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「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」第4幕「第一次大戦とワシントン体制」

第4幕「第一次大戦とワシントン体制」


 1. 第一次大戦の勃発と日本の参戦

  ー1914年夏。7月にオーストリアとセルビアの間で勃発した戦争が間もなく英仏独露を
   巻込む未曾有の世界大戦に。欧州列強はアジアに介入する余力を失い、むしろ日本の存在
   に期待。列強に依存することの多かった袁世凱の対日抵抗力も弱まり、日本の経済力も
    大戦中に飛躍的に向上。日本のこれまでの制約条件が変化し、日本の大陸膨張も積極化。
  ー大隈内閣、加藤高明外相のリーダーシップで積極的に大戦に参加。イギリスは日本
    の野心を警戒し、その参戦に条件をつけようとしたが、日本はこれを押し切って
    8月下旬、ドイツに宣戦布告。 ドイツの根拠地である膠州湾を陥落。

 2. 大隈内閣の「21ヶ条」要求

  ー1915年1月、日中間の懸案を一気に解決する目的で、日置益(えき)駐華公使が
    袁世凱大総統に直接、5項目21ヶ条の要求つきつけた。悪名高き「21ケ条要求」
 
    ・内容:
     第一:山東省ドイツ権益の主要部分を日本に譲渡。
     第二:満鉄と関東州租借地の期限延長、満蒙における鉄道などに関する租借優先権
        の明確化、土地所有権の承認など、満蒙権益の強化。
     (第三:揚子江流域の漢冶評公司に関するもの。)
     (第四:中国沿岸部の不割譲宣言)
     第五:顧問庸聘、警察改善、日本からの武器購入など。

  ー大隈重信内閣としては、日本の既得権益を確実化もしくは延長するために条約化し、
    後は国内からの諸要求をまとめ、国内の政府批判をかわそうとした?

    2月からの条約交渉は中国側に有利に展開したように見える。中国側は交渉経過を内外
    列強などに伝えつつ日置公使に反駁した。英米もとくに第5号に反発。

    情勢を察した日本は、5月4日の交渉決裂を受けて、7日に最後通牒を北京政府に
    突きつけ、5月9日午後6時を期限として、第5号をのぞくすべての条項の受諾を求め、
    もし、受諾しなければ、軍事行動に出ると通告。

    当時、日本は、山東半島に第18師団、関東州に関東軍が、さらに山東・満州には3月に
    それぞれ増派された2個師団。合計6万。中華民国側にはこれに対抗できる武力無し。 
    袁世凱は第5条含まない要求を受諾可として、5月9日、受諾した。

  ーこの一件は、それまで良好な面もあった日中関係を転換させる契機に、またそれまで
    列強との国際協議や協調を重視してきた日本が単独行動をとる契機ともなった。
    その代償はやがて膨大に。
  ー日本の山東占領と21ヶ条要求は、中国の都市知識人、華僑、留学生を強く刺激した。
   満鉄利権獲得以上の激しい批判。最後通牒を受けて受諾した政府に軟弱外交、
   売国外交の批判。袁世凱への批判強まる。

  ー1914年8月にドイツに宣戦布告していた日本は、9月に山東省に上陸。山東省、中国各地
   東南アジアの華僑が反対運動を起こし、世界の華人社会に拡大。日本の中国留学生は
   反対運動に合流。日本の最後通牒に屈した5月7、9日を国辱記念日として教科書に
   反映させようという動きも。日本政府は北京政府に抗議。これは日本が中国の教科書を
   問題とした最初。以降、国際連盟でも日中間でも教科書問題がたびたび問題化。

