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2013年9月

私の東京オリンピック体験“誇りと感動”

2020年にオリンピック東京開催が決まりましたが、慶應義塾大学の機関誌「三田評論」の巻頭にオリンピックに関する私の体験などの文章を求められたので、下記のような文章を書きました。ブログに載せますので、興味のある皆様に読んで戴ければと思います。
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「私の東京オリンピック体験“誇りと感動”」

1964年に東京オリンピックが開催された時、私は慶應大学の四年生でした。このオリンピックに私は上級通訳としてお手伝いをしましたが、実は慶應高校時代には私はボート部のコックスとしてオリンピック出場を夢見て練習に励んでいました。高校二年から強化合宿が始まり、年間で150日も合宿しました。ところが、冷たい板に座り続けの負担が災いして痔を悪くし、三年生で艇を降りざるを得ず、オリンピックには仲間だった萬代治君が出場しました。

やや失意のまま大学に進み、気を取り直して英語会に入りましたが、私は普通部出身なので高校と大学の受験を経ておらず、夏休みを過ぎると外部進学者と単語力などの差が開く一方。高校時代に父を亡くしアルバイトに追われながらの辛い毎日でしたが、ある日英語会の仲間に「I shall return.」と言って訣別し、一人黙々と中学校のリーダーから始めて、やがて自分の好きなテーマで作文を作り、近所の宣教師に修正してもらい、テープに吹き込んでもらい、そのテープを何百回も聞き、何百回も暗唱し、声色までそっくりのスピーチが出来るようになりました。それで二年生の時にスピーチコンテストで入賞し、三田でも入賞して、英語会の副委員長となり、委員長に問題があったので私が事実上の委員長として全てを取り仕切り、朝日新聞主催・文部省後援の全国英語ディベートコンテストで準優勝をしました。


その頃、東京オリンピックのために全国から学生通訳が募集され、何万人かの応募の中から二千人が選ばれました。その中の百人は各国団長付になりましたが、私はトップ10人のうちに選ばれ、オランダを志望すると、オランダからオランダ語の通訳が欲しいので英語の通訳は自転車会場に、という連絡がありました。与謝野事務局長がせっかく選んだトップ通訳なのでオランダ団長には通訳を付けないこととし、私は団長付の資格を持ちながら、無任所の遊撃的通訳になりました。そのお陰で、8月後半から11月上旬まで最も重要な場面に派遣され、オリンピックの真髄をとことん味わう幸運に恵まれました。最初の一ヶ月はプレスセンター、9月後半から羽田空港で出迎え、開会式、主要競技の決勝戦、閉会式、各国選手団の送り出しなどです。


印象深かったのは、インドネシアの選手団を迎えた時、スカルノ大統領のやり方をアメリカが批判し、選手団は機内にとどまったまま一日過ごし、日本の土を踏まずに帰った時でした。見送る私の眼から涙が止まりませんでした。そんな中で、大学の川田寿先生のゼミだけは許可を得て参加させて戴きました。羽田から五輪の籏をはためかせた黒塗りのクラウンを慶應大学の南校舎の階段に横付けし、胸に日の丸のユニフォームでゼミに参加しました。授業をほとんど欠席している私を教務課の女性職員たちがいろいろ助けてくれました。


10月10日は快晴、国立競技場を埋め尽くした世界中の観客。華やかな各国の選手団、聖火台を駆け上がる坂井選手、紺碧の青空に大きく描かれた五輪。演出した航空自衛隊ブルーインパルス飛行隊はこの時初めて成功したと後で聞きました。この感動、そして日本人であって良かったと思う誇り、この思いは一生忘れられません。


選手村では体操界の華と言われたベラ・チャスラフスカ選手とディスコでダンスをしたのも貴重な思い出です。怒濤の走りで優勝した100mのボブ・ヘイズ選手、巨体から鞭のように柔軟なパンチを繰り出すドン・フレーザー選手の決勝戦等々、名場面に立ち合った感動。水泳王国だった日本が最後にようやくメダルを勝ち得た800m決勝では、水泳好きの私は思わず観客総立ちの中でプールサイドを駆けていました。


闘いで結ばれた友情を互いに温め合った閉会式など、語り尽くせない思い出が今でも鮮やかに脳裏に浮かびます。それから二週間ほど、母国に帰る選手団を羽田まで送り届ける毎日で、私のオリンピック体験は完了しました。お世話になった教務課の女性職員をパレスホテルにお迎えして食事を御馳走したことを覚えています。


