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「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」Part1

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」Part1

第二次大戦後、今年で70年目を迎えます。世界各地で大戦を振り返り、様々な記念式典が催されます。中国では9月3日に大々的な抗日勝利の大会が計画されています。この夏には日本の安倍首相の「70年談話」が発表されるとされており、とりわけ中国や韓国は神経を尖らせているようです。

中国や韓国は、日本が歴史認識を欠いており、そうした国に将来はない、と厳しい批判を繰り返しています。中国や韓国における対日批判は多分に誇張された面がありますが、翻って、日本の中では19世紀末から20世紀半ばまでの約半世紀にわたる期間の日中関係や日韓関係についての事実展開を、私たちはどれほど学んで来ているでしょうか。

私自身は、終戦直前の生まれで、戦後教育で育って人間ですが、学校教育ではそのあたりをほとんど教わって来ていません。私たち以降、約三世代にわたって歴史的事実を知らないということは、歴史”認識”という以前の重大な知識の欠如と言えるのではないか、と思います。先方で事実が誇張されており、此方で事実が教えられていないというこの情報ギャップは、国際的な議論や理解を妨げる重大な欠陥と思います。

私はこの分野については全くの素人ですが、一人の日本人として、この知識ギャップを少しでも埋めるべきと思い、長いエッセイをまとめました。今回から数回にわたって、このブログにエッセイを掲載したいと思います。

1894年(日清戦争の開始)から1945年(日中戦争・太平洋戦争の終結)までの期間を、全7幕にわたって1幕ずつ掲載して行きたいと思います。

これは、完全原稿ではなく、島田塾で講演をした講演のメモなので、エッセイとしては読みにくいところが多々あろうかと思いますが、御寛恕戴ければと思います。

それでは、第1幕から始めたいと思います。

島田晴雄


「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第1幕「日清戦争」

 1. 歴史的、地政学的背景
  ー地球儀大観:18〜19世紀、英国からはじまる産業革命、
   欧州の工業力飛躍的に上昇、国力:経済力、軍事力の飛躍的強化
   新世界と旧世界の力の大規模な逆転

  ー旧世界の門戸開放迫る。植民地化もしくは開港、通商条約。
   インド、アフリカ、中東、アジア、中国、
   中国:アヘン戦争、アロー号事件、日本:黒船

  ー中国は3000年の文明史、儒教、道教の下になっている孔子の論語は2500年前
  ー中国漢民族は文化に誇りと自信:
    2500年間に大小28〜35の王朝、うち漢民族の王朝は5。
    しかし200〜300年のうちには漢文化に呑み込み、溶解する。

  ー華夷思想。(北狄、東夷、南蛮、西戎)
  ー国境・条約より文化・文明で秩序づけ
    冊封、朝貢外交
  ー西欧文明の衝撃:アヘン戦争。
    西欧流外交の洗礼、国境、条約

  ー19世紀:The Great Game: 大英帝国の世界支配に、台頭するロシア帝国が挑戦。
    大英帝国の権益侵食の脅威:
    欧州:東欧、中欧、中欧アジア、トルコさらに南下して中東も視野
    ロシア東進の脅威、シベリア鉄道。

   ー日本の台頭:黒船、開国、文明開化、西欧文明の急速な吸収:20年間の奇跡的転換
     明治維新:急速、大規模、無血革命、封建制から立憲君主制へ
     西欧型文明国志向(脱亞入欧)(大久保利通、ナポレオンのフランスショック)
     富国強兵:中央集権国家機構、軍隊、殖産興業(前田正名)、教育、 
    ー帝国主義世界の脅威の認識と国家戦略の構想。

 2. 戦争前史
   −1871年、日本は清と日清修好条規を締結。日清双方にとり最初の平等条約。
   ー1876年、日朝修好条規を締結し、日本は朝鮮を開国させた。

