« 「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第5幕「満州事変と2.26事件」 | トップページ | 「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第7幕「第二次世界大戦と日米戦争」 »

「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第6幕「日中戦争と傀儡政権」

第6幕「日中戦争と傀儡政権」

○盧溝橋事件
ー組閣から1ヶ月、1937年7月7日、北京郊外で、盧溝橋事件勃発。盧溝橋付近で夜間演習を
  していた支那駐屯軍の1中隊に対して発砲があり、中隊長が点呼。兵1人が行方不明。豊台の
  大隊本部に連絡。大隊本部は主力を現地に急派。盧溝橋付近に展開した日本軍は、翌8日午前
  5時半頃から永定河堤で中国軍と衝突。実は不明兵は当夜のうちに原隊に復帰していた。

 ー中国側では前年12月の西安事変以来内戦はほぼ停止。「一致抗日」の体制づくりが進んだ。 
  蒋介石には、これが偶発でなく日本軍の計画的行動との推定情報も。蒋介石は9日には中央軍
  含む4個師団に「守土抗戦」増援命令。妥協なき徹底抗戦指示。

 ー盧溝橋事件は柳条湖事件とは異なり偶発事件。当初は政府も現地軍の局地解決の方針。
  しかし、やがて華北問題を一挙に解決するため、中国に一撃を加えるべき、との議論
  が台頭。 

 ー1937年、支那事変(日中戦争)開始時、石原莞爾は参謀本部作戦部長として不拡大方針。
  しかし作戦課長の武藤などは強硬路線を主張。石原は不拡大で、参謀本部をまとめ得ず。
石原はこのままでは早期和平方針を実現できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に
 「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意をしめし、近衛首相自ら南京に飛び、
 蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したが、
 近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。

 石原は戦争が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与
 したが、当時の関東軍参謀長、東条英機ら陸軍中枢と対立。1937年9月の参謀本部機構改革
 では石原は参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷。

  翌年から参謀長の東条英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東条の
 不仲が決定的。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育て
 ようと考えていたが、これを理解しない東条を「東条上等兵」と呼んでバカ呼ばわりをした。

 東条も、上官に対して無遠慮に自説を主張することに不快感をもち、石原の批判的言動を
「許すべからざるもの」と思っていた。1938年、関東軍参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官、
 さらに閑職へ。東条の根回しとされる。太平洋戦争開戦前の1941年3月に現役を退いて
 予備役へ。以降は言論活動などにいそしむ。敗戦後の東京裁判では戦犯にならなかった。

ー近衛文麿内閣は当初、「現地解決、不拡大」方針。しかし、11日、中国中央軍北上情報が
 入ると、この紛争を「北支事変」と決定。中国側の計画的武力抗日と断定。
 華北派兵増派。参謀本部も関東軍と朝鮮軍に出動指令。停戦交渉継続の中で、戦闘は北平周辺
 から天津に拡大。7月28日、日本軍による平津(しん)北平・天津地域での全面攻撃に発展。

ー蒋介石は当初、国民には抗戦の決意を伝え、日本には和平のシグナルとなる談話を慎重
 に練って発表。日本軍は平津地域の全面攻撃でこれに応えた。増援強化された日本軍
 にはかなわず北平(無血開城)、天津を失い、保定方面に撤退。

ー蒋介石は和平絶望・徹底抗戦を声明。国民政府8月7日国防会議開催。第一期、100万
 兵力動員計画策定。華北には75万。武器弾薬備蓄は6ヶ月。持久戦を1年程度と見込む。

2. 第二次上海事変

 ○第二次上海事変
 ー上海近辺でも軍事緊張高まり。1937/8/13、海軍陸戦隊と中国軍の戦端開始。日本政府は
  陸軍二個師団派兵決定。中国も1932年の停戦協定破棄。空爆を含む大規模攻勢。
  日中戦争の上海波及。[第二次上海事変]。