  ー第二革命の夜、犬飼毅らの斡旋もあって日本に逃れていた孫文は、1914年7月、
   東京で中華革命党を組織。この時期、孫文の周辺にいたのは、蒋介石ほか広東出身の
   実業家 宗嘉樹。宗は長女の宗藍(あい)齢を孫文の秘書とした。孫文は、その妹の
   アメリカ帰りの宋慶齢と東京で会うと結婚を決意。1915年10月、資金面で支援して
   いた梅屋庄吉宅(東京新宿、大久保百人町)で結婚披露宴。日本側、宮崎滔天、頭山満
   らが出席。中国側、 陳其美が出席。

  ーちなみに、梅屋庄吉氏は「孫文の革命をプロデュースした日本人」として有名。
   梅屋氏。長崎の生まれ。香港、シンガポールで貿易商として
   活躍。1895年、中国革命を計画している孫文を香港で知り合い、多額の資金援助。
   「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」。辛亥革命の成就に貢献。1905年ころ
   帰国し、日活の前身、M.パテー商会設立。映画事業でも成功。辛亥革命の記録多数。
   援助資金総額は現在価値で1兆円にのぼると推定。   

  ー孫文は21ヶ条要求を重大危機と認識しながら、それを理由に日本政府攻撃はせずにむしろ
   袁世凱を責めた。
    
 3. 中華帝国と袁世凱

  ー袁世凱は、議会権限の抑制、臨時約法の形骸化に成功しつつあった。
   しかし日本の山東省東部占領、21ヶ条要求受諾で、厳しい国内批判受ける。

  ー第一次大戦開戦後も、権力基盤強化と中央集権めざし、それはやがて袁世凱の
   アドヴァイザー(ジョンズ・ホプキンス大学学長、政治学者)Goodnow教授の影響も
   あり、帝政採用に帰結した。袁世凱麾下の幹部も帝政採用運動。それに応じて参政院が
   国民会議を開催。満票で袁世凱を皇帝に推戴。

  ー遠は国号を中華民国から中華帝国にあらため、元号を洪憲とした(1916年=洪憲元年)
   1915年12月冬至の日、北京の天壇で、遠は天命を受けて皇帝となった。
   
  ー帝政採用は国内で強い反発。国際社会の反応も肯定的とはいえず。
   日本の大隈首相は当初、不干渉主義だったが、外務大臣に石井菊次郎が就任すると
   (加藤高明は8月辞任、その後は大隈が兼任)一転反対に。1916年3月の閣議で、
   ”袁世凱の没落をめざす”という史上稀な乱暴な決議(北岡伸一)。

  ーこの頃から中国政策に大きな影響力をもったのは参謀本部。とくに1915年秋から年末に
   かけて、田中義一参謀次長と上原勇作総長就任、参謀本部の発言力強化。
   参謀本部を中心に、南方の反袁世凱軍閥、中国国民党、満州では清朝の復興めざす
   宗社党、中国から分離独立を求める蒙古王族、独立した勢力をめざす張作霖を同時に
   援助するという壮大な謀略に着手。結果、袁世凱は苦境に陥った。

  ー地方分権や共和制を主張する側からの反発も強かった。袁世凱麾下で強く反対したのは
   蔡鍔。蔡鍔は北京を離れ、雲南を拠点に反旗。有力者達が同調し、勢力は西南諸省に
   ひろがった。諸省は1915年12月に独立宣言。これは辛亥革命、第二革命に次ぐ
   第三革命と言われた。

  ー1916年5月までに10省独立宣言。袁世凱寄りの地方長官からも帝政廃止を勧告され、
   3月、袁世凱は中華帝国を廃止。帝政をめぐる抗争がつづくなかで 袁世凱は、
   尿毒症と神経性疲労のため、1915年6月6日に死去。

 4. シベリア出兵と西原借款

    ー1916年10月成立の寺内内閣は大隈内閣の中国政策を転換しようとした。
     日中関係の改善、対米関係の改善めざす。

    ー中国に関しては内政干渉をやめ、威圧的な政策を避けると同時に、親日的な段き棋瑞
     政権が成立すると、これに借款供与。列国に関しては大戦への協力を強化し、その
     見返りとして、戦後の講和会議で日本が要求することになる山東半島と赤道以北
     ドイツ領南洋諸島に関する要求を支持するよう約束を取り付け。

