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「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第5幕「満州事変と2.26事件」

第5幕「満州事変と2.26事件」

 1. 政党政治の混迷と陸軍の政治的台頭
   ーこの頃(昭和初期 1924〜32年)、内閣の寿命が短い。短命と不安定。
    (以下、北岡分析)
   ー有権者の増加によって伝統的地盤だけでは勝てない。政権を利用した政治資金調達や
    選挙干渉も。野党は政権獲得に奔走。そのため首相奏薦に決定的な力を持つ元老の
    西園寺に接近、反対党のスキャンダルを暴き、軍や枢密院など政党政治に敵対的な
    集団と提携したり、政党政治否定原理に訴えることも。

   ー護憲三派内閣(第一次加藤高明内閣)は、公約だった普通選挙法が成立する(1925年
    3月)や否や政友会は倒閣に走り、高橋是清を引退させて田中義一を総裁に迎え入れ、
    (4月)、革新倶楽部と合体して議席数を増やし(5月)、税制改革をめぐる不一致で
    内閣を倒したが、加藤に大命が降下してもくろみはずれた。

   ー第二次加藤内閣は、加藤の病没で半年。つづいて、憲政会の若槻礼次郎が組閣(1926
    年1月)。これに政友会は執拗なスキャンダル攻撃。また憲政会の中国政策を無策と
    攻撃。枢密院の力を借りてこれを倒した(1927年4月)。

   ーこうして成立した田中内閣は人気低迷。第16回総選挙で鈴木喜三郎内務大臣は選挙
    結果で政権が移動することは天皇大権に反すると政党政治否定論まで。田中内閣は
    中国政策の転換を訴えたが成功せず、山東出兵を行い、北伐軍と衝突して済南事件
    (1928年5月)。張作霖爆殺事件(1928年6月)の処理を誤って天皇の不信任を
    受けて辞職(1929年7月)。

   ー田中内閣の後、民政党(憲政会と政友本党が1927年6月合体して成立)総裁の
    浜口雄幸が組閣。浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結した時、政友会は内閣が
    海軍軍令部の意見を不当に無視し、統帥権を干犯したと非難。浜口はテロで重傷
    負って退任。その後の第二次若槻内閣は満州事変を処理できずに閣内不一致で辞職。

   ーこれに代わった犬養毅政友会内閣は、民政党の不人気に乗じて第18回総選挙で大勝
    したが、1932年2月、海軍士官を中心とする5.15事件で倒れた。

   ーこのような過激な政争で、政党は自ら国民の不信を招き、政党政治に敵対的な政治集団
    を力づけた。政党政治の基礎を堀崩したのは政党自身。1930年代、経済が行き詰まり、
    国防の危機を訴え、満蒙権益の危機を訴えた軍の台頭に政党はとうてい対応し得ず。

   ー事実として政権交代がつづいたのは、首相の奏薦の任にあたった元老が比較的公平な
    判断をしたから。山県と違って強大な勢力をもたなかった西園寺は、何よりも政権の
    安定を期待。政党間の政権移動はそのひとつの方法だった?

 ○陸軍皇道派の台頭
   ー政党政治とW体制の打破を掲げる集団が陸軍中堅層に台頭。
     陸士出身:永田鉄山、小畑敏四郎、板垣征四郎、石原莞爾ら。
     定期的に会合。彼らが、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎らを擁立して
     陸軍の改革と満蒙問題に解決に邁進しようと申し合わせ、1929年。

 1925年8月20日、容共派の重鎮、孫文の有力後継者と目されていた膠仲鎧が暗殺。幹部による
調査委員会。刺客は逮捕されており、糾明は容易だが、問題はその暗殺計画に胡漢民の従兄が
関与。長年の同志、反共右派の代表者である胡に首謀者としての容疑がかけられたため、蒋介石は胡を拘束のうえ、ソ連への出国をすすめた。胡はソ連に去って失脚。蒋介石はついで、軍事部長兼広東省長の許崇智に事件の責任をとるよう要求、失脚。

 主要幹部が死亡、失脚したので、蒋介石は権力集中。第二次東征で陳炯明の本拠地恵州陥落。
広東の軍事的統一達成。1926年1月、第二回党大会、蒋介石は汪兆銘(容共派)に次ぐ2位となり中央執行委員会常務委員。2月には国民革命軍総監に就任。 蒋介石は北伐を志向したが、
共産党もソ連顧問団も時期尚早と反対。ソ連の援助は重要だが、蒋介石は次第にソ連や中国共産党の動きに不信感。とくに国共合作による中共の勢力拡大は看過しえなかった。

 このような状況下で、1926年3月、中山艦事件。共産党員が艦長を務める国民革命軍の軍艦「中山」が、軍総監、蒋介石の許可なく広州から軍官学校のある黄埔へ航行。蒋介石は艦長を逮捕、広州市内に戒厳令。ソ連軍事顧問団公邸、共産党が指導する広州の省港ストライキ委員会
を包囲。労働者糾察隊の武器を没収。蒋介石はこの事件を利用して共産党やソ連の軍事顧問団を
牽制した。党内の支持基盤は弱く、共産党やソ連代表団に支えられて政権を維持してきて汪兆銘
は、自分の権力基盤がゆらいだことに動揺し、3月21日、病気療養を理由にフランスに出国。事実上失脚。かくて蒋介石は国民党の権力を全面掌握。