 ー中国軍、数で上回り優勢。日本、長崎から海軍航空隊による南京への渡洋爆撃敢行。
  陸軍二個師団増援展開、中国、逐次大部隊投入。上海周辺2ヶ月以上も、ベルダン以来
  最大の凄惨な攻防。日中両国とも宣戦布告せず。事変のまま。

 ー8月30日には海軍から、31日には陸軍から増派の要請。石原莞爾参謀本部第一部長一人が
  不拡大を名目に派兵をしぶっていたが、9月9日、台湾守備隊、第9、13、101師団に動員
  命令が下された。9月末までに、第11師団は戦死1560、戦傷3980、第3師団は戦死1080、
   戦傷3589、9月27日、石原莞爾部長の罷免が決定した。

   蒋介石は上海戦で英米の介入に期待。国際連盟に日本の侵略を提訴し、対日制裁要求
   つづけた。しかし援助申出てきたのはソ連のみ。警戒感はあったが、国内共
共産党にも
   配慮して受けいれ。アメリカは停戦を呼びかけたが、日本への輸出は継続。英国も
   アメリカの協力なくして強い動きはできず。

  ー日本、1937年10月までに5個師団(上海派遣軍)約20万投入。中国は40万で頑強な抵抗
  (中国軍、当時、220万。うち練度・装備優れた中央軍90万、蒋介石直系部隊40〜50万)
   精鋭の約半分が3ヶ月半にわたる上海防衛戦に投入。9月下旬以降は蒋介石自身
   が上海戦区司令長官兼務:異例!執念示す。

  ー日本軍は戦死9000という損害被りつつ、11月中旬には租界を除く上海全市を制圧。
   中国軍は20〜25万の死傷者。市街地と周辺の破壊惨状。

 ○日独伊三国防共協定(1937年11月)
  ー近衛政権は、1937年11月、日独防共協定にイタリーも参加し「日独伊三国防共協定」
   締結。ドイツは1938年3月オーストリア併合。5月満州国承認。中国から軍事顧問団
   引揚げ。対中国武器供与停止。日本は1938年7月ソ連との国境紛争(張鼓峰事件
   で軍事的敗北。ドイツとの提携強化は魅力的。

3. 国民政府首都を重慶に

  ー1937年11月5日、中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形と
  なり、指揮命令系統が混乱したまま総退却。11月15日から18日にかけて、南京において
  高級幕僚会議。トラウトマン和平調停工作もにらみながら、南京固守作戦の方針決定。

 ー11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命。同時に重慶に遷都を宣言し、暫定
  首都となる漢口に中央諸機関の移設を開始。

4. 南京陥落と南京事件

○南京陥落と南京事件
 ー1937年11月、第二次上海事変に投入された松井石根率いる上海派遣軍と第10軍は、軍中央
  の方針を無視して首都南京に攻め上がった。12月1日、軍中央は、現地軍の方針を追認
  形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対して南京攻略命令を下達した。
  12月8日、中支那方面軍は南京を包囲。12月9日、同軍司令官松井石根は、中国軍に対して
  無血開城を勧告。中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は進撃開始。
  12月13日に南京入城。
 ー当時の上海軍の発表では、南京本防御線攻撃から南京城完全攻略まで、日本側戦死800人、
  戦傷4000、中国側:遺棄死体8.4万。捕虜10500。等。
 ーこの南京での戦闘は、多数の市民が巻き添えで殺害されたとの報道が国際的にも多く伝えら
  れ、いわゆる”南京大虐殺”として日本軍への国際的非難が集中した。戦後の東京裁判でも
  焦点のひとつになった。
 ー“大虐殺”の犠牲者は3万人とも30万人とも言われ、未だに事実は不透明。
  中国軍が敗走する過程で、多数の死傷兵が遺棄されたこと、また日本軍が中国投降兵
  を捕虜として扱わず、給養不能を理由に殺害した事例が少なくなかったことなどが
  報告されている。
  一般民衆が犠牲者になったか、については欧米記者などの証言が報告されているが、
  直接目撃したという証言と、目撃はしなかったという証言など混在。中国の投降兵や
  敗残兵が、私服で逃走を図ったところを、“便衣隊”として殺害された例も多かったとされる
  がそれが一般民衆の殺害と混同された面もあると推察される。
 ーいずれにせよ、多数の戦闘員、非戦闘員が戦闘中ならびに戦闘後の混乱のなかで犠牲者に
  なったことは南京攻略の惨禍として特筆される。
  南京攻略に参加した日本軍の質の問題も看過できない。その大半は正規兵でなく予備役
  ないし後備役であった。現役精鋭師団は本土に温存。1938年のデータでは、
  中国方面10個師団の現役兵比率は、17%、と推計されている。
  