    ー難しいアメリカに対しても、アメリカ参戦(1917年4月)を契機に、前外相、石井
     菊次郎を特使として派遣し、石井・ランシング協定締結。その中に“近隣国に対しては
     特殊利益が存在することを相互に認める”というくだりがあり、門戸開放を唱えて
     日本の満蒙権益を批判してきたアメリカが日本の立場にもっとも近づいた瞬間。

    ー日中提携と列国協調はがんらい矛盾。日中提携は日本が列国以上に特殊な関係を
     もつことを意味。寺内内閣は世界大戦という有利な状況を利用してこの両立を
     めざした。

    ー1917年11月のロシア革命がこの状況を一変。
     帝国主義戦争を否定する立場から、ボルシェヴィイキ政権は対独戦争を中止。
     1918年3月にはブレスト・リトフスク講和条約。これはロシアにおける親独派の
     勝利と受け止められ、ドイツ勢力がロシアと結んで東に進出することまで危惧。

    ー寺内内閣の根底にロシアへの恐怖感。独露提携・東漸のおそれ。中国重視。
     ロシアとも友好関係必要。ところがロシア帝国倒壊。列国協調の基軸の崩壊。
     そこで日中提携の強化必要。寺内内閣は列国間の了解を大幅に逸脱して中国に
     巨額の借款を供与(西原借款)しはじめたのはそのため。

    ーシベリア出兵も:10月革命でロシアが世界大戦から離脱決定的に。英仏は
     干渉戦争を提起。革命政権を倒して東部戦線を再建しなければドイツが全力を
     西部戦線に投入してくるという判断。日本では諸論あったが、アメリカがチェコ
     軍団救出(オーストリア・ハンガリー帝国から独立めざすチェコ軍がロシア側に
     加わっていたところ、ロシア革命で行き場失う)のための共同出兵を提起した
     ことから寺内内閣は出兵を決断し、1918年8月実施に踏み切った。

    ーしかし独露の提携・東漸は幻影。西原借款もシベリア出兵も大失敗。
     西原借款によって中国に投資された巨額の資金は回収できなかった。
     シベリア出兵は数年にわたって数億円の資金を浪費、数千の犠牲者。
     寺内内閣は前半1年間は成果。ロシア革命後、方向性見失った。

 5. ヴェルサイユ講和会議と中国の反撥

   ー1918年11月11日、ドイツが停戦協定に調印して世界大戦は終結。協商国に加わった
    中国は、ドイツ、オーストリアに対する戦勝国。中国、戦勝国として講和会議に参加。
    52名代表団。中国は4階級中の三等国。議席は2。ちなみに日本は5大国として5席。

    中国、7ヶ条の意見書(1)21ヶ条は中国の参戦で無効になったと主張、(2)不平等
    条約改正のための原則認めよ。日本は段政権が21ヶ条要求を容認した文書提出して反駁。
    英仏は日本と諸利権を相互承認することで合意。形勢は日本に有利。
    中国は5大国(英仏米日伊)による山東共同管理案提出。受け入れられず。
    結局、講和会議は、4月30日、山東利権を「中国への返還を前提に」日本へ譲渡決定。