蒋介石はさらに最高権力者の地位を固めて行く。4月16日、蒋介石は国民政府軍事委員会主席に
選出。5月に開催された第二期中全会で、党中央組織部長。この会議で、党務整理案を承認。
共産党員は国民党の訓令に絶対服従。中央部長職から共産党員を排除。さらに7月6日の臨時党大会で、中央執行委員会常務委員会主席に就任。党と軍の最高職を得た蒋介石は孫文の後継者としての地位を確実なものとした。孫文の後継者として北伐に乗り出す。

 1926年6月5日、蒋介石は国民革命軍総司令に就任。7月1日、北伐宣言および国民革命軍動員令。北伐に参加する国民革命軍は全8軍25個師団、約10万。国民革命軍の中核部隊は黄埔軍官学校出身者だったが、短期の養成には限界があり、蒋介石直系の第一軍以外の軍団は、各地の軍閥などを糾合。非国民党系の部隊を多く抱え
込まざるを得ず、総司令として各軍の統率の手腕が
問われる。

 国民革命軍は破竹の勢いで各地を制圧していった。7月に長沙、8月に湖南省全域、10月には
革命の勃発地である武漢を占領。湖南、湖北を制圧したのち、江西では蒋介石自ら作戦を指揮。
11月には南昌を占領。11月下旬には挟西省、12月には福建省も支配下に。民衆の支持は、「農民協会」で組織化。上海など都市部の自治運動も反軍閥色と強め、北伐軍を支援。

 1927年1月、武漢占領をうけて国民政府は武漢に遷都した。国民党右派の要人は蒋介石とともに北伐に参加し、南昌の司令部に滞在していたため、武漢国民政府の要職の多くは左派で占められた。蒋介石の権勢拡大に危機感を深めた左派はホロディンと結んで蒋介石から権力を剥奪しようとする。遷都直前、先行して武漢に入ったかれらは国民党第二期3中全会の武漢開催を決議。
そこで蒋介石の権限を抑え、左派の領袖、汪兆銘をフランスから呼び戻して国民政府主席に
据えようと画策。

 蒋介石は南昌の総司令部で作戦を指揮し、武漢の国民政府に合流しようとしなかった。武漢は
共産党に乗っとられた政権に見えた。蒋介石は武漢の一連の会議は正当性がないとして、国民党第二期3中全会を南昌で開催することを決定した。しかし、武漢側の工作で、南昌の党中央執行委員多数が武漢に赴いたため、南昌側の正当性がゆらぎ、武漢側が有利となった。北伐の軍事作戦中で武漢側との決裂を避けたい蒋介石は、武漢訪問や汪兆銘復職に賛同するなど妥協。

 結局、国民党第二期3中全会は武漢で開かれ、党中央執行委員会常務委員会主席職の廃止、国民革命軍総司令の権限縮小、集団指導体制の確立が決議。蒋介石の権限は縮小され、共産党が重視する委員会には共産党員が委員として参加。共産党員がはじめて閣僚として参加。汪兆銘の国民政府主席復職、党中央執行委員会常務委員会の首席委員、党中央組織部長就任が決定。
  武漢分共の後、国民党の武漢側と南京側は党の再統合に向けた交渉を開始。経済・軍事で
  優位な南京側と蒋介石の下野に固執して武漢側の溝はなかなか埋まらない。蒋介石が徐州
  の闘いで孫伝芳軍に予期せぬ敗北を喫し、蒋介石は周囲の説得を受け入れて一時下野。

○蒋介石と田中義一首相会談
ー下野表明した蒋介石は1927年9月末、私人の資格で日本訪問。11月5日、私人とは言え、
 田中義一首相との非公式会談。蒋介石は北伐支援を求め、田中は北伐を急がず長江以南を
 固めよと主張。実りのない会談。田中首相は、満州・北支は日本が統治の考え?

ー済南事件や張作霖爆殺事件など田中の首相在任時に起きた一連の対中干渉政策がその後の
 中国側の反日感情を決定的にした。

○宗美齢との婚約
ー約40日にわたった訪日(蒋介石はその後再び日本を訪れることはなかった)で蒋介石が
 得た収穫のひとつ。有馬温泉に湯治中の宗美齢の母親を訪ね、美齢との結婚許可を得たこと。 
 宗美齢は宗家三姉妹の末妹。孫文夫人の宗慶齢の妹。この結婚で蒋介石は孫文の義弟という
 政治資本を得た。美齢の兄が国民政府財政部長の宗子文。長姉、宗霞あい齢が孔祥煕(その
 後、同工商部長)夫人。

 こうしたなか、北伐軍は1928年3月22日に上海、24日に南京に入城。4月12日、蒋介石は共産主義者の容疑者数千人に対して攻撃開始(上海クーデター)。国民政府を南京に設立。国民党から共産主義者を排除、ソヴィエトからの顧問は追放。これが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府(武漢政府)は大衆に支持されず、軍事的にも弱体。まもなく蒋介石と地元江西に軍閥李宗仁にとってかわられ、結局、汪兆銘は蒋介石に降伏し、南京政府に参加した。

ー北伐軍、北京へ。第二次北伐のさなかに、その後の中国と日本の不幸な歴史の予兆とも
 言うべき血なまぐさい事件が起きている。済南事変と張作霖爆殺事件。

           
2. 済南事変、張作霖爆殺事件

○済南事変

 済南は山東省の主要な商業都市。山東省の居留民(1927年末)は16940人、済南に2160。
青島に13640人。

 1928年1月蒋介石が国民革命軍の総司令官に就任。2月に内部で協議し、4月7日国民党は北伐宣言。南軍の内部にはいわゆる客軍が多く、蒋介石の指令、監督が徹底しない。現場で略奪、暴行など働く危険が多い。1927年の南京事件、漢口事件も南軍兵士による同様な被害の例。

