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「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第7幕「第二次世界大戦と日米戦争」

第7幕「第二次世界大戦と日米戦争」

1. 第二次大戦勃発
  ○第二次大戦勃発   
   ー独ソ不可侵条約直後の1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵入し、9月3日
    これに対して英仏が宣戦布告。第二次世界大戦勃発。日本外交に外交転換の好機。
   
   ー平沼の次の阿部信行内閣は汪兆銘政権樹立で停滞し、アメリカとの国交回復にも失敗し
    通商航海条約廃棄は発効。物価上昇、社会不安も深刻で、内閣はささいなキッカケ
    で1940年1月に総辞職。

   ーその次は、海軍の米内光政が組閣。米内内閣は、現状維持的な性格。懸案の汪兆銘政権
    樹立もようやく3月に実現。

   ーところが1940年4月、膠着していた西部戦線でドイツが電撃戦。5月にはオランダ、
    ベルギー、ルクセンブルク、6月にはフランスを降伏させた。このような情勢の急変
    で日本の世論もまた一変。

 ○近衛第二次内閣(1940年7月)と大政翼賛会
  ーオランダ、フランスの崩壊により東南アジアに力の真空。イギリスが降伏すれば真空は
   さらに拡大。日米通商航海条約の廃棄もあり、南方の資源は日本にとって喉から手が出る
   ほど欲しかった。こうして対独接近と南方進出を説く声が高まる。近衛は新党結成の準備
   非常な人気。陸軍が陸相の辞職で米内内閣を倒すと、近衛が再び組閣。1940年7月。

  ー近衛の組閣とともに近衛新党運動は一段と活発になり、既成政党はこの流れに取り
   残されまいと、次々に解党してこれに参加。10月に成立したのは「大政翼賛会」
   という巨大組織。しかし内実は乏しい。

 ○三国同盟成立(1940年9月)と松岡洋右 
 ー外相には「英雄」松岡洋右。背後に外務省中堅の革新派の支持。松岡はただちに日独
   関係強化、9月日独伊三国同盟成立させた。次いで対ソ交渉着手。1941年4月、日ソ
   中立条約締結。このような日独ソ提携の力を背景にアメリカと交渉、松岡の方針。

  ー松岡が日ソ条約の調印に成功した頃、近衛首相の周辺では日米関係改善のための
   秘密の日米交渉が進みつつあった。しかし帰国した松岡が興味を示さなかったため、
   1941年7月、近衛はいったん総辞職し、再度大命降下を受けて第三次近衛内閣組閣。
   日米交渉をすすめるために松岡を切った。


 ○日本軍仏印進駐(1940年9月)アメリカの態度硬化

 ー日本軍は、重慶政府が屈服せぬのは援蒋ルートからの在外中国人他の支援のせいと判断
      「援蒋」ルート:
        ・雲南省昆明からビルマ、3000kmの山岳ルート
        ・仏領インドシナへのフランス・インドルート
        ・新チャン省からソ連に至る西北ルート
   その遮断をはかるべく仏印進駐(1940)。東南アジアを経由する列国の対中援助を遮断
   して中国を屈服に追い込む、また東南アジアの戦略資源確保し、英米への依存脱却
   ねらい。これが英米の反発を呼び、日中戦争の国際的拡大へ。
 
  ー蒋介石:抗日戦争の国際化はかねての予測・期待。
   日本の南進とドイツ・イタリアとの枢軸同盟が英米とくに米国の強い反発
   アメリカの対中支援。1940年9月の日本の仏印進駐はさみ、4500万ドル借款
   くず鉄対日禁輸、11月、汪兆銘制権との「日華基本条約」ただちに否認。
   重慶政府への借款、アメリカ5回 6.2億ドル、英、5800万ポンド。


  2. 日米戦争

  ○日米交渉不調
  ー1940年末から断続的に続けられた日米交渉、アメリカはより非妥協的に。
   近衛は対米関係に依然として鈍感。第三次内閣組閣してすぐ、日本は7月
   に仏印進駐。今度はアメリカは在米日本資産の凍結および石油の輸出禁止で応じた。