   ー清はダブルスタンダード。朝鮮を朝貢国(属国)のまま他の諸国とは条約を締結する。
    日本は朝鮮の独立を求めた。清は冊封関係を以前より強化しようとした。

   ー朝鮮は閔妃政権下でさらに開国をすすめ、1881年には日本モデルによる軍制改革開始。
    これに守旧派が反発。大院君(高宗:放蕩息子の父)はこれを利用してクーデター。
    →壬午(じんご)事変。清国が介入。大院君を逮捕し清国天津に幽閉。
    
   ーその後、閔妃勢力は逆に中国と連携強化。壬午事変以降、朝鮮では、開国派の中でも、
    清国との関係維持強化めざす事大党と、日本をモデルに近代国家樹立と清国からの独立
    をめざす独立党、改革党らの対立図式。

   ー1884年12月、清国が清仏戦争(インドシナをめぐるフランスとの戦争)で忙殺されて
    いる時に独立党の金玉均らは日本と連携してクーデター(甲申こうしん事変)。
    袁世凱率いる清兵が来援し鎮圧。甲申事変の結果、朝鮮では中国の影響強まり、
    袁世凱(北洋軍閥)は朝鮮の内外政に発言力強化。

   ー清国の優位の背景には、清国海軍の優越。
    清の近代海軍。1860年代から形成。渤海、黄海の北洋、上海周辺の南洋、福建および
    広東の海軍から構成。主力は北洋艦隊。1890年の北洋艦隊はドイツ製の定遠、鎮遠
    (1881年製、当時世界最大7000屯級)など主力艦9隻など25隻、総トン数4万屯。 

   ー甲申事変後、日本は海軍力、陸軍力(大陸展開可能な)の強化に注力。それでも、
    清全海軍(日清戦争開始時)82隻(うち水雷艇25)、総トン数 8.5万トン。
    日本海軍(日清戦争時)28隻(うち水雷艇24)、総トン数 5.9万トン。 

  ーエピソード:長崎清国水兵事件。
    1886年8月13日。定遠、鎮遠など4隻が修復のため長崎に来航。
    数名の清の水兵が寄合町の貸し座敷屋「遊楽亭」で乱暴。家財破壊。遊楽亭から通報
    で丸山巡査派出所当直巡査が駆けつけたが水兵は逆に巡査を暴行して立ち去ったl
    15日には、数百人の水兵が日本の巡査と乱闘して死傷者。清の軍事面の優位印象づけ。

  ーロシアの脅威:1861年には一時対馬占領。
   ー1885年シベリア鉄道計画発表、91年、着手。脅威は現実へ。

  ー1890年12月(明治23年)、第一議会の施政方針演説で、山県有朋首相は、日本は
    主権線(領土)を守るだけでなく、利益線に対する影響力を確保すべし、と言明。
    利益線とは、具体的には朝鮮半島。朝鮮半島を脅かしうる国は、清国とロシア。
  ー山県有朋:長州藩士、陸軍大将、第一軍司令官、公爵、内閣総理大臣歴任、元老。   
   
  ー1891年、大津事件:
    ロシア皇太子(のちの皇帝ニコライ二世)が日本訪問時、巡査、津田三蔵
    に襲われた。全国狼狽、政府は大審院に津田を死刑とするよう圧力。 
    ロシア脅威大。ロシアの力が朝鮮に及ぶ前に朝鮮問題をなんとか処理すべし。

  ー対等条約めざす努力。1894年7月、日英通商航海条約調印。
  ー条約改正を可能にした国際関係の変化。
    シベリア鉄道建設によるロシアの東方進出は国際関係に重大な影響。それまでは海経由
    だったので、英国植民地と海軍力でコントロール可能。鉄道建設は英国中心の国際秩序
    全体を動揺。イギリスはこれまでロシアに対抗するため、西アジアではオスマン帝国、
    東アジアでは清国を利用。しかし、この頃から日本にも注目。