 日本側は日本の権益と居留民の保護を理由として4月下旬出兵(第二次山東出兵)。4月20日、
臨時済南派遣隊到着。第六師団は青島に留まっていたが、4月29日、南軍によって膠済鉄道と
電線が破壊されたため、5月2日済南到着。済南に3539人が終結。

 5月1日、済南が南軍の手に落ちると、日本国旗侮辱や反日ビラ頻発、囚人解放、市内は騒然・緊迫。蒋介石総司令官は治安は中国軍が確保するので、日本軍は撤去して欲しいと要望。斎藤警備司令官はそれをうけて防御施設など撤去。問題は革命軍の排日傾向と前年の南京事件にも関わった客軍部隊が済南に到着していたことを日本軍が軽視していたこと。

 国民革命軍兵士が邦人店舗略奪事件。これがきっかけに日本軍と革命軍が衝突。国民政府は
日本軍の不当な攻撃と諸外国や国際連盟の働きかけたが、第三国でもそれは支那一流の宣伝と
受け止められた面もあった。NY times, North China Daily Newsなども中国側主張に疑問。
どちらにどれだけ非があったかについては諸説。

日本側は日本人居留民の被害(暴行、略奪、死傷、破壊行為)など多数(400数+人)の記録。

5月4日、日本は緊急閣議を開いて、増派を決定。5月7日の時点で、南軍は済南を包囲し、千仏山の山砲は日本軍に向けて準備中、済南城内でも戦闘準備中。日本軍兵力は1/10程度。蒋介石は
5月6日午前、ひそかに済南城を脱出。

5月5日、南軍によって惨殺陵辱され遺棄された日本人の死体が発見されると、軍民は激高。積極鷹懲罰。5月7日、午後4時、12時間の期限つきで、暴虐行為に関係した高級武官の処刑、日本軍に抗争した部隊の武装解除、南軍は済南および膠済鉄道沿線12km以外に隔離を要求。南軍が
これを拒否したため、日本軍は済南周囲を掃討、済南城を砲撃。砲撃は司令部と城壁に限定。
安全地帯と避難路を指定。南軍は夜、城外に脱出。5月11日、日本軍は抵抗なしに済南城を占領。
ー中国軍が衝突回避を優先して撤退北上したため、済南は日本軍の占領するところとなり
 その後さらに増派された日本軍によって山東鉄道の沿線地域がほぼ1年にわたり占領。

 済南事変は、日中関係はもとより、東アジアをめぐる国際政治の大きな転換点となった。
 (1)それまでイギリスを主要敵としてきた中国の反帝運動が明確に日本を標的にした。
 (2)蒋介石らの対日感情を決定的に悪化させた。
 (3)第一次済南出兵には同調的だった英米両国が、国民政府に接近し日本に批判的になった
 (4)出先機関(現地軍)が事件を拡大・激化させ、それに軍中央、政府が追従して軍の増派。
 それをメディア・世論が中国に懲罰をと後押し。このパターンはそれ以降の対中国侵略で増幅。   


○張作霖爆殺事件

  関東軍は軍閥をとおした間接統治には限界がある。傀儡政権による間接統治(満州国建国)
を画策。張作霖の東三省復帰は満州国建国の障碍になるとして排除方針。

 4/19、北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定。
5/3、済南事件が起きた。5月16日、もし満州に侵入したら、南北両軍の武装解除を行うことを
閣議決定。アメリカから事前説明要求。5/19ケロッグ国務長官「満州は中華民国の領土」
同国の領土保全を定めた9ヶ国条約を提示。しかし5/20関係当局の協議で「既定方針どおり」に進めることになったが、田中首相は難色。関東軍宛に錦州出動予定中止を打電。河本大作は「田中首相がアメリカに気兼ねしてためらった」とした。*政府統治機能不全あきらか。

 村岡長太郎関東軍司令官は、国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐには、奉天軍の武装解除、および張作霖の下野が必要と考え、関東軍の錦州までの派遣を中央に要請していたが、田中首相が認めないので、村岡司令官は張作霖の暗殺を決意?河本大作大佐は当初は村岡司令官の発意に
反対したが、のちに独自全責任をもって決行したとする。

 1928年6月4日早朝、蒋介石率いる北伐軍との決戦を断念して満州に引き上げる途上の
張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊の皇姑屯(こうことん)の京奉線と満鉄連長線
の立体交差地点を時速10kmほどで通過中、満鉄線の橋脚の仕掛けられていた黄色火薬300kが
爆発。列車は大破炎上。張作霖は両手、両足を吹き飛ばされ、現場で虫の息ながら「日本軍が
やった」と言い残したという。警備、側近の17名が死亡。さらに軍関係者など数名は途中下車
や先行列車に乗り換えるなどで被害から免れた者もいた。