   ーアメリカの態度は、7月ころからさらに厳しくなる。理由は独ソ戦。6月に独ソ戦が勃発
   アメリカはもはや日本に不本意な譲歩・遠慮は不要になった。しかし、日本はまだ日米
   交渉に期待をかけ、近衛・ルーズベルト頂上会談を考えたがアメリカは応じなかった。

  ○御前会議と東条英機内閣
   ー1941年9月6日、御前会議で、10月下旬をメドとする対米英欄戦争の準備が決定。
    一方、日米交渉は進展せず、第三次近衛内閣総辞職。
    10月18日、東条英機、首相に任命。和平の最大の障碍である陸軍のリーダーを起用し、
    責任ある態度をとらせようとの判断。11月5日の御前会議、日米交渉の最終案決定。
    それがまとまらない場合には、12月初旬に武力発動を決意すると定められた。

   ーこの頃、「近衛日記」によると、山本は近衛に日米戦争の見込みを問われ「それは是非
    やれといわれれば初めの半年は1年の間は随分暴れて御覧に入れる。しかしながら、2年
    3年となれば全く確信は持てぬ」と述べたという。井上成美は戦後、この時の山本の
    発言について「優柔不断な近衛さんにはっきりと海軍はやれません。戦えば必ず
    負けます」と言うべきだった、と指摘。
     山本はその後、嶋田繁太郎への手紙で、近衛公は「随分と人を馬鹿にしたる口吻にて
    現海軍の大臣や次官に不平を言われり。是等の言い分は近衛公の常習にて驚くに足らず
    近衛公に信頼して海軍が足を地から離すことは危険千万にして誠に陛下に対し申し訳
    なき事なりとの感を深く致候」と書いた。

  ○ハルノートと真珠湾攻撃
   ーしかし、1941年11月26日、アメリカのハル国務長官は日本提案を拒否し、これまで
    の日米交渉を白紙に戻すに等しいハルノートを示した。アメリカ側には妥協案もあった
    が、イギリス、中国、ソ連はアメリカの参戦を期待し、働きかけたこともあって強硬策
    が選択された。

   ーただ、ハルノートは期限が付されておらず、必ずしも最後通牒ではなく、さらに
     交渉することは不可能ではなかった。吉田茂などはそう考えた。しかし大多数の
     関係者は、ハルノートで戦争不可避と考えた。(北岡見解)。

   ー日本はハルノートは受け入れ不可として、1941年12月8日、真珠湾攻撃に踏み切った。
    これに対して米英も対日宣戦布告、中国も日本と同盟国ドイツ・イタリアに宣戦布告
   (12月9日)。

    
 3. 敗戦へ

 ○蒋介石の悲願:太平洋戦争
  ー太平洋戦争勃発は、蒋介石にとり、満州事変以来の中国の政略(日中問題の国際的
   解決)が苦難の果てに達成されたことを意味。

  ー日本は結局、敗戦まで中国には宣戦布告せず。日本のとっての中国の相手は重慶政府
    ではなく、南京にこしらえた王政権だったから。

  ー1942年1月、「連合国共同宣言」中国、英米ソなど25ヶ国調印。連合国軍結成。
    中国戦線の最高司令官、蒋介石任命。3月、参謀長Stillwell将軍、重慶着任。

    日本:開戦と同時に上海租界制圧、香港攻略・1941年末占領。
    援蒋ルートの要ビルマ・ルートも1942年2月ビルマ占領で遮断。
    マレー半島からシンガポール攻略。マレーの虎、山下奉文大将、パーシバル将軍降伏。
    この遮断は、マレー・シンガポールの失陥による東南アジアからの
    華僑義援金送金の激減とあわせ中国抗戦体制に打撃。
    ただ、中国軍の勢力は、アメリカの武器供与などによって徐徐に高まる。