オリンピックは国民とりわけ若い人々にかけがえのないものを残します。2020年東京オリンピックを大いに期待し、歓迎したいと思います。

ブラジル訪問とブラジルの紹介

私が主宰する経営者の勉強会「島田塾」では、有志を募って、来年の3月に21世紀の再注目国と言われるブラジルを訪問することになりました。その訪問に際して、私がブラジルの歴史や現況や見どころなどについてやや詳しい案内を書きましたので、皆様にも御興味がおありかと思い、ここに掲載致します。いささか長くて恐縮ですが、お読み戴けるとブラジルがいかに興味ある国かが良くおわかり戴けるのではないかと思います。

「ブラジル視察旅行の御案内

島田塾創設10周年企画ー皆でブラジルへ行きませんかー」島田晴雄

l. はじめに

島田塾では島田塾創設10周年記念事業として21世紀をリードする可能性が高いといわれるブラジル視察旅行を企画しましたので、皆様に御案内し、興味をもたれるメンバーの方々の御参加をお誘いしたいと思います。

ll. 日程

ブラジル視察旅行は基本的に下記の日程で実施したいと思います。

 2014年3月8日(土)東京発~3月16日(日)東京着

この日程は、皆様が経営業務でお忙しくなる年度末よりやや前で、また、カーニバルで極端に混雑する2月を避け、また大変な混雑が予想される2014サッカーWCの時期より前を選んでいます。

ブラジルは日本から見て地球の反対側にあり、とりわけ費用面でフライトの選択が重要になります。通常、単なる往復フライトより世界一周フライトの方がやや安価ですが、旅行会社と相談しつつ最良のフライトを選択するよう検討中です。

lll. 当面のプラン

今回のブラジル視察旅行では、最大の産業都市サンパウロ、旧首都でもある観光で有名なリオデジャネイロ、そして未来都市を体現する首都ブラジリアなどを訪ね、さまざまな観光とならんで、企業や産業施設の訪問、産業人や政策関係者との懇談、大学訪問とセミナーなどをしたいと思っています。

東山農場やサントス港のコーヒー積み出し施設なども見学候補ですが、5000mの深海油田開発で注目をあびるペトロブラス、ブラジルが世界に誇る鉄鋼山会社ヴァーレ、世界最大の中小型航空機製造メーカーエンブラエルなども可能な限り訪問したいと思いますし、国連ビル設計で有名なオスカー・ニーマイヤーの設計になる未来型首都ブラジリアを見学かつ角南先生の御紹介でブラジル産業開発機構のMauro Borges Lemos理事長も訪問したいと思います。産業人との懇談や大学での講演、セミナーなども企画したいと思います。同時に、リオのコルドーバの丘、コパカバーナ海岸、世界最大のマラカナン・サッカー場、近代美術館、サンバショー、サンパウロ市中心のカテドラル教会、大学都市、東洋人街(旧日本人街)と移民資料館なども訪ねたいと思います。

lV. なぜ今、ブラジルなのか

1. 21世紀をリードする国

 

ブラジルは10年前までは発展途上国、ここ10年ほどは新興国と見られてきましたが、ブラジルの発展は新興国の中でも突出しており、2011年にはとうとうイギリスを抜き、GDPでは世界6番目の経済大国になりました(ちなみにGDPではブラジル2.5兆ドル、英国2.4兆ドル)。もう10年もするとロシアを抜いて世界5番目の大国になる可能性が充分にあります。

近年のカルドーゾ、ルラ大統領などの熱心な活動によって国際的なプレゼンスと役割が際立っており、OECDなど先進国クラブにはいる実力は充分ながら敢えて入らずに、途上国のリーダーとして世界での発言力最大化をはかり環境政策でも世界をリードするという独特な国際戦略を展開しています。

 

経済的には、1980年代から1990年代前半まで、3桁ないし4桁というとてつもないインフレに翻弄されて巨大な政府債務を抱えて経済は大混乱しましたが、90年代後半からはインフレは4%台に抑え、2006年にはついに国際債務を脱却し債権国になるなど際立った政策展開を見せており、その経験と知恵は巨大な政府債務をかかえながらこれからインフレを志向する日本にとっても貴重な参考になります。

2. 日本との深い関係

もうひとつ、日本との深い関係がある。ブラジルには1908年、第一次移民船「笠戸丸」がサンパウロ、サントス港に781人の日本人移民を送っていらい、第二次大戦中の一時期を除いて、移民送致が連綿とつづき、彼らの子孫も蓄積して現在では約150万人の日系人が活躍しています。世界でも最多の日本人を受け入れてきた友邦国です。

日系人は真面目で勤労意欲が高く教育熱心であり、農業、コーヒー栽培、アマゾン開拓などで活躍し、その後は産業界の各方面で優れた人材としてブラジルの発展に貢献してきたと高い評価を得ています。良く言われる「ジャポネーズ・ガランチード(日本人は信頼できる)」という表現が象徴的です。ちなみにブラジル人口に占める日系人の割合は0.8%ですが、ブラジルの東大といわれるサンパウロ大学に学ぶ日系人は15%にも達します。