 ー日清戦争の発火点は朝鮮における東学党の乱。東学は西学に対抗。儒教、仏教、道教
    など混在した民間宗教。乱鎮静後、睦奥宗光外相らは、この機会に清と戦うことを
    決意しており、清国にたいして朝鮮内政改革共同提出を提案。清が拒否すると単独で
    改革を要求。7月23日には王宮占拠。親日政権樹立。日清の対立深まり、一触即発。

3. 戦争の展開と結末

  ー日清戦争は、1894年7月25日、豊島沖海戦で始まった。
  豊島沖で、日本海軍第一遊撃隊(坪井少将「吉野」「浪速」「秋津洲」)が清の軍艦
  「済遠」「広之」を発見。砲撃。「済遠」が逃走はかったため、「吉野」と「浪速」が追撃
   途上、清の軍艦「操江」と「高揩しょう号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇。高陸号は
   朝鮮に向けて清兵1000人輸送中。坪井の命により「浪速」艦長東郷平八郎海軍大佐が
   停船を命じて臨検、拿捕しようとした。しかし数時間に及ぶ交渉が決裂したため、
   拿捕を断念して撃沈に踏み切った。(高陸号事件)。その後、英国人船員ら3人を救助。
   清兵50人を捕虜。
 
  ー7/31清が対日断交。8/1宣戦布告。日本、8/1に対清断交、8/1宣戦の詔勅発して宣戦。

  ー豊島沖海戦では日本は被害なし。清国側は、済遠、広之が損傷。操江が鹵獲。高陸号 
   撃沈について一次、英国内で反日世論が沸騰したが、英政府が日本寄りだったうえに、
   国際法権威ジョン、ウェストレーキ、トマス・アスキン・ホランド博士が国際法に則った
   処置であるとし、所見をタイム紙が報ずると反日世論は沈静化した。

 ○成歓の戦い。
 ー7月29日深夜、日本軍は左右に分かれて成歓の清軍に夜襲をかけた。地理に不案内で困難な
  戦闘だったが、午前8時頃、日本軍は成歓の抵抗拠点を制圧。さらに午後3時、牙山に到達。
  清軍は居らず、死傷者は日本88。清軍は500名前後。ただし、牙山への行軍は徴用された
  現地の人夫(馬)の逃亡などで行軍に支障を生じた。その責任をとって大隊長古志正網陸軍
  少佐が引責自刃した。

 ー8月26日、日本は朝鮮と大日本大朝鮮両国盟約を締結。朝鮮は、日清戦争を「朝鮮独立の
  ためのもの」とした同盟約にもとづき、国内での日本軍の移動や物資の調達など支援をし、
  また自らも出兵することになった。

○平壌の戦い
  平城戦は、開戦前から清軍内部の混乱があった。総指揮をまかされた葉志超提督は光緒帝と
  李鴻章の催促でようやく南進。しかし夜間、「敵襲」の声に味方同士が発砲して死傷者を
  出し、迎撃作戦は失敗。日本軍は9月15日、予定どおりに攻略戦開始。清軍の抵抗は思いの
  ほか強く、戦況は夕方まで膠着。しかし徹底抗戦派の左宝貴が戦死して平壌城に白旗。

○黄海海戦
  9月16日、威海衛を母港とする北洋艦隊が大連湾を離れ、午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊
  と遭遇。日本艦隊は4隻が前に、本隊6隻が後の単縦陣形。12時50分、横陣形の北洋艦隊
  旗艦「定遠」の30.5cm砲が火を吹いて戦端。
  海戦の結果、連合艦隊は全艦が被弾はしたが、旗艦「松島」など4隻の大・中破。
  北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上の被弾。6隻が沈没、6隻が大・中破。海戦後、北洋艦隊
  の残存艦艇は威海衛にとじこもったために、日本が制海権をほぼ掌握。

