しかし数時間に及ぶ交渉が決裂したため、
   拿捕を断念して撃沈に踏み切った。(高陸号事件)。その後、英国人船員ら3人を救助。
   清兵50人を捕虜。
 
  ー7/31清が対日断交。8/1宣戦布告。日本、8/1に対清断交、8/1宣戦の詔勅発して宣戦。

  ー豊島沖海戦では日本は被害なし。清国側は、済遠、広之が損傷。操江が鹵獲。高陸号 
   撃沈について一次、英国内で反日世論が沸騰したが、英政府が日本寄りだったうえに、
   国際法権威ジョン、ウェストレーキ、トマス・アスキン・ホランド博士が国際法に則った
   処置であるとし、所見をタイム紙が報ずると反日世論は沈静化した。

 ○成歓の戦い。
 ー7月29日深夜、日本軍は左右に分かれて成歓の清軍に夜襲をかけた。地理に不案内で困難な
  戦闘だったが、午前8時頃、日本軍は成歓の抵抗拠点を制圧。さらに午後3時、牙山に到達。
  清軍は居らず、死傷者は日本88。清軍は500名前後。ただし、牙山への行軍は徴用された
  現地の人夫(馬)の逃亡などで行軍に支障を生じた。その責任をとって大隊長古志正網陸軍
  少佐が引責自刃した。

 ー8月26日、日本は朝鮮と大日本大朝鮮両国盟約を締結。朝鮮は、日清戦争を「朝鮮独立の
  ためのもの」とした同盟約にもとづき、国内での日本軍の移動や物資の調達など支援をし、
  また自らも出兵することになった。

○平壌の戦い
  平城戦は、開戦前から清軍内部の混乱があった。総指揮をまかされた葉志超提督は光緒帝と
  李鴻章の催促でようやく南進。しかし夜間、「敵襲」の声に味方同士が発砲して死傷者を
  出し、迎撃作戦は失敗。日本軍は9月15日、予定どおりに攻略戦開始。清軍の抵抗は思いの
  ほか強く、戦況は夕方まで膠着。しかし徹底抗戦派の左宝貴が戦死して平壌城に白旗。

○黄海海戦
  9月16日、威海衛を母港とする北洋艦隊が大連湾を離れ、午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊
  と遭遇。日本艦隊は4隻が前に、本隊6隻が後の単縦陣形。12時50分、横陣形の北洋艦隊
  旗艦「定遠」の30.5cm砲が火を吹いて戦端。
  海戦の結果、連合艦隊は全艦が被弾はしたが、旗艦「松島」など4隻の大・中破。
  北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上の被弾。6隻が沈没、6隻が大・中破。海戦後、北洋艦隊
  の残存艦艇は威海衛にとじこもったために、日本が制海権をほぼ掌握。

○第二軍による旅順攻略
 海戦勝利をふまえ、9月下旬、「冬期大作戦」の一環として、旅順半島攻略戦に着手。
 11月21日、総攻撃。清軍の士気が低く、翌22日までに堅固な旅順要塞を占領。
 日本軍、戦死40、戦勝41、行方不明7。清軍は、戦死4500人、捕虜600。

 この後、旅順大虐殺問題浮上。旅順陥落直後、幼児含む非戦闘員多数を日本軍が
 虐殺、タイムズ、ニューヨークワールドなどで報道。アメリカ上院では条約改正交渉
 は時期尚早の声。陸奥外相の紙上弁明など。しかし翌2月、上院で日米新条約は批准。

○鴨緑江渡河作戦。
○陸海軍共同の山東作戦と北洋艦隊の降伏。
○遼河平原の作戦と遼東半島全域占領

 ー日本優勢で講話交渉進展する中、1895年3月26日、澎湖諸島占領。台湾と澎湖諸島
  の割譲を講話の条件とした。下関条約交渉開始直前1895年1月。尖閣諸島の領有を
  閣議決定。

ー陸海軍とも日本の圧勝。理由:組織や訓練ふくめた軍事技術の大差。それ以上に
  政治的近代化の差。日本陸軍12万。清は李鴻章だけでも5万。無数の兵力?実は内実なし。
  李鴻章:北洋軍閥、洋務運動提唱。
  奥地に入ると日本の存在すら知らない大衆。国家の運命を考える近代的国民は清には不在。

ー1895年4月17日。日本側全権代表、伊藤博文、陸奥宗光と清側全権代表、李鴻章
   が下関条約(中国では馬関締結)締結。
   第1条、清は朝鮮を独立国と認める。朝貢、冊封停止。清は対外関係を条約中心に移す。
   第2条、遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲
   第4条、庫平銀2億兩(3億円7年賦)賠償。清の歳入の2年半分。
   第6条、日清修好条規を破棄。清は日本に対し、西洋諸国と同様の不平等条約締結。
       杭州、蘇州に日本租界開設。