一方、1980年代以降、日本の労働力不足を埋める貴重な外国人労働力としてブラジルの日系人3世を日本が特別に受け入れてきたこともあり、一時は30万人(最近は20万人)もの日系人が日本の産業を支えてきています。日本で働く日系人はブラジルを代表する民間外交官でもあり、こうした人的交流は単に労働力という経済的な意味を超えて世界でも数少ない日本の友邦国との関係強化のために暖かく待遇すべきでしょう。

日本企業も早くからブラジルには活発に投資しており、三菱岩崎家の東山農場、マナウス保税特区のホンダのような投資事業も、ウジミナス(Usiminas)製鉄やセラード農業開発官民の協力事業も大きな成果をあげています。ブラジルは地理的には遠い国ですが、日本にとっては対日感情も良く経済的にも人的資源としてもまた国際政治上も戦略パートナーとしての重要性はますます高まると思われます。

2005年、ルーラ大統領指揮下のブラジルは日本、インド、ドイツと組んで、国連の安保常任理事国入りの運動を展開しましたが、貧困の中で育ったルーラ大統領が少年時代、はじめて仕事を得たのが、日系人のクリーニング店だった、というのも何かの縁かもしれません。

日本との関係で覚えていてよいことがあります。それは地デジの日本方式を世界ではじめてブラジルが採用してくれたことです。日本のワンセグ方式で携帯でサッカーが見れることが日本式採用の契機となったと言われますが、ブラジルは日本方式を協力して実現したいとし、半導体工場も誘致しました。この方式は現在、南米10カ国に普及していますが、ブラジルが端緒を開いてくれたことは記憶しておくべきでしょう。

3. ブラジルの大きな可能性と将来性そして楽しさ

ブラジルは現在、世界で6番目の経済大国ですが、近い将来にはロシアを抜いて世界をリードする5大国のひとつになる可能性が高いと思われます。サミュエル・ゼルというアメリカの著名な不動産投資家が「これからは投資の重点をアメリカからブラジルにする。増える人口、豊富なエネルギー資源、中間層の教育改善など、かつてのアメリカを見るようだ」と言ったとされますが、そうした大きな可能性をもった国です。

実際、欧米や日本など世界の産業界はブラジルに熱い視線を送っており、ブラジルへの世界企業の直接投資が加速しています。現在ブラジルで活躍している大企業のうち半数近くを外資系が占めるようになりました。たとえば大手上位では4~10位が外資系、100位まででは47社、500位までとると188社が外資系です。

たしかに日本の22倍というオーストラリアよりも広い国土に1.9億人の若い人口がおり、世界最大の鉄鋼山、巨大な埋蔵量をもつ海底油田、エタノール燃料といった資源だけでなく、世界最多の中小型航空機製造能力や深海5000mの掘削技術などに象徴される工業力、まだまだ未踏のアマゾンに生息する世界でもっとも多様な生物種など、限りない可能性を秘めた国です。ブラジルはアマゾン開発の弊害を最小にするべく近年、環境保全に力を注いでおり、1992年リオデジャネイロで110カ国参加の国連環境会議をはじめ画期的な環境政策も進めています。

そのうえ、多様性、開放性、包容力に富んだ文化、芸術を誇る情熱の国でもあります。これらの文化的、民族的多様性は、他の南米諸国にはあまり見られない特徴で、植民地時代にスペインではなくポルトガルを宗主国としていたことが影響している面もあると言われますが、その多様性と開放性は日本人をはじめ世界の多くの民族や人びとが活躍しやすい環境を提供しており、またそうした多様性があらたな創造性を育む土壌にもなっています。

2月にはリオを中心に各地でカーニバルが行われ国内はもとより世界中から数百万人もの観光客がつめかけ、サンバで踊りまくるお祭りを楽しみます。カーニバルはカトリック国では冬の復活祭の前の4旬節(40日)の禁欲期間のはじまる前日に肉を食べ、酒を飲んで、お祭り騒ぎをすることから始まったとされますが、2月が夏のブラジルは世界でもユニークなお祭りです。復活祭は陰暦にもとづくので、毎年日が変わります。ちなみに2009年は2月21~24日。2010年は2月13~16日でした。

一方、ブラジルの国技サッカーにかける国民の情熱はまさに命がけで、W杯で優勝を重ねて来たブラジルで来年は1950年以来、64年ぶりにW杯大会が開かれます。それだけでなく2016年には南半球ではじめてのオリンピックも開催されます。