 ー南京陥落後、日本はドイツを仲介に立てた和平工作(トラウトマン工作)にいったんは
    応ずる姿勢。しかし中国を敗戦国とみなす日本の要求がエスカレートし、中国は受け
    入れ難く、交渉打ち切り。

○第一次近衛声明(1938.1.16)
  ー1938年1月16日、日本政府は「爾後、国民政府を対手をせず、帝国と提携する
    に足る新興支那政権の成立発展を期待し・・」(第一次近衛声明)。
    蒋介石政権を抹殺した上での傀儡政権樹立へ戦略変更。

   ー北方戦線。日本軍攻勢。西はチャハル省、山西省、すい遠省へ。
    南は、京漢(北京←→武漢)、津浦(天津←→南京)兩鉄道線に沿って、
    河南省、山東省、黄河の線まで作戦展開。

  ○傀儡政権樹立
   ー占領地域では1937年末までに次々に傀儡政権樹立。
     張家口の蒙きょう連合委員会(11月)
     北京(日本占領後に北平から改称)の中華民国臨時政府(12月)
     南京の中華民国維新政府(1938年3月)など。
    近衛声明が言う「新興支那政権」
   
   ーこれに参加した人々は実力も声望も失った旧軍人や政客。占領地統治など不能。
    日本は「事変」としたので、占領地に軍政を布けず傀儡政権立てざるを得ず。
    拡大した戦線を維持するために派遣された日本軍は1937年末までに16個師団。
    (日露戦争をはるかに超える)

   ー中国側:上海戦敗北、南京防衛戦失敗、華北の喪失、蒋介石政権にとって大打撃のはず
 これら軍事的敗北で政権は弱体化し、地方政権に転落と日本側は予測。
    しかし、蒋介石政権はその抗戦の姿勢を評価され、求心力むしろ強化。

  ー1938年5月、近衛は内閣改造。宇垣外相、池田成彬(三井総帥)を蔵相兼商工相。
   1月の「対手とせず」声明が失敗と気づき、その転換を図るため。宇垣は中国に多くの
   権益をもつイギリスと交渉。国民党の孔祥煕行政院長を相手とする和平交渉に着手。
   これには陸軍、外務省からも反撥。かつて英米派だった外務省にもアジア派と枢軸国
   とむすぶ革新派が中堅若手の多数に。近衛の支持も不十分な宇垣は9月に辞任。

  ○第二次国共合作(1938年9月23日)と戦線拡大
    国共両党の政策協定は結ばれなかったが、共産党が三民主義を奉じて国難に対処する
    との国共合作宣言を発し、9/23に蒋介石が共産党の合法的地位を認め、第二次国共
    合作が成立。

   ー長江両岸沿いに西進した日本軍は、中国軍の抵抗で損害受けつつも(戦死者2万と推計)
    1938年10月下旬には中国軍の退却した武漢を占領。並行して、日本軍は外国から香港
    経由の補給路を断つべく、広州作戦実施。守備軍が武漢戦に引き抜かれて手薄だった
    広州は武漢占領の1週前に日本軍の手に陥ちた。かくて、中国の沿海部、長江沿岸の
    主要都市は開戦1年半の間に軒並み日本軍が占領。