 関東軍司令部は、国民党の犯行に見せかけて張作霖を暗殺する計画を、関東軍司令官村岡
長太郎中将が発案。河本大作大佐が全責任を負って決行する。河本からの指示で、6月4日早朝、
爆薬の準備は、現場の守備担当だった独立守備隊第四中隊長の東宮鉄男大尉ら3人が協力して
行った。現場指揮は東宮大尉。他のふたりは張作霖が乗っていると見られる特別車両を狙って
独立守備隊の監視所から爆薬に点火。なお、特別車両は西太后がお召し列車として使用して
いたもの。河本らは、あらかじめ買収しておいた中国人アヘン患者3名を現場近くに連れ出して銃剣で刺殺。死体を放置して「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)のしわざ」と偽装工作して発表。しかし、死んだふりをしていた一人が逃亡し、張学良のもとに駆け込んで事情を話したため、
偽装がばれた。ただ、毛沢東は後に、これはコミンテルンの謀略とするなど、多くの仮説がある。
田中首相は12月24日、天皇に、これは河本大佐が発案し、少数に指令して実行したもので、その犯行を認めたうえで処分することを上奏。しかし陸軍の閣僚、重臣らが強く反対。白川陸相は
再三にわたり関東軍に問題はない、と上奏。うやむやな幕引きをはかった。その圧力の下で、
田中首相は、翌年6月27日、「陸相の上奏のように関東軍は爆殺には無関係と判明しましたが、警備上の手落ちはあり、責任者を処分します」旨、上奏。天皇は「それでは前と話が違うではないか」と叱責。田中首相が恐縮して弁解しようとすると鈴木貫太郎侍従長が「田中のいうことは
ちっとも判らぬ。もう聞きたくない」とした。鈴木侍従長から天皇の不快感を聞かされた田中首相は引責辞任の腹を固め、内閣総辞職。河本は停職ののち陸軍から除隊。

 爆殺事件が起きたとき、息子の張学良(当時27歳)は北京にいたが、父の死を知るや
日本側に知られぬよう変装して奉天に戻り、迅速に後継体制を整えた。その間の10数日、
張作霖死亡の事実は伏せられ、6月21日になってようやく「本日逝去」と発表された。
張学良もまた父の爆殺が関東軍によるものであることを確信していたが、当面日本を刺激せぬ
よう注意しつつ国民党と結ぶ道を選んだ。
 日本側は、張学良と国民党の接触に神経をとがらせ、硬軟織り交ぜて圧力をかけたが、
張学良はそれに屈せず、この年の暮れ12月29日に「易幟(えきし)」を断行。易幟とは
旗印を替えること。すなわちここ東三省にも「青天白日旗」が一斉に翻った。これは国民政府
を中国の正統政権と認めることを意味する。

ー国民政府はこれに応えて張学良を東北辺防軍司令長官に任命。さらに東北における国民党
 の活動を制限し、東北政権の内政には干渉しないという条件を承認。またこれと引き換え
 に東三省にかかわる外交権は国民党が掌握することに。かくて商租権や鉄道問題など、
 いわゆる「満蒙諸懸案」をもっぱら東北政権と交渉して解決するという従来の日本の
 外交方針は行き詰まりが明白。満州事変はこの行き詰まり打破の意味も。

ー蒋介石は国民革命軍を4つの集団軍に再編し、北伐を再開。北伐軍は1928年6月8日、北京に
入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。北京に到着すると、蒋介石は孫文の遺体に
敬意を表し、首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祀った。そして12月には満州軍閥
張学良が蒋介石政府に忠誠を誓い、国民政府による中国の再統一は成った。

 蒋介石は、孫文の後継者としての立場を確立するために華麗な演出をした。1927年12月1日、蒋介石は浙江省財閥の宗嘉樹の娘、宗美齢(孫文の妻、宗慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。ちなみに蒋介石は以前にも宗慶齢に求婚したが、即座に断られている。
 
 宗美齢は日中戦争が激化する中で、得意の英語力とアメリカに培った人脈をフルに活用して
ルーズベルト大統領はじめアメリカの政治上層部に働きかけ、中国への戦略的支持を引き出して
行った。また、カイロ会談では通訳をするなど大活躍をした。


○パリ不戦条約
 1928年8月27日、パリにおいて、アメリカ、イギリス、どいつ、フランス、日本、イタリア
 など列強15ヶ国が署名。その後、ソ連など63ヶ国が署名。
 不戦条約、戦争放棄に関する条約、国際紛争を解決する手段として、協約国相互での戦争を
 放棄し、紛争は平和的手段で解決することを規定。
 これに違反して戦争に訴えるならば、不戦条約違反となるので、他の条約国は法的に条約上の
 義務を免除される(戦争で報復できる)。

  
3. 柳条湖事件と満州事変

 ー世界恐慌の影響深刻。日本、1930年春から景気どん底。済南事変以来、高まる排日、南満州
  鉄道の経営悪化、張学良体制下での満州利権交渉の不調など。日本の対中政策行き詰まり。

ー石原莞爾「満蒙問題の解決は、日本が領有することではじめて達せられる」の考え。
  関東軍参謀石原莞爾、同高級参謀 板垣征四郎が、謀略による満州軍事占領をはかった。

 ー1931年頃、関東軍参謀の石原莞爾は満州での謀略を契機に全満州を占領する計画まとめた。
  張作霖爆殺事件(1928年)の失敗を繰り返さぬよう今回の計画はより周到に準備。

 1931年9月18日(金曜日)午後10時20分頃、奉天(現、瀋陽市)の北方、約7.5kmにある
柳条湖付近で、南満州鉄道の線路の一部が爆発で破壊された。

まもなく関東軍より、この爆破事件は中国軍の犯行によるものと発表。日本では終戦まで
張学良らによる東北軍の犯行と信じられていたが、実際には関東軍の謀略だった。

首謀者は、関東軍高級参謀、板垣征四郎大佐と、関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐。
爆破を担当したのは独立守備隊の河本末守中尉ら数名のグループ。線路に爆薬を装填して
自ら守備する線路を爆破し、中国軍の犯行と喧伝。自作自演の計画的行動。この計画は
関東軍、朝鮮軍指導部も承知していたとされる。