そんなブラジルをいまのうちに見ておこう、と私達は企画を立てました。ブラジルはやはり遠いし、時間もかかるし、行こうと思ってもなかなか行けないところです。島田塾創設10周年を記念して、そんなところだからこの機会に、皆様と一緒に、見て、聴いて、食べて、肌で感じて、ブラジルをまるごと受け止めようと企画を立てて、御案内する次第です。是非、ふるって御申し込みください。

V. ブラジルの歴史とこれまでへの発展

1. ブラジルの発見と生い立ち

ブラジルを西洋人が発見したのは1500年4月、バスコ・ダ・ガマらが発見した喜望峰周りの航跡を辿る目的で出航したペドロ・アルバレス・カブラルが率いるポルトガル船団13隻の1隻が、強風に流されて西進しブラジル北東部に漂着したのがはじめ、というのが通説のようですが、このあたりは意図的な「漂流」ではなかったかなどいろいろ説があるようです。

実はその頃には、スペインとポルトガルが結んだ「トルデシリャス条約(1494年)で大西洋の分割線を決め、分割線の東はポルトガル領、西はスペイン領としてありました。これがポルトガルのブラジル領有に有利だったとされますが、同時に、ポルトガル人の発見者達は、新発見の土地には「パウブラジル(染色剤となる紅い木)」以外には何もないと喧伝したので、他国が領有への意欲をもたなかったとも言われます。ちなみに「ブラジル」の名称はこの木の名前が淵源になったそうです。

当時は、探検者達がその土地に足を踏み入れた実績がものを言った時代で、パンディランティス(奥地探検とインディオ奴隷狩り集団)やイエズス会の伝道師がブラジルのポルトガルの領土としての実効支配に貢献したようです。ブラジルのポルトガル領が確定するのは時代が下った1750年のスペインとの「マドリード条約」でした。ブラジルは国土があまりにひろいので、他の南米諸国のように反乱などがおきても全土にひろがらずに比較的平穏でした。中南米では1810年頃から各地で独立運動が活発になりスペイン領の各地では流血の闘いを経て独立する例が一般的でしたが、ブラジルはそうした闘いもなく1822年にポルトガルの副王領から帝政国家に移行する形で一応の独立を果たしました。

これはしかし宗主国から完全に分離はしないいわば「二重帝国」の形でした。ポルトガル国王はこの形を利用してナポレオンの圧迫を避けて、1808年にリオに逃れ、一時期、臨時政府を樹立しました。この二重型の帝政は結局、1889年までつづきましたが、1888年の奴隷制廃止を契機に軍部の無血クーデターで帝政は崩壊してプラジルは共和国になったのです。

この歴史的経緯はブラジルの今日までつづく二つの際立った特徴の背景になっているように思えます。ひとつはスペインとポルトガルの植民地での民族的融合への対応の違いです。スペイン人の統治者達が白人の純血にこだわったのとは違って、ポルトガル人はむしろ積極的に先住民や黒人と結婚し混血が進んだといわれます。その結果、ブラジルは白人、先住民、黒人などの混血が大変進み、世界でも民族的にもっとも多様な国になっています。これがブラジルの開放的で包容力のある民族性につながっているようです。日本人の移民が現地で受け入れられ活躍できたのもこうした社会的土壌が助けになったと言われます。

いまひとつは二重帝政の知恵からも判るように二者択一の闘いを避けてきた歴史は「戦争をしない」ブラジルをつくりあげる背景になっているようです。ブラジルは南米では最大最強の軍事力を持っていますが、国連への協力はしても戦争をしたことのない珍しい国です。これは現在のブラジルの国際的役割をささえるうえでも重要な特徴になっています。

2. ブラジルの発展と軍政の時代

ブラジルは20世紀に入るとコーヒー生産をはじめとする農業、そして工業でも目覚ましい発展を遂げます。1888年の奴隷制廃止を契機に人手不足で世界各国から大量の外国人移住者が流入しブラジルはますます他民族国家になりました。上述したように日本からの移民も1908年「笠戸丸」の第一陣につづいて陸続とブラジルに入植しました。サンパウロが南米最大の工業都市になったのもこの時期です。

 

1930年から1945年まで長期政権を維持したジェトウリオ・ヴァルガス大統領は資源輸出経済から脱却するべく加工品の国産に力をいれました。第二次大戦の惨禍を受けなかったブラジルには1950年代には世界各国から多くの投資が集中して、ブラジル経済は大活況を呈しました。私達が訪ねる予定にしている首都ブラジリアもそうした発展を背景にして計画され1960年に竣工しました。これを実行したのはジュセリーノ・クビチェッキ大統領でした。この首都は竣工してすでに53年経ちますが、いまでも未来の世界を想起させる超近代的理想都市の景観をしめしています。