○第二軍による旅順攻略
 海戦勝利をふまえ、9月下旬、「冬期大作戦」の一環として、旅順半島攻略戦に着手。
 11月21日、総攻撃。清軍の士気が低く、翌22日までに堅固な旅順要塞を占領。
 日本軍、戦死40、戦勝41、行方不明7。清軍は、戦死4500人、捕虜600。

 この後、旅順大虐殺問題浮上。旅順陥落直後、幼児含む非戦闘員多数を日本軍が
 虐殺、タイムズ、ニューヨークワールドなどで報道。アメリカ上院では条約改正交渉
 は時期尚早の声。陸奥外相の紙上弁明など。しかし翌2月、上院で日米新条約は批准。

○鴨緑江渡河作戦。
○陸海軍共同の山東作戦と北洋艦隊の降伏。
○遼河平原の作戦と遼東半島全域占領

 ー日本優勢で講話交渉進展する中、1895年3月26日、澎湖諸島占領。台湾と澎湖諸島
  の割譲を講話の条件とした。下関条約交渉開始直前1895年1月。尖閣諸島の領有を
  閣議決定。

ー陸海軍とも日本の圧勝。理由:組織や訓練ふくめた軍事技術の大差。それ以上に
  政治的近代化の差。日本陸軍12万。清は李鴻章だけでも5万。無数の兵力?実は内実なし。
  李鴻章:北洋軍閥、洋務運動提唱。
  奥地に入ると日本の存在すら知らない大衆。国家の運命を考える近代的国民は清には不在。

ー1895年4月17日。日本側全権代表、伊藤博文、陸奥宗光と清側全権代表、李鴻章
   が下関条約(中国では馬関締結)締結。
   第1条、清は朝鮮を独立国と認める。朝貢、冊封停止。清は対外関係を条約中心に移す。
   第2条、遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲
   第4条、庫平銀2億兩(3億円7年賦)賠償。清の歳入の2年半分。
   第6条、日清修好条規を破棄。清は日本に対し、西洋諸国と同様の不平等条約締結。
       杭州、蘇州に日本租界開設。

 ー調印された日清講話条約の内容が明らかになると、4月23日、ロシア、フランス、ドイツが
  遼東半島の清への還付を要求。三国干渉。広島の御前会議で、列国会議を開催して処理する
  方針たてたが、睦奥宗光外相は、列国会議は三国以外の干渉を招くおそれ、交渉ながびけば
  清が批准しないリスクなどが考えられ、むしろ即時受け入れ、清には譲歩しないよう説いた
  。この時の閣議は、肺結核を患って兵庫県舞子で療養していた陸奥の病室で行われた。

 ー陸奥は明治日本の近代化をリードした希代の外交官、政治家。紀州藩重臣の家に生まれた
  が、政争に破れて没落。幕末の志士として坂本龍馬、桂小五郎、伊藤博文らと交友。西南
  戦争がらみで投獄後、伊藤の勧めで欧州留学。第二次伊藤内閣で外相。15ヶ国との不平等
  条約撤廃。日清戦争開戦にいたる巧みな外交は「陸奥外交」として知られる。  

 ー日本は5月5日に三国干渉をこれを受け入れ、遼東半島を還付。
  清は日本に3000万両の還付金を払った。

 ー台湾には住民自決を掲げて現地住民らを動員した激しい抵抗。しかし日本軍が上陸して
   ほどなく、11月18日、樺山資紀初代台湾総督が「今や全島全く平定に帰す」として
   台湾平定宣言。日本はアジアで最初の植民地帝国になった。