   ーかつての清国は敵軍が北京に迫れば皇帝は逃亡。占領されれば屈辱的条約。しかし
    この頃の国民政府は首都どころか要地をほとんど占領されても抗戦やめず。
    中華民国25年で育まれた中国ナショナリズム。ナショナリズムの醸成に決定的な
 触媒になったのが、日本の侵略。日本が戦火を拡大すればするほどナショナリズム
    高揚。抵抗が日本の想像を超えて強化。 
 
   ー不拡大方針をなし崩しに戦線拡大の結果、日本は武漢、広州、を占領した1938年末
    100万に近い部隊を中国に。国内は近衛師団のみ。軍事動員力は限界に。

   ー日本政府の判断と方針。武漢・広州の占領で抗日支那政権を粉砕したと考え、
    軍事的にはとるに足らない存在となった重慶の国民政府を分裂・屈服させる方針。

 ○「東亜新秩序」第二次近衛声明(1938年11月3日)
  ー1938年11月3日、近衛声明「日本が提唱する東亜新秩序建設に参加するなら
    国民政府も拒否しない」。(事実上の中国からの列強の締め出し)

  ー東亜新秩序構想にアメリカは強く反撥。アメリカは、「いかなる国もその主権に属さない
   地域について新秩序なるものの建設を指図する資格はない」「門戸解放原則を無視した
   新秩序は認めない」と強く非難。

  ーこれと前後してアメリカは中国に対し、事実上の借款供与に踏み切った。
   これまで一応、中立を守ってきたアメリカが、ここで中国援助の方針を打ち出した。
   日米戦争の思想的起源は「東亜新秩序構想」にあったと言える(北岡伸一)。

5. 傀儡政権と汪兆銘南京国民政府

 ○汪兆銘傀儡南京国民政府
  ー新秩序の不可欠要素が、汪兆銘工作。中国国民党で蒋介石に次ぐ実力者の汪兆銘を
   重慶から脱出させて新しい政府を作らせ、これと和平を結ぼうとの工作。

  ー汪兆銘は国民党副総裁、国民政府行政院長。孫文を継承する革命党の巨頭。
信望大。
    汪兆銘は、武漢失陥の前後から対日妥協による「和平救国」唱え、日本側と
    水面下の交渉。1938年11月、王派と日本軍関係者で「日華協議記録」
    日華防共協定、満州国の承認、治安回復後2年以内に日本軍撤兵、合意。
    王は11月18日、一党を率いて重慶脱出。

   ー汪兆銘ら、重慶→昆明→ハノイへ。
    第三次近衛声明(12月22日)。汪兆銘の重慶脱出に合わせて発表約していたもの。
    善隣友好、共同防共、経済提携、しかし日本軍撤兵の文字なし。
    日本は「日華協議記録」合意後に、御前会議で、要求をさらに上積みした
    「日支新関係調整方針」を決定して上乗せ。汪兆銘、衝撃と落胆。期待していた
    雲南省の龍雲ら地方実力者の同調もおこらず。

   ー日本軍未占領地で和平派政権樹立の構想は当初からつまずき。ペテンで梯子はずされ。
    同調者もなく。遺された道。日本軍占領地で軍の言い分を聞くだけの傀儡政権。
    要求積み上げる日本側との交渉1年。1940年3月、南京に「国民政府」組織。
    既存の傀儡政権、臨時政府(北京)と維新政府(南京)も合流。
    王派の威望のなさは予想以上。重慶政権は瓦解どころかかえって求心力高まる。

   ー汪兆銘派は「漢奸」(異民族に協力する裏切り者)の汚名を避けたく重慶政府とひそか
    に連絡。南京国民政府の使い道。物資確保、労働力徴発、通貨発行(インフレ対応)。
    日本の労働力不足を補う中国人労働力の移入(1942年決定)、主に戦禍のよる窮乏
    が深刻だった華北地方から。1943年以降、約40万人が傀儡政権の協力で日本へ。
    これは事実上の拉致・強制連行に近い。