ところがこの好調な拡張時代も長くはつづきませんでした。1950年代後半にクビチェッキ政権が進めたメタス計画(経済開発5カ年計画)や新首都ブラジリア建設は膨大は財政支出となって経済を圧迫し、それをまかなうための通貨増発がインフレを引き起して、経済は不況とインフレによるいわゆる”スタグフレーション”の重圧に喘ぐことになりました。国民は民主主義に翻弄される政権よりも独裁的な指導力で開発を進めかつ国家安全保障も確保する強力な政権を求めるようになりました。そんな雰囲気の中で、1964年3月31日未明、軍事クーデターが勃発し、それ以降21年もつづく軍政の時代がはじまったのです。

軍部は表に出ず安全保障の専念するのが普通ですが、この軍事政権は

アルゼンチンやチリの軍事政権とは違って、表向きは憲法も維持し国会も政党も認めるという形をとりながら実際には諜報機関、警察、また超法規措置などを総動員して産業から国民生活そして思想まで厳しく統制し管理しました。ただ、きびしい軍政によって治安が回復したことを好感した外資投資がふえ、日系企業も沢山直接投資を進めました。

軍政は経済政策立案にロベルト・カンボスら高名なエコノミストを企画庁の長官や幹部に迎えるなど専門家の能力を活用し、戦略的経済計画をテコに輸入代替工業化路線を進め、海洋油田開発、エタノール燃料、セラード農業開発、カラジャス鉄鉱山開発、世界最大のイタイプ水力発電所、マナウス保税加工区、5000kmアマゾン横断道路、鉄鉱石運搬の「鉄鋼鉄道」などを手がけました。こうした戦略も奏功してブラジル経済は年率10%超の高度成長を謳歌するようになり、世界から「ブラジルの奇跡」と注目されました。しかしこの絶好調も1973年のオイルショックを契機に暗転することになります。

3. 軍政の退出と民政移管

1973年の第一次そして1979年の第二次石油危機はブラジル経済に重大な影響を及ぼしました。アラブ産油諸国が石油の一時的禁輸措置をし、ついで価格の大幅な引き上げを強行したのです。ブラジルも当時は日本と同じようにアラブ産油国の石油供給に多くを依存していたので、インフレが加速しました。石油不足に対して、ブラジルでは海洋石油開発、エタノールの活用、大規模水力発電建設を急ぎ、また国際収支を圧迫していた生産材・資本財輸入に対して第二次開発計画でそれら資材の国産化に取り組みました。しかしこれらの効果が出る前に、ブラジルは財政赤字の累積と巨額な債務返済の重圧でインフレ対応力が極度に弱まってしまい、インフレと政府支出増の悪循環に陥りました。

1980年代に入るとインフレは年率100%にも加速し、82年にはIMFに支援要請しましたが、資金調達先のロンドンではユーロダラーの利率が20%にも高騰し、メキシコなど南米各国が債務返済不履行状態に陥り、1980年代前半の南米債務危機がひろがりました。ブラジルでは債務返済が不能になり国際信用が失墜する中で、1984年には民主化運動がはじまり、軍政指示派だった民族資本層も離反するようになりました。軍事政府は軍部主導で段階的な文民統制化をめざしましたが、民主化運動に力に押されて選挙をせざるをえなくなり、1985年3月にはついに民政移管に追い込まれたのです。民政移管は大統領を選挙するだけでなく、軍政に批判的だった野党への政権委譲でもありました。これによりブラジルの政治環境は大きく変わることになります。

 民政移管後、以下の3人の大統領がたてつづけに登場しました。

   ジョゼ・サルネイ(85.3~90.3)、

   フェルナンド・コロル(90.3~92.12)

   イタマル・フランコ(92.12~94.12)

しかし、彼らは就任の経緯も特異だっただけでなく、正当性にも問題がありました。サルネイ氏は当選したけれども病気で大統領に就任しなかったタンクレード・ネーヴェス氏の副大統領から昇格。コロル氏は最小州も政治家出身で空手黒帯。40歳の若さで民政移管最初の選挙で大統領になりました。若くて中央政治の汚れにまみれていないことが勝因とされましたが、汚職嫌疑で2年で辞任に追い込まれました。フランコ氏はコロル大統領の失脚を受けて、副大統領から昇格。このように民政移管後10年間は政治的にも混乱期でしたが、経済もインフレがさらに加速して危機が深まりました。