○閔妃后殺害事件
 ー1895年10月8日未明、閔妃殺害事件。景福宮に、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士
 (大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らが侵入して閔妃を殺害し、死体に石油
  をかけて焼き払う事件が発生。
 ー新任の三浦悟樓公使(陸軍中将)と杉浦溶一一等書記官が共謀し、日本と朝鮮の守備隊、
  警察官、浪人らを組織して実行したとされる。
 ー背景に、親日・開国路線から、清に頼る事大主義に、そしてロシアの南下政策を警戒する
  イギリスを牽制するために親露路線に走る閔妃に対する日本側の懸念と危機感。
 ー駐在外交官が関与したこの事件は世界でも大きく報道され批判された。日本政府は関係者を
  召喚し軍法会議ならびに裁判にかけたが、証拠不十分で不起訴。朝鮮では、この後成立した
  第4次金弘集内閣で関係者3人が処刑され、幕引き。


4. 列強の侵食

  ー日清戦争後、列国は容赦なく清国に進出

  ーロシア:1896年「露清防御秘密同盟条約(露清密約)」を名目として
露はシベリア鉄道の一点から清国領土を横断し、沿海州に至る鉄道を建設し経営する
     権利獲得。東清鉄道。
     1898年、日本から3年前に返還させた遼東半島を租借し、東清鉄道の中心の
     ハルピンから遼東半島の先端の旅順・大連に至る東清鉄道南部支線を建設する
     権利獲得。念願の不凍港を獲得。

   ードイツ:1898年、山東半島でドイツ人宣教師が殺されたことを口実に青島租借。
   ーフランス:広州湾租借
   ーイギリス:威海衛(旅順、大連、青島に対抗)租借、九龍(広州湾に対抗)租借
   ー日本:台湾対岸の福建省について不割譲宣言を行わせたていど。

   ーアメリカはかかる事態に不安。米西戦争に勝利して(1898年)フィリピン獲得。
    アジアに関心強め、中国の植民地化を強く危惧。建国の経緯からして欧州列強の
    植民地支配に反感。列強の分割でアメリカ資本が入り難くなることを警戒。
    列強支配地域でも通商に関しては「門戸開放」を要求。

   ー中国分割に鋭く反応は中国。
    列強による中国分割にともない分割にたいする危機意識、救国意識、国土意識生まれる。

  ○義和団事件:
  ー1899年、山東省西北部でそれ以前から活動していた神拳と義和拳は次第に融合、
    義和団をなのる。「扶清滅洋」を掲げて、キリスト教徒を殺害、西洋から導入した
    鉄道、電線、輸入品を扱う店を暴力的に破壊。租界などで西洋と接する広東人らを攻撃
    「扶清」は、清王朝ということよりも古き良き伝統を守るの意味。

  ー義和団は破壊活動のかたわら青少年に拳法を教えて尊敬も集めた。義和団が北京に
    現れると、列強は警戒し、抗議。4000の兵を北京の警護に派遣。1900年6月10日、
    イギリス海軍中将シーモアが2000の増援部隊を率いて天津を出発。北京紫禁城内の
    中南海では廷臣(御前)会議。義和団を乱民と位置づけ。西太后は義和団に親近感?
    守旧派政府は裁可を与えた?

   ー1899年6月17日、8ヶ国連合軍(独、オーストリア、米仏英伊日露が大古(くー)砲台
    を攻撃すると、清は19日に宣戦を決意。

    6月20日、清軍は東交民港攻撃開始。総理衛門から帰途のあったドイツ公使、フォン・  
    ケテラーを崇文門大街で殺害。21日宣戦布告。以後、50日以上、清軍は公使館区域を
    包囲。英軍到着は遅れた。

   ー最終的には日本1万を主力とする計2万の8ヶ国軍が天津を攻撃占領。
    8月14日、8ヶ国連合軍が北京に侵入して公使館区域を解放。15日未明、
    西太后は光緒帝とともに北京脱出。西安に逃れた。

   ーロシアは当初日本の大量派兵に反対していたが、南満州支線の一部が義和団に破壊され
    はじめると、日本の派兵を認め、かつ混乱をさけるとの名目で満州を占領下においた。
    治安維持を名目に16万人の兵力投入。事変後も事態は深刻。