   ーヴェルサイユ講和条約は1919年6月締結。大戦後の新たな世界秩序模索。
    しかし欧州中心。

   ー講和会議の結果、中国世論反発。5月1日、学生たちが北京大学に終結。5月2日(日)
    天安門広場にあつまり、4大国公使に抗議書、アメリカ公使館だけ受け取り。段政権の
    山東利権の同意書の署名者 曹汝霖宅に放火。駐日公使、章宗祥を殴る。
   ー北京政府は学生取り締まりの姿勢(32名逮捕)だが、他方、曹汝霖、章宗祥らは罷免。
    彼らは日本留学経験ある日本通。これ以後、中国は日本通には否定的イメージ。
    日貨ボイコット。審定経た教科書にも「国辱」掲載。暴力ともなう正義も肯定。
    『5.4運動』。これは日中関係史の重要な転換点ともされる。  
   ーこの運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。陳独秀や毛沢東
    もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、
    「連ソ容共、労農扶助」と方針を転換。旧来のエリートによる野合政党から近代的な
    革命政党へと脱皮する事を決断し、ボルシェヴィキをモデルと考えるようになった。

   ー2020年11月、第一回、国際連盟総会開催。中国では「公理」実現の場として
    期待。その実現のため、中国は非常任理事国になるべく運動。しかし、山東問題や
    不平等条約問題は国際連盟の場では解決されなかった。
 
   ー1918年9月、原敬の政友会内閣成立。初の平民宰相。世論の喝采。
    大正デモクラシーを反映。
    背景:11月には大戦終了。1917ロシア崩壊。1918ドイツ崩壊。英仏も疲弊。
     唯一アメリカが世界を圧倒。日本でも新しい政党政治の時代意識?

    原内閣:産業化、鉄道網の整備。教育拡充。国民の教育水準向上。
    政治機構の政党化。官僚偏重改革、軍の既得権領域の解放。
    明治国家の極度に中央集権的・官僚的体質を薄め、脱権威主義化はかった。
    権威主義に風穴あける道具は政友会。じつは産業振興、教育拡充、政治機構改革も
    政友会の利益と勢力伸長に結びつく。

   ー原敬は1921年11月に暗殺。世論は原に対して冷淡。
    原はあまりに強力な政治家で、政友会勢力の拡大を実現。
    1920年5月、小選挙区制下での総選挙で大勝。464議席中、政友会276、憲政会110
    議会外の潜在反対派の山県閥も弱体化。
    ー原の死後、大勢力に見合った責任あるリーダー生み出せず、日本の政治混乱してゆく。

 6. ワシントン体制とロンドン海軍軍縮

    ーワシントン会議(1921年11月〜1922年2月)東アジア・太平洋地域の
     戦後秩序の確立めざす。中国に関する9ヶ国条約、海軍軍縮(米英日:5.5.3)条約。  
     日本の膨張を支える役割果たしたと米が批判する日英同盟は解消。

    ーアメリカが1921年7月に会議開催提議。日本は不安多かった。アメリカは従来より
     日本の対外政策批判。しかし唯一の大国となったアメリカとの協調は不可避。

    ーワシントン講和会議で、21ヶ条に関する諸条約が解決されなかったことに、
     中国世論は反発。日貨排斥、反日運動。反日運動は23年夏前には下火になり、
     関東大震災に際して、中国側が日本支援を申出るなど改善したかに見えたが、
     数百人の華工の虐殺が報ぜられると日本批判高まり。
    
    ーロンドン軍縮会議(1929年11月〜1930年1月)
     補助艦の制限が目的。米・英・日(5:5:3)日本の補助艦の技術は進んでいた
     ので、対米7割は確保したかった。
    ー山本五十六海軍少将は次席随員として出席。対米7割を主張して首席全権の若やぎ
     禮次郎を困らせた。結局、外交団は海軍軍縮に調印したが、山本は「劣勢比率を
     押し付けられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、まず空襲をもって
     敵に痛烈なる一撃を加え、然る後、全軍を挙げて一挙決戦すべし」との考え。山本
     は海軍空軍力の強化に力を注いだ。それが真珠湾攻撃、マレー沖海戦で成果に。
 
 7. 中華民国国民政府の成立

 ー袁世凱死去(1915年)後、混乱のつづいた中国で、孫文は1923年3月広東政府の
   陸海軍大元帥に復帰。広東政府はW会議にも参加できなかったので、W体制外の
   ドイツやソ連との関係強化を模索。ソ連の影響浸透。