1980年代後半には、民政移管ブームで大衆バラマキ型社会政策が実施され、財政赤字が拡大しましたが、政府は通貨増発で対応したので、インフレがさらに加速するという悪循環が進行したのです。また、1960年代の軍政初期に最新の経済政策と謳われて導入された「インデクセーション」がインフレを加速した面も否めません。インデクセーションとは賃金、家賃、企業利益などをすべてインフレ調整する制度でインフレ対応をしやすくする政策と期待されましたが、過去のインフレが将来のインフレの下限を決めてしまう形になり、超インフレを促進する結果になりました。90年代前半にはインフレは3桁(物価が年に数倍になる)からとうとう4桁(10倍以上になる)にまで昂進しました。1986年から1994年までお札の1/1000のデノミが4回も行われたことはこの超インフレがいかに激しかったかを物語ります。

この頃、ブラジルの人びとは生活防衛のために、給料をもらうと直ちに食料品店に行って給料すべてをはたいて食糧を買いだめたそうです。なぜなら一ヶ月も経つと物価が2倍にもなってしまうからです。一方、中南米各国は債務危機に呻吟しました。その背景には過度なオイルマネーの借り入れとアメリカの高金利政策がありました。大量の借金の金利が膨らむので返済ができなくなったのです。この問題を一段落させたのは1993年末のブレディプランでした。アメリカのブレディ財務長官が債務国に対して元本削減、金利減免、債務証券化を約束したのです。

4. 超インフレの克服

世界史上最悪とも言えるブラジルの超インフレはしかし1990年代の後半にはいるとまるでうそのように沈静化しました。フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領(第一期:1995.1~1998.12、第二期:1999.1~2002.12)の天才的な経済戦略によってさしも荒れ狂って加速しつづけた超インフレが奇跡のように収束したのです。

カルドーゾ氏は、イタマル・フランコ大統領時代の1993年に外相から蔵相に転任するや、1994年に新通貨を発行する「レアルプラン」を導入。そして同年秋、大統領選に出馬して勝利。こんどは大統領として「レアルプラン」を実行し浸透させました。それは米国ドルと等価のURVという新しいインデックス通貨を導入し第二通貨として国中に浸透させるというものです。中央銀行は毎日、主通貨クルゼイロレアルとの比を発表してURVになじみと安心をもたせるようにしましたが、こんどは94年7月1日、旧通貨を廃止し、直ちにURVと等価の「レアル」を発行しました。

その結果、旧通貨で起きていた超インフレ期待は旧通貨の廃止とともに陽炎のように消えました。同時に諸物価のインフレスライド(インデクセーション)も廃止してインフレ心理を払拭しました。国民の間にはURVすなわち新しい「レアル」はドルと同じで安心という心理が芽生えてきたのです。超インフレ期待の消滅とともに中央銀行は新たなインフレ目標をかかげました。1999年には8%に抑え、2006年~2008年には4.5%にまで下げました。この値は最近に至るまでつづいており10年以上も荒れ狂ってブラジル経済を混乱させて超インフレはカルドーゾ大統領の水際だった経済戦略で見事に沈静化したのです。

1990年代は途上国の国営企業の民営化、貿易自由化、世界証券投資ブームが進行し、リスクマネーが途上国に過剰に流入して大きな混乱を巻き起こした時期でした。1997年にはアジア通貨危機をきっかけにブラジルから資金が流出。1999年にはまたも通貨危機が勃発してブラジルのレアルも大幅安になるなど激動が繰り返されました。しかしカルドーゾ大統領の卓抜した経済戦略で安定化したブラジル経済は急速な成長を実現し、世界からいわゆるBRICsの一角として注目されるようになりました。そして2005年12月にはIMF債務を全額繰り上げ返済。2006年4月には、ブレィディ債を前倒しで償還。ブラジルはとうとう重債務国からむしろ債権国へ夢の大変身を遂げたのです。

ブラジルにこのような夢の大転換をもたらしたカルドーゾという大統領はいったいどのような人物なのでしょうか。カルドーゾ氏は1931年リオの裕福な家庭に生まれました。秀才の誉れ高く、52年にブラジルの東大、サンパウロ大学社会学部卒業、61年同大学博士。直後、パリ大学留学。63年母校の教授に。64年軍事クーデターでカステロ・ブランコ将軍の軍事政権が発足しましたが、カルドーゾ氏はマルクス主義者=危険人物として拘束されるおそれを感じ、チリにあるサンティアゴCEPAL(国連ラテンアメリカ、カリブ経済委員会)に駆込みました。その自由な空気の中で、アンドレ・グンダー・フランク教授に出会い、「従属理論」の研究に没頭。これはたしかに亡命ではありますが、南米のエリートによくあるいわば形を変えた留学というべきかもしれません。70年代にフラジルに戻り、ケンブリッジ大、スタンフォード大でも客員教授をつとめました。同氏の研究書『ラテンアメリカにおける従属と発展』は不朽の名著と言われます。81年、選挙に出て上院議員当選、92年外相、93年蔵相、そして94年10月に大統領に就任したわけです。