本荘繁関東軍司令官と石原作戦参謀ら主立った幕僚は、数日前から長春、奉天、遼陽などの
視察に出かけており、事件のあった9/18、夜10時頃、旅順に帰着した。しかしこの時、板垣
高級参謀だけは、関東軍の陰謀を抑えるために陸軍中央から派遣された建川美次少将を出迎えるという理由で奉天に残っていた。午後11時46分、旅順の関東軍司令部に、中国軍によって満鉄本戦が破壊されたため目下交戦中との電報がとどいた。

本荘司令官は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。しかし、石原ら
幕僚達が奉天など主要都市の中国軍を撃破すべしとの強硬意見を上申。それに押される形で、
19日午前1時半、石原の案による関東軍各部隊に攻撃命令が発せられた。

日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は不意をつかれて多少の反撃はしたが、本格的な抵抗せずに後退。背景に、張学良が日本軍の挑発には慎重に対処するよう在満の中国軍に指示。北大営の
戦闘には独立守備隊の主力が投入され、19日午前6時30分には制圧。日本側戦死2、負傷22、
中国側遺棄死体00。

奉天城の戦闘では、午前4時30分までに占領。日本側戦死2。負傷25、中国遺棄死体500。
安東、鳳凰城、営口は比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態。しかし、長春付近の
南嶺、北郊の寛城子には約6000の中国軍。激しい戦闘で、日本側戦死66、負傷79、それでも
中国軍を制圧。関東軍は19日中に満鉄沿線に立地する満州南部の主要都市のほとんどを占領。
日本「満州事変」中国「918事変」のはじまり。

○石原莞爾
 1889年1月18日、山県県鶴岡、旧庄内藩士の子として生まれる。幼年期は乱暴だが、成績は優秀。1902年、仙台陸軍地方幼年学校に合格、入学。成績トップ。体操などは不得意。1905年
陸軍中央幼年学校入学。戦史や哲学など良く読む。東京在住のため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ねて教えを乞うている。1907年陸軍士官学校に入学。教室のほかに戦史、哲学、社会科学など精読。反抗的態度のため、卒業成績は6番。卒業後、歩兵代65連隊で見習い士官。連隊長命令で不本意ならが陸軍大学を受験。1915年入学。戦術知識は高く、研究討論でも教官を言い負かすことも。次席で卒業。卒論は北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士、河合継之助』

 ドイツ留学。ナポレオンやフリードリヒ大王の伝記など読みあさった。日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者。1928年関東軍作戦主任参謀として赴任。自身の最終戦総論をもとにして
関東軍による満蒙領有計画を立案。

1931年、板垣征四郎らと満州事変を実行。23万の張学良軍を相手にわずか1万数千の関東軍で
日本本土の3倍もの面積をもつ満州の占領を実現した。満州国の建国については、「王道楽土」
「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ傾斜していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきと語った。石原が構想していたのは、日本および中国を父母とした
独立国(東洋のアメリカ)であった。それは石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に
備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったとされる。

ー事件の一報が旅順の関東軍司令部に。軍司令官 本庄繁 当初武装解除くらいが適当? 
 石原・板垣らは関東軍の全面出動と朝鮮軍への増援依頼を承認させた。9/19朝、陸軍首脳部
 会議、「関東軍の今回の行動は全部至当」しかし、同日の閣議では事件不拡大方針を決定。
 ○政治指導力欠如、政治機能不全

ー9月21日に事態は一変。関東軍から増援依頼を受けていた朝鮮軍が、独断で国境線を越えて
 奉天に向かった。朝鮮軍の国境外への出動は、軍令面では奉勅命令(天皇による正式命令)が
 必要だが、林銑十郎司令官はあえて無視して越境。”越境将軍”の軍規違反の行動は陸軍中央の
 強硬姿勢(出兵態勢のまま満蒙問題の解決を内閣に求め、できなければ陸相辞任による倒閣)
 とあいまって政府をはげしくゆさぶった。22日の閣議で朝鮮軍出動を追認。今回の事件を
 事変と扱う決定。宣戦布告なき戦争状態がここにはじまる。

ー「918事変」起きた時、東北の豪族、張学良は病気療養中。張学良は東北軍に抵抗によって
  紛争に発展させない指示。関東軍などの奉天制圧がすぐできたのは不抵抗のため?
  張学良は蒋介石の指示で抵抗で紛糾招かない方針。蒋介石はこれを”挑発”と見ていた。

 張学良の誤算は、これが挑発ではなく満州全土の制圧をねらった侵略そのものだったこと。
  後年の述懐。

ー蒋介石は、一方で共産軍の討伐、他方で広州で旗揚げした国民党反対派の軍事行動への
 対処で忙殺。蒋介石は内乱がやまず、国民にも国を愛する心がないことを日記でなげいて
 いるが、この日以降、毎日、この「雪恥」を忘れぬよう日記に書き付け。

ー蒋介石は、日本側と直接交渉せず、「国際的な公理の裁決を待つ」ことに望み。国際連盟
 に提訴。事変の直前に「連盟の非常任理事国」に帰り咲いていた中国は9/21に正式に提訴。

ー日本側:満州は多大の人命と戦費であがなった特殊地域の特殊権益を列強に認めさせることに
 躍起になっており、その地域で中国側に責任のある事件で提訴とは了見違いも甚だしい。
  直接交渉に委ねるべしと主張。
ー連盟理事会は事態の拡大を懸念したが、当初から日本に宥和的で中国には冷淡。1931年
 9月30日に採択された事件不拡大決議には日本軍の撤退期限なし。

ーその後、関東軍が日本政府の対中交渉を挫折させるために戦線を拡大し、主要都市に親日
 政権を樹立する動きを進め、奉天撤退後、張学良が司令部を置いていた錦州に無警告爆撃
 をする(日本政府の不拡大方針破綻)などがあって、国際世論の風向き変化。Stimson
 国務長官は、1932年1月、日本の行動を9ヶ国条約と不戦条約に違反するとして非難。