   ー日本は事件鎮圧に大きな役割。アジア主義と脱亞論が戦わされるなかで、
    西洋諸国の一員として清国と戦ったことは大きな意義。

  
 5. 日本に学ぶ中国戊辰

  「戊戌変法」

  ー変法(vs洋学)を唱える人々は1870年代から各地で運動を起こしていた。明治維新が
   しばしば政治変革の模範とされた。しかしそれはそれほどの流れにならず。

  ーしかし、1895年に梁啓超(開明的思想家、革命家)が序をつけた『日本国志』が刊行
   されると、日清戦後で日本への関心が高まっていたこともあり、変法推進者に多く読まれ
   るようになった。この書物は変法のひとつのモデルとして日本の情報を体系的に清の官僚
   や読書人に提供した。(李海氏)

  ー1998年1月24日、光緒帝は康有為にようやく6回目に意見具申の機会をあたえた。
   この上奏書で康有為は日本の明治の政を政法とすべきと主張。

  ー光緒帝は「明らかに国是を定める」との詔勅を下した。戊戌(ぼじゅつ)変法の始まり。
   この急進的な改革は官僚層や皇族には受け入れ難く、不満は政務を光緒帝にまかせていた
   西太后に集中。西太后は改革派の官僚を罷免。光緒帝側も対抗して袁世凱を味方に
   引き込もうとしたが、袁世凱はこれを西太后に報告。結局、光緒帝は紫禁城内に幽閉。
   康有為、梁啓超らは日本に亡命。ここで戊戌変法は終わったが(戊戌政変)、変法で提案
   された制度は、のちの光緒帝の時代にふたたび採用されたものも多い。

  ー義和団戦争が収束に向かう中、西安にあった光緒帝と西太后は、1901年1月29日
   「変法預約」の詔を発した。(制度改革宣言)
   1901年4月、「制度改革調査機関」設置。
  ー改革の方向性:清は立憲君主制を軸とする近代国家建設(光緒新政)。
   上奏分で強調:36個師団から成る西洋式軍隊(新軍)の創設、商部の設置、
   商会や会社の設立の奨励、商法の制定と実業振興、学制の整備と教育改革、
   科挙の廃止、留学生の派遣と新型官僚の養成。

  ー科挙は王朝の統治を支える基本制度として機能していた。すべての国民に門戸開放、
   一律試験選抜制度は一定の意義。しかし、文章表現の形式主義(八股文)や古典重視が
   激動の時代にそぐわなくなり、19世紀末から改革論が唱えられ始めていた。 
  ー1905年9月、直隷総督の袁世凱、湖広総督の張之洞らの上奏にしたがって科挙廃止決定
 
  ー20世紀初頭、数千人から1万人近くの留学生が日本に渡り、日本そのものというよりも
   日本の摂取した西洋近代を学ぼうとした。

  ー留学の勧め:張之洞:『勧学篇』「伊藤、山県、榎本、陸奥の諸人はみな二十年前
   出洋の学生なり」、小国の日本が興隆したのは、留学で成果。留学先として日本を
   推奨。理由:地理的に近い、経費が少なく済む、日本語が中国語に近い、膨大な
   西洋の知識について日本のフィルターを通して摂取されたものを吸収することが
   清にとってのぞましいと指摘。梁啓超なども同様。

  ー日本側からも留学生誘致の働きかけ。陸軍、外務省。日本留学は義和団戦争後に
    増加。清で留学による学位取得が官位に連動することが決まり、日本でも短期に
    学位を取得できるコースが設置されると、急増。蒋介石、魯迅。
    日本留学急増は、科挙廃止、人材登用制度の改革によるところが大。

  ー日本が清から学ばれる対象になる、とくに20世紀初頭は、日本発中国語メディアの
    影響もあり、中国語に日本語の語彙が大量に流入した。たとえば、経済、組織、社会
    団体、権利、代表、進化、舞台、人類自由、家庭革命などまで。

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