   ー1942年10月、米英両国、中国に対する不平等条約廃棄発表。
    1943年1月、治外法権撤廃等の条約に調印。中国は4大国の扱い。条約上も確認。
 ○混迷つづく中国戦線
  ー中ソ関係はしばしば中国を落胆。ソ連は抗日戦争初期には数少ない支援国だったが。
    ドイツと日本の軍事的脅威が現実になると、独ソ不可侵条約(1939年8月)
    日ソ中立条約(1941年4月)締結。とくに日ソ中立条約には「ソ連は満州国の
    領土保全と不可侵の尊重を保証・・」と明示。領土問題にも踏み込んでおり、
    中国の対ソ世論不信感↑。

   ー国共の相互不信増幅。国民党は華北の抗日根拠地の拡大と八路軍の増強に脅威。
    共産党は、国民党は日本軍に妥協して反共に転ずるのでは、との疑念。
    国民党は1939年1月「異党活動制限辯法」以来、共産党の活動にタガはめる措置。
    不服従の場合は武力行使も辞さず。1941年1月、華中の新四軍事件。攻撃・武装解除
    国民党による財政締め付け、日本軍の掃討作戦で、辺区を苦境に。

   ー共産党、組織の簡素化、生産性向上、税制改革などで組織強化はかる。
    共産党は、辺区をしだいに「解放区」と呼ぶように。独立自主方針により強調。

   ー日本の大本営は、1942年9月、重慶攻略作戦準備命じたが、11月に作戦中止発表。
    太平洋戦争の戦局は急速に日本不利に。中国戦線で積極攻勢できる状態ではない。

   ー重慶(大後方も)政府の抗戦体制にも困難。モノ不足とインフレが汚職・腐敗を
    助長。公的組織が密輸、密売。蒋介石の義兄、孔祥熈の米ドル公債不正、辞任で
    幕引き。重慶政府のひずみ、ゆがみは「独裁批判」世論を高め、統治基盤を侵食。

   ー共産党の整風運動。:日本軍の掃討作戦、国民政府の財政締め付け・軍事封鎖の危機感
    を、党の内部かため、組織の規律強化、党員の思想統一のエネルギーに転化。

  ○カイロ会談とヤルタ会談
   ー太平洋戦争の戦局、連合国側、日本を圧倒。
    当初の半年のみ戦果:真珠湾攻撃、シンガポール攻略、ミッドウェイ海戦以来惨敗。
   ーヨーロッパ戦線でも。9月イタリア降伏。

   ー1943年11月、カイロ会談。米英中3国。
     宣言:日本にたいして無条件降伏、台湾・満州の中国返還。朝鮮の独立要求。

   ー1945年2月、ヤルタ会談、米英ソ。
     密約、ソ連の対日参戦の条件、
     中国に関しては、中国の主権を著しく侵害するもの:
          (外蒙古の現状維持、大連、旅順へのソ連の権益保障、
           中東鉄道、満鉄線の中ソ合弁とソ連の特殊権益の保障。)
     ルーズベルトは、中国戦線での反抗が進まない中、強力なソ連参戦を促したかった?
     蒋介石は激怒。しかし国力の違いでやむなく受けいれ。

     しかしその後、ソ連と交渉重ね、ソ連参戦後、8月14日、中ソ友好同盟条約締結。
     ヤルタの内容を基本的に認めるのと引き換えに、東北の領土・主権・行政権を
     中国が有する。国民政府が新疆省の管理権を全面的に回復、中共が国民政府の
     軍令・政令に服すること、ソ連が中共を支援せずと宣言する。ソ連容認。

  ○アメリカの中国支援
   ー大戦中に中国の「大国化」を後押ししたのはアメリカ。中国の外交はアメリカ基軸に。
    しかし戦局は、中国戦線膠着。太平洋戦線はアメリカ圧倒。
    日本への爆撃基地でも中国の重要性低下。日本軍は長期抵抗の予測。
    中国軍の実力では大規模な反抗は困難?スターリンの対日参戦要請。