ー事変勃発当時、東京では若槻首相と幣原喜重郎外相は局地解決の方針で事態収拾
 に努力したが、関東軍の行動を制御できず、結局、内閣は1931年12月に総辞職。
 若槻内閣が辞職し、犬飼内閣が組織されると、陸相に迎えられたのは反宇垣系の
 荒木貞夫。こうして満州事変は、W体制と政党内閣を直撃したのみならず、政党内閣に
 協調的だった陸軍の宇垣系にも大きな打撃を与えた。

ー1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下 
 とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満州の軍拡をめざしていた石原は、中国戦線に
 大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく、不拡大方針を立てた。

ー国際連盟は、10月24日、日本に期限付き撤兵求める決議案提出。決議案は日本の反対で
 決議成立せず。その後も、関東軍の軍事行動はとまらず。1932年1月に錦州、2月ハルピン占領 
 前年の事変勃発以来、4ヶ月半で、東三省主要都市と沿線のほとんどすべてが日本軍の支配下に。
ーこの間、外国の対応は比較的穏やか。中国国民党は共産党との対立を抱え、全面的な
 対日抵抗に出なかった。利害関係の深いソ連は、日本に対して不可侵条約締結を提起
 する有様。英米も当初は若槻・幣原に対する信頼から、厳しい批判には出なかった。

4. 満州国建国と国際連盟脱退

ーこのような情勢を見極めつつ、中国の勢力を一掃したあとに、関東軍は清朝最後の皇帝だった
 溥儀(宣統帝、在位1908〜1912)を執政に迎え1932年3月1日傀儡国家満州国の建国宣言。

ー犬養内閣はその即時承認をさけた。
○5.15事件:その犬養首相は5.15事件で暗殺(1932年)。
 1930年のロンドン海軍軍縮条約を締結した政府に不満を持つ海軍若手将校が起こした事件。
 首相官邸、内大臣邸、警視庁、三菱銀行など襲撃計画。5月15日は日曜日。犬養首相は終日
 官邸に。三上中尉が首相を食堂で発見。拳銃に弾丸が装填されていなかったため、首相が三上
 を応接室に案内。首相が日本のあり方などを説教。裏手から来た黒岩中尉が腹部
を、三上が
 頭部を銃撃。首相は息があり「今の若者をつれて来い、言って聞かせる」と言ったがやがて
 衰弱死。

ー事件後、元老西園寺公望は関係者の意見を聞いた。天皇は人格者を、ファッショは厳禁との
 伝言。結局、海軍の長老で穏健派の斎藤を上奏。斎藤内閣は、非政党内閣。それでも政友会
 から高橋是清ら3名、民政党からは山本達雄ら2名入閣。政党の力なお大きかった。
 とくに高橋是清。犬養内閣から留任。蔵相。犬養内閣で金輸出を再度禁止した高橋は、
 為替切り下げで輸出競争力強化、財政の膨張と金融緩和で国内需要を創出。経済を急回復
(高橋財政)。

○リットン調査団
 ー国際連盟、1932年に、日本、中国、「満州国」での現地調査。リットン調査団(Victor
Alexander Lytton)報告書(対日勧告案)は9月に提出。ジュネーブ特別総会での採択に
かかる。報告書の内容は日本の満州での特殊権益を認めるなど日本にかなり宥和的。しかし、
  満州を国際管理下に置くという「満州を満州国と認めない」提案だったので、日本の世論
  は硬化。斎藤内閣は報告書正式提出の直前(9月15日)満州国を正式承認。

○国際連盟脱退
  こうした中、松岡は1932年10月、国際連盟総会に日本の首席代表として派遣。到着早々、
  松岡は原稿なしで「十字架の上の日本」(日本はやがて磔にされたイエスのように理解されるだろう)
を1時間20分演説した。卓抜の英語力が喝采を浴びたが、1933年2月24日、
  軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は賛成42、反対1(日本)、棄権(シャム)で採択。
  松岡は宣言書を朗読して退場。日本政府は3月8日、正式に脱退を決定し27日連盟に通告。

ー松岡洋右:山口県回船問屋の4男。父が事業に失敗したため、親戚が渡米していたことも
  あり、留学渡米。熱心なキリスト教信者となる。厳しい生活や差別の中で、対等の立場で
  自己主張を貫く対米意識を学ぶ。英語に練達。帰国後、帝国大学に飽き足らず外交官試験を
  受け、首席で合格。中国駐在が長かったが、講和会議の随員など歴任。満鉄勤務を経て、
  衆議院議員。国際連盟総会代表、外相など歴任。近衛内閣で3国同盟、日ソ中立条約締結
  などで活躍。


○「第一次上海事変」

  1932年、上海市郊外に、蔡廷錯率いる19路軍の一部が現れた。19路軍は3個師団からなり、兵力は3万人以上。日本は居留民の保護と防衛体制強化のため、上海に十数隻の艦隊を派遣。
虹口に隣接する中国領を必要に応じて占領する意図を明言していた。

 1月18日、日本人僧侶ら3人が襲われ死傷。1月26日、中国当局の戒厳令。中国人地区全域に
土嚢とバリケード。外国人住民に租界内への避難勧告。1月27日、日本含む列国が協議。上海市参事会の非常事態宣言(戒厳令)。1月28日午後、最初の軍事衝突。