5. 新しいブラジルへの飛躍

2003年1月、イナシオ・ルーラ氏が激しい選挙戦を経て、カルドーゾ前大統領の後をうけて大統領になりました。ルーラ大統領は2期を全うして2010年12月に後任のジルマ・ルセフ氏に大統領を譲りましたが、大統領退任時になお国民の80%以上の支持を受けていたというブラジル政治史上、希有な大統領でした。

ルーラ大統領の時代に、ブラジルの世界におけるプレゼンスは飛躍的に高まります。それは好調な経済で役割が拡大したこととならんでルーラ大統領のユニークな国際戦略とめざましい国際活動によるところも大きいと言えます。ルーラ大統領政権の第二期に勃発したリーマンショックは世界経済に甚大な衝撃を与えました。当然、ブラジルもその影響を受けましたが、以前のブラジルとは様変わりに、迅速かつ効果的な政策対応でその影響を最小限にとどめブラジル経済の健全性と強靭さを世界に誇示したのです。ルーラ政権は直ちに市場への大量な資金注入を行い、企業の対外外貨借り入れの肩代わり、税制面の支援、金利引き下げ、開発銀行の特別融資、低所得者向け住宅建設などの施策を矢継ぎ早に敢行し、ショックの影響を軽微に抑えてV字型回復の地ならしをしたのです。リーマンショックにつづく3回の金融サミット(2008ワシントン、2009ロンドン、2010ピッツバーグ)ではブラジルは名実ともに登り龍の新興国として脚光を浴びました。ロンドンサミットではオバマ大統領がルーラ氏を「世界でもっとも人気のある政治家」ともちあげたほどです。

ルーラ大統領は世界中を飛び回り、ブラジルの新たなグローバルな役割を訴え存在感を高めました。2009年にはロシアで初のBRICs首脳会合に出席。2009年10月にはIOCが2016年オリンピック開催地にリオデジャネイロを指定。2014年サッカーW杯開催地。国連平和維持協力でもカリブ海ハイチに陸海空三軍陸海空三軍将兵延べ1.5万人駐留。一方、先進国クラブといわれるOECDに入る実力は充分にありながら「発展途上国」の立場堅持としてOECD入りは慎重。途上国の盟主としての地位を最大限に活用するユニークな戦略が伺われます。前任者のカルドーゾ大統領は在任8年間で延べ115カ国を訪問し、対先進国外交や多国間協議に積極的に参加しましたが、ルーラ大統領は268カ国(在任前の4カ国含む)を訪問、とりわけアフリカ、中東、アジアの途上国外交に注力しました。日本との関係では2005年、インド、ドイツとG4を結成し、国連安保常任理事国入りの運動を展開しましたが、これは米国等の反対で採決されなかったことは記憶に新しいところです。

ルーラ大統領にはアメリカに強い大統領という評価があります。それは彼独特のバランスのとれた外交のさじ加減によるのでしょう。途上国の希望の星の役割を演じています。中国の成長は見事ですが、アメリカは中国の一党独裁を評価していません。それにくらべるとブラジルは民主主義が定着した国で、中国と違い、軍事拡張もしない。アメリカから見れば大いに評価したい国ですが、そのアメリカと一定の距離感をたもつさじ加減が卓抜しています。たとえば、2003年メキシコ・カンクンWTO会議では、ブラジルが途上国の利益代表として農業分野自由化枠組みに抵抗し、「途上国」のボスとしての存在感を高めました。中南米のメルコスール(自由貿易圏)は経済から政治勢力へ発展していく可能性がありますが、ブラジルは明らかに新興国を中心としたそうした途上国連合で主導権を取る企図がありそうです。そうしたことができるのも、EUとの貿易関係を深めているブラジルはアメリカとの距離が開いてもやってゆける自信があるからでしょう。

ルーラ大統領はブラジルの歴史でははじめての学歴のない庶民階層出身の大統領です。それまでの大統領は、大学あるいは士官学校を卒業し、貴族階層出身などのエリートがほとんどでした。ルーラ氏は貧しくて小学校もまともに卒業できませんでした。貧しさの象徴のようなノルデスチ(北東部)出身。父は酒と暴力と女の典型的ダメおやじ。ルーラ氏は職業訓練を経て旋盤工になりましたが、事故で左の小指を失うという不幸、そして結婚しても妻が死産の末に死亡するという悲劇に見舞われました。そこで家族を忘れるように組合活動に傾倒する中で今のマリザ夫人と再婚したのです。大統領の座は4度目の挑戦で手に入れました。