 ー1924年4月、孫文は、国民政府建国大綱を発表。国民政府の骨格をしめす。
    三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)と五権憲法(司法、行政、立法、監察、
    人事)に基づく中華民国の建設に向け、軍政、訓政、憲政の3段階で実現する方針表明。
    以後は、中華民国政府の呼称。

    将来、共和制を志向するが、当面は軍、そして政党の政治。訓政期は国民政府。
    憲政への移行は戦後の憲法発布後の1948年5月20日。

  ーここで孫文を終生支え、孫文亡き後は孫文の遺志を継いで中華民国政府による全国統一
   を成し遂げたキイパーソンである蒋介石についてやや詳しく紹介。

 1887年10月31日、清国浙江省奉化県渓口鎮に生まれる。父は塩商人。母は王菜玉。
母が教育熱心。父は9歳で死亡。母の手で育てられた。母子家庭、母の苦労を見て育った。
10歳から16歳、毛鳳美の塾でまなび1902年、娘の毛福梅と結婚。その後、省の教育機関
で英語、数学、さらに西洋法律を学ぶ。

 1906年4月、日本へ渡る。東京振武学校で学ぶ目的。しかし保定陸軍速成学堂関係者しか
はいれず。しかしこの留学で、孫文の実践活動の中心だった陳其美と出会い交流を深めた。
同年冬帰国。改めて保定軍官学校に入学して軍事教育を受け、翌1907年7月再び日本に渡り、
東京振武学校に留学。2年間の教育課程を修了後、日本の陸軍士官学校には入学せず、1910年
より陸軍第13師団高田連隊(現在の新潟県上越市)の野戦砲兵隊の隊付き将校として実習受けた。この時に経験した日本軍に兵営生活は中国でも軍事教育の根幹にあるべしと後に述懐。

 1910年、アメリカから帰国途中、二週間日本滞在を許された孫文と、陳其美の紹介で
面会。蒋介石が「自分も中国同盟会の一員で、革命には軍事面で貢献したい」と自己紹介。
孫文は「まちがいなく革命の実行者になるだろう」との印象。指導者になるなど想像も
しなかった。

 1911年10月、辛亥革命が勃発すると蒋介石は帰国して革命に参加。陳其美と行動をともに。陳は杭州方面の革命軍第五団の団長。緒戦で勝利。浙江省の独立を宣言。上海では陳が蜂起に成功。蒋介石には軍事顧問の役割。蒋介石は陳の厚い信頼を得て義兄弟の契りを交わした。蒋介石は陳に同行し、護衛役を自負。

 1913年7月「第二革命」が勃発すると陳は上海で討袁軍総司令官として第五団に命じて蜂起を企てたが上海市内は政府軍に制圧されており第五団も政府側についてしまったので、蜂起は失敗。陳は地下に潜伏。蒋介石は日本に亡命。8月には第二革命も失敗。孫文も日本に亡命。孫文は
日本を革命の根拠地とし、日本の退役将校の支援を得た教育機関を設置するが爆発事件を起こして日本官憲により解散処分。

 1914年7月、孫文は議会政党だった国民党を解体し、東京で中華革命党を結成、その総理に就任。中華革命党は秘密裏に中国国内で軍事組織を編成。陳其美は東南軍司令官。孫文は1914年10月、東京で袁世凱打倒宣言。蒋介石は上海におもむき、陳を補佐。しかし革命は失敗して潜伏。この時期、蒋介石は上海で知り合った桃治誠と潜伏生活。故郷の妻は仏門に興味。

 1916年5月18日。陳其美はフランス租界の山田純三郎邸で、北洋軍閥の張宗昌の刺客によって
暗殺。蒋介石はすぐに駆けつけ号泣。陳は生前、孫文に「蒋介石こそ私の後継者」と書簡を
送っていた。