 軍事衝突発生をうけて、日本海軍は第三艦隊(巡洋艦4、駆逐艦4、航空母艦2、陸戦隊7000)を派遣する決定。1/31に到着。さらに犬養内閣は2月2日に金澤第9師団、混成第24旅団(久留米師団中心)派遣を決定。これに対して国民軍は第87、88師、などを5軍として派兵。

 2月18日、日本側はさらなる軍事衝突を避けるため、中国側へ、列国租界から19路軍が20km撤退する事を要求。、蔡廷錯が拒否したため、20日、日本軍は総攻撃を開始。さらに双方増派して激戦。日本軍は3月3日に戦闘中止を宣言。

 一連の戦闘をつうじて日本側の戦死769、負傷2322、中国軍損害は死傷者14326。

36日間の戦闘で、上海全市で、約16億6千元の損害。中国住民の死者は6080。負傷2000
行方不明、14000と発表。

 3月24日から、日中および英米仏伊による停戦交渉が上海で開始。上海戦にたいする英米など
列強の反応は満州事変などにくらべはるかに強硬。上海はじめ華中における列国の利権が
脅かされたため? 5月5日、日本軍の撤退、中国軍の駐兵制限区域を定めた停戦協定成立(上海停戦協定)。

○満州領有確定
 ーまた連盟でリットン調査団の審議が大詰めを迎えていた1933年2月には、満州国の南側に
  位置する熱河省に侵攻。これを満州国に編入。これにより、万里の長城以北の部分は
  中国から武力で切り離された。5月中国側申し入れで「停戦協定(塘沽協定)締結。

 ー日本による満州領有と満州国領域が停戦で事実上確定。ただし、国民政府は満州国を認めず、
  1934年、華北当局と関東軍の実務協定で満州国を事実上認めさせた。⇒現地解決方式の定着
   
 ○満洲帝国成立
 ー1934年3月、満州帝国成立、執政の溥儀を皇帝に即位。ただし、皇帝は名ばかりで実権は
  すべて日本側。日本は満州を
  (1)総力戦体制の資源供給地、(2)重化学工業建設、(3)対ソ戦の戦略的基地、
  (4)日本の農村過剰人口のはけ口、30万人におよぶ(1945までに)。

 ○反満抗日闘争、東北抗日聯群
  ー満州事変後、日本の武力侵略と国民政府の不抵抗方針にたいして激しい抗議、未曾有の
   抗日運動。 

  ー反満抗日闘争、高まり、次第に統合化、「東北抗日聯群」に発展。モスクワも支援。


  ー現地解決方式で次々と妥協を重ねる現地の対応に、抗日世論は高まり、全国波及。 
    
  ○蒋介石の構想。
   日中戦争はやがて太平洋、世界の問題に拡大。なぜなら、日本の対中侵略の継続は、
   列強の権益が複雑に存在するがゆえに、列国の干渉は必至。持久戦に持ち込んで、列強
   の対日軍事干渉を引き出す。最終的には日中戦争に起因する世界戦争で日本を敗北させる

 ○華北自治工作推進
  ー関東軍と支那軍は地元の有力者を懐柔して華北の自治工作を進め、地区防共自治委員会
   を組織して順次、地区自治政府に格上げ。
 
 6. 国民党政府と国民軍の強化

  ーこの頃、国民党政府かつてない権勢。背景:広東派、広西派の反蒋運動を1936年6月に
   屈服させて31年以来の兩広の半独立状態を解消。共産党にも譲らず、対日政策にも強硬。

  ○西安事変。
    張学良(東北の支配者)、熱河失陥の責任をとって政軍を辞し、1年欧州巡遊後、
    強い指導者(蒋介石)を希求して帰国後、蒋介石の命で1935年秋に麾下の15万東北
    軍を率いて狭西北部の共産党掃討にあたることに。しかし共産軍の抗戦激しく、
    大損害。「内戦停止」「一致抗日」への思い。張学良は共産党入党を希望したが
    コミンテルンは疑義があって却下。

    共産党工作員や周恩来との接触をつうじて、共産党を「一致抗日」の信頼できる同盟者
    と認識。蒋介石に「内戦停止」「一致抗日」を説く必要痛感。蒋介石は耳かさず、共産
    党包囲戦督励のため、12月4日、西安入り。西安での張学良の説得にも耳を貸さず、
    叱責で応じた蒋介石を、張学良は揚虎城とともに「兵諌」を決意。12日朝、張学良の命
    を受けた東北軍の一隊が宿舎を急襲、蒋介石の身柄を確保。

    張学良は「一致抗日」の意向をもつと見られる毛沢東はじめ各地の有力者に同調を
    うながした。南京の国民党政府は張学良の職務剥奪と処罰、西安攻撃を決定。蒋介石の
    統治能力を買うモスクワは張学良の要請を受けず、平和的解決のぞむ。宋慶齢の父、
    宋子文が西安入りして調整。12月25日、蒋介石解放、平和解決の合意。

    南京では蒋介石は10万人、歓呼の歓迎。蒋介石の権威は高まり、国内統一と抗日戦線
    で蒋介石の求心力大きく。張学良は本人の予期を超える半世紀にわたる厳重監禁に。
   
 7. 2.26事件

  ○陸軍:統制派と皇道派
  ー犬養内閣の陸相に荒木貞夫就任時、陸軍中堅層はこぞって歓迎。しかし荒木は
   その後、中堅層に分裂誘引。理由(1)人事が党派的。荒木の盟友、真崎甚三郎が
   1932年1月参謀次長となり、軍部の要職には荒木・真崎派(皇道派)を多数起用。
   (2)荒木軍政で対ソ軍備強化は停滞。荒木は精神主義者。イデオロギー的反共主義者。
   ソ連の軍備を軽視。農村の荒廃の方が建軍の基礎を危うくするとの見方。