 ー調印された日清講話条約の内容が明らかになると、4月23日、ロシア、フランス、ドイツが
  遼東半島の清への還付を要求。三国干渉。広島の御前会議で、列国会議を開催して処理する
  方針たてたが、睦奥宗光外相は、列国会議は三国以外の干渉を招くおそれ、交渉ながびけば
  清が批准しないリスクなどが考えられ、むしろ即時受け入れ、清には譲歩しないよう説いた
  。この時の閣議は、肺結核を患って兵庫県舞子で療養していた陸奥の病室で行われた。

 ー陸奥は明治日本の近代化をリードした希代の外交官、政治家。紀州藩重臣の家に生まれた
  が、政争に破れて没落。幕末の志士として坂本龍馬、桂小五郎、伊藤博文らと交友。西南
  戦争がらみで投獄後、伊藤の勧めで欧州留学。第二次伊藤内閣で外相。15ヶ国との不平等
  条約撤廃。日清戦争開戦にいたる巧みな外交は「陸奥外交」として知られる。  

 ー日本は5月5日に三国干渉をこれを受け入れ、遼東半島を還付。
  清は日本に3000万両の還付金を払った。

 ー台湾には住民自決を掲げて現地住民らを動員した激しい抵抗。しかし日本軍が上陸して
   ほどなく、11月18日、樺山資紀初代台湾総督が「今や全島全く平定に帰す」として
   台湾平定宣言。日本はアジアで最初の植民地帝国になった。

○閔妃后殺害事件
 ー1895年10月8日未明、閔妃殺害事件。景福宮に、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士
 (大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らが侵入して閔妃を殺害し、死体に石油
  をかけて焼き払う事件が発生。
 ー新任の三浦悟樓公使(陸軍中将)と杉浦溶一一等書記官が共謀し、日本と朝鮮の守備隊、
  警察官、浪人らを組織して実行したとされる。
 ー背景に、親日・開国路線から、清に頼る事大主義に、そしてロシアの南下政策を警戒する
  イギリスを牽制するために親露路線に走る閔妃に対する日本側の懸念と危機感。
 ー駐在外交官が関与したこの事件は世界でも大きく報道され批判された。日本政府は関係者を
  召喚し軍法会議ならびに裁判にかけたが、証拠不十分で不起訴。朝鮮では、この後成立した
  第4次金弘集内閣で関係者3人が処刑され、幕引き。


4. 列強の侵食

  ー日清戦争後、列国は容赦なく清国に進出

  ーロシア:1896年「露清防御秘密同盟条約(露清密約)」を名目として
露はシベリア鉄道の一点から清国領土を横断し、沿海州に至る鉄道を建設し経営する
     権利獲得。東清鉄道。
     1898年、日本から3年前に返還させた遼東半島を租借し、東清鉄道の中心の
     ハルピンから遼東半島の先端の旅順・大連に至る東清鉄道南部支線を建設する
     権利獲得。念願の不凍港を獲得。

   ードイツ:1898年、山東半島でドイツ人宣教師が殺されたことを口実に青島租借。
   ーフランス:広州湾租借
   ーイギリス:威海衛(旅順、大連、青島に対抗)租借、九龍(広州湾に対抗)租借
   ー日本:台湾対岸の福建省について不割譲宣言を行わせたていど。

   ーアメリカはかかる事態に不安。米西戦争に勝利して(1898年)フィリピン獲得。
    アジアに関心強め、中国の植民地化を強く危惧。建国の経緯からして欧州列強の
    植民地支配に反感。列強の分割でアメリカ資本が入り難くなることを警戒。
    列強支配地域でも通商に関しては「門戸開放」を要求。

   ー中国分割に鋭く反応は中国。
    列強による中国分割にともない分割にたいする危機意識、救国意識、国土意識生まれる。

  ○義和団事件:
  ー1899年、山東省西北部でそれ以前から活動していた神拳と義和拳は次第に融合、
    義和団をなのる。「扶清滅洋」を掲げて、キリスト教徒を殺害、西洋から導入した
    鉄道、電線、輸入品を扱う店を暴力的に破壊。租界などで西洋と接する広東人らを攻撃
    「扶清」は、清王朝ということよりも古き良き伝統を守るの意味。

  ー義和団は破壊活動のかたわら青少年に拳法を教えて尊敬も集めた。義和団が北京に
    現れると、列強は警戒し、抗議。4000の兵を北京の警護に派遣。1900年6月10日、
    イギリス海軍中将シーモアが2000の増援部隊を率いて天津を出発。北京紫禁城内の
    中南海では廷臣(御前)会議。義和団を乱民と位置づけ。西太后は義和団に親近感?
    守旧派政府は裁可を与えた?