 袁世凱の死後、北京政府では北洋軍閥内部の対立が発生。各地で軍閥が割拠。
*中国は軍閥支配の構造。安直(安徴派vs直隷派)戦争、
奉直(奉天派ー張作霖vs直隷派)戦争1922年、1924年)など。
北京政府の実権掌握は安徴派軍閥。国務総理に就任した段き端。段は中華民国臨時約法を破棄、旧国会の回復に反対。

 孫文は雲南・広西軍閥と連携し、1917年9月広州に入って広東軍政府を樹立、大元帥に就任。かくして南北対立。いわゆる護法戦争。孫文はしかし独自の軍事基盤は脆弱。蒋介石を招いて基盤強化を試みたが紆余曲折。蒋介石は孫文が信じて任せている陳炯明が、孫文に背信的は行動をしていることに疑念、しだいに敵意を抱く。

 孫文は北伐で全国統一を果たす意思を固める。蒋介石はその意思を知り、協力しようとするが、指導的役割を託された陳炯明が、自己利益のみを追求していることを知り、現実を理解しない
孫文に諌言の手紙を書くが、孫文は受け入れず。蒋介石、不満で故郷にこもる。

 1921年5月、広東軍政府は改組して「中華民国政府」。孫文は中華民国非常大総統に。
6月14日、蒋介石の敬愛する母、王采玉が病没。11月23日本葬。墓碑銘には孫文が揮毫。蒋介石は孫文を尊敬し直す。蒋介石は“マザコン?”本葬後、蒋介石は3番目の夫人、陳潔如(上海実業家の娘)を迎える。桃治誠とは慰謝料払って離縁。孫文の求めに応じて、広東へ。以後、北伐計画に積極的に参加。

 北伐計画中、孫文と陳炯明の路線対立表面化。孫文は武力統一。陳は各省の連携による
地域統合型の国家建設。対立は先鋭化、やがて陳のクーデター。陳は広州総統府を砲撃。
孫文は側近達と軍艦「楚豫」に避難、60数日に渡って陸上の陳と交戦。蒋介石は6月29日
「楚豫」に駆けつけ、孫文を支援。蒋介石は孫文のたしかな信頼を確保。しかし戦況は不利で、英国軍艦に移って香港に退却。一方、陳炯明はしだいに孫文傘下の武将に追いつめられて敗退。

 1923年3月、孫文が陸海軍大元帥に就任。第三次広東軍政府が成立。新政府で蒋介石は
大本営参謀長に任命。蒋介石は陳炯明の残党や直隷派の呉風虜との戦いを指揮。蒋介石の
軍事的能力は広く知られ評価されるようになった。

 1923年1月、孫文は、ヨッフェと上海会談後、「孫文=ヨッフェ宣言」発表。「連ソ・容共」方針のもとで、国共合作を正式に宣言。1923年8月、孫文はソ連とのさらなる連携を求めて
「孫逸仙博士代表団」を送った。蒋介石はこの一員として赤軍の軍制を視察。

 モスクワで蒋介石はレフ・トロッキーから赤軍の組織原理を学んだが、一方、ソ連への不信感も。11月25日コミンテルンの席上、国民党を代表して演説。孫文の三民主義を中心に説いたが、評価は低く、批判受けた。この対応に、蒋介石はソ連への不信と共産党への警戒感とつのらせて
帰国した。帰国すると国民党の改組が進んでおり、共産党員が国民党の中央執行委員になっていたり、ミハイル・ボロディンが最高顧問になっていたり、これに怒った蒋介石は故郷にこもり
孫文らの視察報告の呼びかけにも応ぜず、故郷で過ごした。