    アメリカは中国戦線参謀長ステルウェルを通じ、訓練された中国軍のビルマ戦線投入も
    要望。蒋介石は共産党との抗争不可避と考え、対中援助物資の中共への分配を拒否。
    ステルウェルは蒋介石の指揮能力、抗戦意欲に疑念。両者に亀裂、軋轢。

    ルーズベルトは中国戦線の惨状に危機感。中国全軍の指揮権をスティルウェルに移譲する
    よう強硬に迫った。蒋介石はこれを屈辱と受けとめ、また移譲によってさらに威信低下
    をおそれて逆にスティルウェルの解任を要求。ルーズベルトはこれ以上こだわると
    蒋介石は失脚して中国が戦線離脱するリスクも考慮し、受け入れ。
    アメリカの対中感情は一時的に悪化。だが、中国の政治的統一と安定が戦後に予想
    されるアメリカ主導の国際体制再構築にとって重要。

    国民政府としても、国内政治改革による安定確保は至上命題。1945年5月、第六回
    党大会(党員265万)で、戦後の復興プラン、憲政推進、憲法制定のための国民大会
    を1945年11月の孫文生誕記念日に招集、決定。

 ○太平洋戦線全面敗退と大陸打通作戦
   ー1944年4月、太平洋戦線での相次ぐ敗退で日本は制海権はもとより、海上交通権喪失、
    日本軍は中国大陸での陸上交通の確保と空軍基地破壊のため、「大陸打通作戦
   (一号作戦)」開始。兵員41万、作戦距離2000km。日中戦争中最大規模軍事攻勢。
    
   ー1944年末までに、河南省の洛陽、湖南省の長沙、衡陽、広西省の桂林、柳州、南寧、
    貴州省の独山をあいつぎ占領。作戦は「打通」では成功。しかし大局的には意味無し。
    鉄道、道路は破壊されており使い物にならず。米空軍の爆撃は成都の移動して続行。
    やがて44年8月マリワナ諸島占領後は、ここを日本本土爆撃の主要基地として使用。

 ○ポツダム宣言と日本の敗戦
   ー1945年4月、米軍沖縄上陸。5月、ベルリンをソ連軍が包囲、ドイツ降伏。
    中国では「打通」で手薄になった華北被占領地に八路軍が侵攻して解放区を拡大。
    1945年7月、米英ソの首脳がドイツ、ポツダムで会談。
    日本の降伏条件(日本の領土削減、軍備撤廃、戦犯裁判、連合国による占領)決定。
    中国の承認を得たのち、26日に米英中の共同宣言として発表(ポツダム宣言)。
    のちにソ連も加わる。

    日本がその受諾を決断できないでいるうちに、広島・長崎に原爆が投下。ソ連は
    対日参戦(8月8日に宣戦布告、9日に侵攻)。これにより戦争継続を断念した政府は、
    8月10日に天皇制の護持を条件とするポツダム宣言受諾の意向を連合国側に伝えた。

 ○蒋介石の「以徳報怨」:
   1945年8月15日、午前の蒋介石のラジオ放送:「8年間にわたって受けた苦痛と犠牲を
  回顧し、これが世界で最後の戦争になることを希望するとともに、日本人に対して一切の
  報復を禁じた。「不念旧悪(過去の罪悪をいつまでも恨むな)」「与人為善(人のために
  善を為せ)と論じた演説はのちに「以徳報怨」(徳を以て怨みに報いよ)の4文字に集約。
  敗戦国日本にたいする中華民国の基本方針を見なされるようになった。

   この演説には、44個師団105万人の大規模に展開していた支那派遣軍がその軍備など
  が共産党軍に渡らぬ洋国民党軍に円滑に委譲させるための戦略的意図も含まれた?

 ○その後、第二次国共内戦に破れた蒋介石は国民党軍を率いて1949年に台湾に移動。

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