  ー対ソ準備に不安もった幕僚は、永田鉄山の周囲に結集(統制派)。永田は軍近代化
   目標を共有していた南次郎や宇垣系にも接近し、皇道派の追放ねらった。
   まず、1933年6月、真崎は大将昇進とともに軍事参議官になり、34年1月には
   教育総監として陸軍の中枢から遠ざける。1934年1月荒木が病気で陸相を辞し、
後任に林銑十郎が就任すると、永田はその下で軍務局長となって、皇道派の一掃に
   乗り出し35年にはその仕上げとして真崎教育総監の更迭断行。
  ー追いつめられた皇道派は、さまざまな反撃に。皇道派は中央の幕僚では少数派。
   イデオロギー的には強力。隊付き将校には厚い支持。反撃はまずイデオロギー闘争。
   そのひとつが天皇機関説事件。第二が、実力行使。1935年の相澤三郎中佐事件。
   つまり永田軍務局長斬殺事件。そして翌年の2.26事件。

 ○皇道派青年将校の反乱
  ー1936年2月26日未明、皇道派青年将校率いる歩兵第三連隊など1500人の兵士は
   岡田首相、高橋蔵相、斎藤内大臣、鈴木貫太郎侍従長、牧野伸顕のぶあき元内大臣、
   渡邊錠太郎教育総監、それに警視庁など襲撃。西園寺も当初計画では襲撃対象。

  ー高橋蔵相は、大恐慌後の日本経済をリフレーション政策で迅速にデフレから脱却させたが
   その結果、インフレ加速が予見されたため、これを抑制すべく軍事予算の縮小をはかった
   ことが軍部の恨みを買って、赤坂の自宅2階で青年将校らに胸を6発撃たれて暗殺された。
   
  ー2.26事件は、陸軍皇道派に対する包囲網を直撃したもの。クーデター後の建設計画
   は空白だが、破壊計画としては巧妙。側近を殺された天皇は激怒。自ら鎮定にあたる
   意志を示したため、軍当局の意志も鎮圧に決し、反乱は失敗した。
   「君側の奸を除く」という主観的意図で行われたクーデターは天皇の意志で阻まれた。

 ○2.26事件の後遺症
  ー陸軍首脳は2.26事件の再発を極度に怖れ。組閣への介入も部内の統率に自信ない
   表れ。事件後の粛軍でも、部内に動揺招きそうな政治的軍人すべて排除めざす。
   皇道派のみならず、対立する宇垣系も予備役編入。軍部大臣現役武官制復活も
   皇道派復活阻止のため。

  ー宇垣にせよ荒木にせよ、陸軍をそれなりにまとめ、他の政治勢力と交渉する能力あり
   粛軍でそうした軍人が一掃されたため、陸軍を外から統御することは一段と困難に。
   政治的軍人の放逐、陸軍官僚化により、陸軍はかえって抑えが利かなくなった。

  ー陸軍の要求は軍拡予算。
   斎藤内閣当時、高橋蔵相は公債を発行して積極予算を組んだが、1934年頃から
   インフレを懸念して公債発行を抑え始めていた。
   広田内閣の馬場蔵相は、高橋財政を転換。軍事費のための公債発行を行い、超
   大型の軍拡予算を編成。1937年度(昭和12年)予算は前年度比31.6%増。直接
   軍事費のみで予算の46%占めた。国際収支は悪化、財政金融政策も不能へ。統制
   への動きはじまる。

  ー広田内閣1933年11月「日独防共協定」。1933年に政権掌握したナチスは
   同年、日本に続いて国際連盟脱退、35年にはヴェルサイユ条約を無視して大規模な
   軍拡に着手。その夏から日本に接近はじめる。

  ー広田内閣は1937年1月倒れ、広田辞職後、西園寺は宇垣を首班に奏薦。
   陸軍穏健派として西園寺の最後の切り札。宇垣組閣に陸軍中堅層は激しく抵抗。
   宇垣は陸軍大臣を得られず、組閣断念。前年に復活した軍部大臣現役武官制が威力。
  
  ー参謀本部はその頃、作戦課長の石原莞爾を中心として、1941年までに対ソ戦争準備を
 完了するため、軍需産業の飛躍的発展を基礎として軍備を5年間でおよそ2倍にする
   計画をかためつつあった。首相はこれを唯々諾々受け入れる人物がのぞましかった。

  ー宇垣の組閣失敗の後、西園寺は第一に平沼騏一郎、第二に林銑十郎を推薦。平沼は
   辞退。石原はこの林に上記の計画の推進を期待したが、組閣方針に反対して林の
   下を去る。林内閣も政党と対立。何もできずに4ヶ月で辞職。

  ー林の辞職後に、西園寺が推したのは近衛文麿。近衛家は最高の名門。文磨は若く聡明
   で将来の華族のホープ。
  ー五摂家の近衛家の第30代当主。後陽成天皇の12世孫にあたる。父の病没後、近衛家を
   継承し、公爵。のち、貴族院議員、貴族院議長など歴任。3度にわたり総理大臣として
   内閣を率いた。第1次内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生。北支派遣、
   近衛声明、東亜新秩序提唱。第二次、三次内閣では、大政翼賛会を設立。外交では、
   八紘一宇、大東亜共栄圏を掲げた。戦争中、天皇に「近衛上奏文」で戦争の早期終結
   を訴えた。戦争末期には独自の終戦工作も。敗戦後、一時東久邇宮内閣に参加したが
   A級戦犯に指定され、服毒自殺した。

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