 1924年1月、広州で中国国民党第1回全国大会。「連ソ・容共、労農扶助」方針が打ち出され、ソ連共産党の組織原理にもとづく組織の改組が実行された。中央執行委員会には国共合作で
共産党員も選出。毛沢東も共産党籍保持のまま中央執行委員候補に。蒋介石は中央執行委員には
選出されなかった。しかし、国民党の革命軍、国民党軍の組織化、その将校の教育機関である
軍官学校の設立が決議。蒋介石は、設立準備委員長、軍官学校校長兼広東軍総司令部参謀長
に任命。

○毛沢東:1893年湖南省の生まれ。地主の父親。高等小学校時代、康有為や梁啓超らの思想を
学び影響うけた。1911年中学進学のため長沙に。この時、辛亥革命。湖南の革命志願軍に入隊。
中学では明治維新に興味。1913年湖南省の師範学校で広く欧州の思想、社会科学を学ぶ。
1917年、湖南省を訪れた宮崎滔天の講演で日本が西洋の支配を破った日露戦争の話を聞いて
感銘。北京の図書館に勤務、上海で知識人と交流。1920年長沙師範学校付属小学校校長。
学友の楊開彗と結婚。岸英、岸青、岸龍の3児。国共対立時1930年10月、妻楊は国民党軍に
捕らえられて殺害。岸英、岸青の子供は親類に送り返された。岸龍はすでに死亡。
 1924年国民党全国代表大会で、中央執行委員候補に。1925年10月、国民党中央宣伝部長
代行。1927年上海クーデターで国共合作が崩壊。井岡山にこもり農村を革命拠点とする運動を
推進。1928年共産党大会で中央委員。その後、曲折を経て、共産党の実権を掌握。

 1924年5月3日、黄埔軍官学校校長。6月3日入学式。組織・訓練ではソ連式。孫文の思想と
中国古典の教え。日本の陸軍での体験など総合。士官と同時に兵士の養成に注力。彼らはやがて
北伐軍の中核。蒋介石にとって貴重で重要な人脈となる。しかし、軍官学校の中でも国民党と共産党の対立が不協和音になっていく。
 1924年8月商団事件。陳炯明の残党がイギリス系銀行と組んだ商人団をそしきして広東政府が
赤化しつつあるとして転覆を企てた武装蜂起。孫文の命令で蒋介石は軍官学校に学生を中核とする国民党軍を率いて鎮圧。同時期、北京では第二次奉直戦争が発生。これを契機ととらえた孫文は北伐宣言を発した。しかし商団の鎮圧に手間取って出陣準備が遅れて機会を逸した。

 しかし北京政府の実権を握った馬玉詳や張作霖から善後策について相談したいと要請を受け、孫文は北上を決心。この時期、広東を留守にして大丈夫かと聞かれた孫文は、「蒋介石がいるから大丈夫」と答えたという。途上、黄埔軍官学校校を訪ね、蒋介石と面会。孫文はこの時、「私の説いた三民主義はこの学校の学生に実行してもらいたい。私は死に場所を得ればよい」と語ったという。孫文はこの後、香港、上海、日本を経由して北京に入ったが、これが蒋介石との今生の別れとなった。

ー孫文の「大アジア主義講演」1924年神戸高等女学校、広州→北京の途中。欧米列強の
 帝国主義を覇道。アジアには力によらない“王道”がある。日本はアジアの側に立て、と講演。
 このころすでに、体調悪化しており、12月末ようやく北京入り。1925年3月12日に、顧維釣
 宅で、宗慶齢に看取られて逝去。

ー1925年にはいると陳炯明軍が勢力を挽回したきたので、蒋介石は第一次東征で対峙、攻略。
 軍官学校出身者の活躍顕著。陳軍を追いつめて広東省の大部分を制圧。陳は香港に逃亡。
 蒋介石は教育の成果を喜ぶ電報を孫文に送った。が、その喜びもつかの間、1925年3月12日に
 孫文は病没。知らせを受けた蒋介石は部隊を招集し「三民主義による中国統一という孫大元帥
 の遺志を達成するのが我々に課された使命である」と訓示。

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