  ○持久戦へ:国民政府、共産党
   ー日本軍:1938年12月はじめ、これまでの大量攻勢を変え、長期対峙戦略。
 最小限の兵力で占領地の治安回復、反日勢力の掃討。

   ー中国側:広大な国土で長期持久戦を志向してはいたが、主要都市の相次ぐ失陥は
    予想以上の軍事的、経済的苦境。中国軍の兵員数は日本を上回っていたが、個々の
    部隊の火力の弱さと組織的用兵術の欠如、補給態勢の不備は、膨大な損害に。
   ー蒋介石、武漢失陥後の11月、湖南省の南岳、軍事会議で新方針。
    軍における政治部の強化、民衆の動員と遊撃戦を中心とする持久戦。

   ー共産党は遊撃戦による長期抗戦をさらに強調。毛沢東『持久戦を論ず』(1938)。
    抗日戦争は、戦略的退却、対峙、反抗。対峙段階では民衆の遊撃が有効とした。
    「抗日根拠地」を農村部に構築。日本軍の戦線拡大過程での暴虐、収奪は抗日の
    エネルギーに。抗日根拠地の増大、拡大。やがて行政区「○○辺区」に。

   ー対峙状態に入って、日本軍は、戦闘力の高い常設師団を随時内地に帰還させ、
    守備任務に適した警備用師団と戦闘力のおとる独立混成旅団を多数、抗日根拠地が
    広がる華北に展開。広範な地域に展開したので、1km2あたり日本兵1人の配置。
    1940年時点では0.37人。分散配置と軍紀の劣化した日本軍は抗日住民と八路軍の
    襲撃に悩まされた。
   
   ー八路軍の大作戦。1940年夏から秋「百団作戦」。100あまりの団、20万人動員。
    山西省から河北にかけて鉄道、通信線、日本軍警備拠点への一斉攻撃。予期せぬ
    大被害。日本軍死傷者5000人。中国側も2万超える死傷者。

   ー日本はただちに報復戦「燼滅作戦」。軍ばかりでなく疑わしい住民も死滅せよ。

 中国は「三光作戦:焼きつくし、殺し尽くし、奪い尽くす」と呼んだ。八路軍も
    根拠地でも大被害。

   ー奥地に押し込められた国民政府も苦境。大後方(内陸部西南6省、西北5省)は経済的に
    遅れ。限られた大後方の経済資源は、工業建設と援助物資の運輸ルート確保に優先。

  ○三国同盟強化に海軍反対、近衛内閣総辞職(1939年1月)
   ー三国同盟強化に海軍は反対。対独接近が日英そして日米関係悪化させる恐れ大。
    この問題を解決できず、近衛は1939年1月、辞職。

   ー近衛の後、平沼騏一郎が首相に。対米関係は著しく困難に。東亜新秩序後、アメリカは
    対中支持明確に。英国も同調。1939年7月、日米通商航海条約廃棄通告。
    日本はこの年、5月そして7〜8月、モンゴル人民共和国と満州国との国境での
    戦闘でソ連軍に完敗(ノモンハン事件)。

   ー防共協定の強化は海軍の反対で合意ならず。そこに8月「独ソ不可侵条約」締結。
    平沼首相「欧州の天地は複雑怪奇なる現象を生じ・・」として内閣総辞職。

« 「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第5幕「満州事変と2.26事件」 | トップページ | 「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第7幕「第二次世界大戦と日米戦争」 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1441035/60777092

この記事へのトラックバック一覧です: 「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第6幕「日中戦争と傀儡政権」:

« 「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第5幕「満州事変と2.26事件」 | トップページ | 「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第7幕「第二次世界大戦と日米戦争」 »