   ー1899年6月17日、8ヶ国連合軍(独、オーストリア、米仏英伊日露が大古(くー)砲台
    を攻撃すると、清は19日に宣戦を決意。

    6月20日、清軍は東交民港攻撃開始。総理衛門から帰途のあったドイツ公使、フォン・  
    ケテラーを崇文門大街で殺害。21日宣戦布告。以後、50日以上、清軍は公使館区域を
    包囲。英軍到着は遅れた。

   ー最終的には日本1万を主力とする計2万の8ヶ国軍が天津を攻撃占領。
    8月14日、8ヶ国連合軍が北京に侵入して公使館区域を解放。15日未明、
    西太后は光緒帝とともに北京脱出。西安に逃れた。

   ーロシアは当初日本の大量派兵に反対していたが、南満州支線の一部が義和団に破壊され
    はじめると、日本の派兵を認め、かつ混乱をさけるとの名目で満州を占領下においた。
    治安維持を名目に16万人の兵力投入。事変後も事態は深刻。

   ー日本は事件鎮圧に大きな役割。アジア主義と脱亞論が戦わされるなかで、
    西洋諸国の一員として清国と戦ったことは大きな意義。

  
 5. 日本に学ぶ中国戊辰

  「戊戌変法」

  ー変法(vs洋学)を唱える人々は1870年代から各地で運動を起こしていた。明治維新が
   しばしば政治変革の模範とされた。しかしそれはそれほどの流れにならず。

  ーしかし、1895年に梁啓超(開明的思想家、革命家)が序をつけた『日本国志』が刊行
   されると、日清戦後で日本への関心が高まっていたこともあり、変法推進者に多く読まれ
   るようになった。この書物は変法のひとつのモデルとして日本の情報を体系的に清の官僚
   や読書人に提供した。(李海氏)

  ー1998年1月24日、光緒帝は康有為にようやく6回目に意見具申の機会をあたえた。
   この上奏書で康有為は日本の明治の政を政法とすべきと主張。

  ー光緒帝は「明らかに国是を定める」との詔勅を下した。戊戌(ぼじゅつ)変法の始まり。
   この急進的な改革は官僚層や皇族には受け入れ難く、不満は政務を光緒帝にまかせていた
   西太后に集中。西太后は改革派の官僚を罷免。光緒帝側も対抗して袁世凱を味方に
   引き込もうとしたが、袁世凱はこれを西太后に報告。結局、光緒帝は紫禁城内に幽閉。
   康有為、梁啓超らは日本に亡命。ここで戊戌変法は終わったが(戊戌政変)、変法で提案
   された制度は、のちの光緒帝の時代にふたたび採用されたものも多い。

  ー義和団戦争が収束に向かう中、西安にあった光緒帝と西太后は、1901年1月29日
   「変法預約」の詔を発した。(制度改革宣言)
   1901年4月、「制度改革調査機関」設置。
  ー改革の方向性:清は立憲君主制を軸とする近代国家建設(光緒新政)。
   上奏分で強調:36個師団から成る西洋式軍隊(新軍)の創設、商部の設置、
   商会や会社の設立の奨励、商法の制定と実業振興、学制の整備と教育改革、
   科挙の廃止、留学生の派遣と新型官僚の養成。

  ー科挙は王朝の統治を支える基本制度として機能していた。すべての国民に門戸開放、
   一律試験選抜制度は一定の意義。しかし、文章表現の形式主義(八股文)や古典重視が
   激動の時代にそぐわなくなり、19世紀末から改革論が唱えられ始めていた。 
  ー1905年9月、直隷総督の袁世凱、湖広総督の張之洞らの上奏にしたがって科挙廃止決定
 
  ー20世紀初頭、数千人から1万人近くの留学生が日本に渡り、日本そのものというよりも
   日本の摂取した西洋近代を学ぼうとした。

  ー留学の勧め:張之洞:『勧学篇』「伊藤、山県、榎本、陸奥の諸人はみな二十年前
   出洋の学生なり」、小国の日本が興隆したのは、留学で成果。留学先として日本を
   推奨。理由:地理的に近い、経費が少なく済む、日本語が中国語に近い、膨大な
   西洋の知識について日本のフィルターを通して摂取されたものを吸収することが
   清にとってのぞましいと指摘。梁啓超なども同様。

  ー日本側からも留学生誘致の働きかけ。陸軍、外務省。日本留学は義和団戦争後に
    増加。清で留学による学位取得が官位に連動することが決まり、日本でも短期に
    学位を取得できるコースが設置されると、急増。蒋介石、魯迅。
    日本留学急増は、科挙廃止、人材登用制度の改革によるところが大。

  ー日本が清から学ばれる対象になる、とくに20世紀初頭は、日本発中国語メディアの
    影響もあり、中国語に日本語の語彙が大量に流入した。たとえば、経済、組織、社会
    団体、権利、代表、進化、舞台、人類自由、家庭革命などまで。

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