当選後、組合時代の過激思想は封印し、穏健な中道派に進化しました。かつての同志には彼を裏切り者と酷評するものもいましたが、敵視していたIMFと協調路線に転じて、国際社会の信用を得るという柔軟性の持ち主。大統領となったルーラ氏は左翼思想を「フォミ・ゼロ」(飢餓撲滅)とボルサ・ファミリア(家族手当)という違った形で実現。ボルサ・ファミリアのコストはたかだかGDPの0.7%。それで2000万人を貧困から脱出させた、さらに最低賃金を引き上げたことで中間層を拡大し、それが内需を牽引してブラジルの成長を支える原動力となったと評価されています。ブラジル史上はじめての学歴のない庶民大統領はかくて国民の圧倒的人気を得、任期の最後まで80%の支持率を維持したのです。それだけの支持があればベネズエラのチャベス大統領のように3選へルール変更もできたはずですが、しっかり2期で職を辞したのはルーラ氏の賢明さでしょう。

ルーラ大統領が後を託したのは、ブラジル初の女性大統領、ジルマ・ルセフ女史です。ジルマの愛称で親しまれるルセフ大統領は、1947年ブルガリア人の父、ブラジル人の母の間で生まれました。父と14歳で死別。大学時代、軍政に反対し左翼ゲリラ活動に投身。逮捕、拷問、国家反逆罪で3年投獄も。「鉄の女」の異名も。ルーラの労働党入党。03年、ルーラ政権の鉱業・エネルギー大臣。後に官房長官に抜擢。当時、硬くて冷たい印象の政治家でしたが、ルーラの絶大な信頼があり、その後、大きく笑顔の魅力的はソフトなリーダーへとイメージチェンジをしました。ジルマは政治家としてたしかな実績があります。たとえば、2010年「PAC2(成長加速プログラム)」は彼女がまとめたとされます。PAC2では2011年から4年間で9600億Rのインフラ開発投資をエネルギー、鉄道、住宅分野で行う大計画。また深海油田プレサル開発を進める一方、中産階級所得増による内需拡大という双発のエンジンで操縦するバランス感覚。また、外交面では、ルーラ政権と同様に、先進国と途上国の顔を使い分けるブラジル流両天秤外交を推進。G20で存在感を示しながらUNASUR(南米諸国連合)、 IBSA(新興国連合)ASA (南米・アフリカ首脳会議)、ASPA(南米・アラブ諸国首脳会議)との関係強化に注力すると言ったルーラ大統領の方向感覚を継承しています。

ルーラ政権もまたルセフ政権もさらに言うならカルドーゾ政権も、1964年から21年つづいた軍政批判という意味では共通しており、また家族手当や最低賃金、そして教育普及といった社会政策的な方策で社会の所得底上げをはかりそれを経済成長につなげるという戦略でも共通性があります。そこで以下、これらの政策についてやや詳しく紹介しましょう。カルドーゾ政権は「アルポラーダ(夜明け計画)」で社会排除の構造に本格的にメスを入れようとしましたし、ルーラ政権は「貧困ゼロ計画」そしてルセフ政権は「極貧の撲滅計画」でさらに積極対策を推進しようとしています。

家族支援政策は上述のように、”ボルサ・ファミリア”と通称されますが、これは条件付き現金給付制度であり、一定所得以下の貧困世帯に、就学、妊婦健診、予防接種、栄養状況の保健チェックなどを受けることを条件に、生活費を補助する社会扶助政策です。カルドーゾ政権は第一期の1997年、児童労働根絶のためにこれを導入しました。2001~02年にはボルサ・エスコーラ(就学支援)や栄養支援やガス補助など実施しました。ルーラ政権はこれらを総合化し、対象を拡大して2009年には1200万世帯に給付を行いました。ルセフ政権ではさらに1300万世帯に拡大。南米では群を抜く規模になっています。こうした政策の効果もあり、ブラジルの貧困人口は2001年の5800万人(人口比 35%)から2009年には3900万人(21%)に減少しました。

一方、最低賃金の引き上げについては、ルーラ大統領は2002年に最低賃金を月200レアルから毎年引き上げて2010年には月510レアルつまり2.55倍にしました。ルセフ大統領はさらに2012にこれを622レアルに引き上げています。こうした貧困との闘いは3政権に共通しており、それは中間層を拡大させ経済成長の底支えの役割を果たしていると評価されています。同時に、ブラジルは教育の高度化と普及に力を入れており、21世紀最初には304万人だった大学生が2010年には638万人に増加しています。これも経済成長を支える重要な基盤になります。

Vl. ブラジルの誇る産業・企業

ブラジルには優れた産業や企業がさまざまな分野で活動しています。私達のブラジル視察旅行では、これらにうち時間的、地理的に可能なものについてはできるだけ訪問したり、直接訪問できなくても関係者の話を聞いたりして今のブラジルについて学び、将来の可能性について考えたいと思います。以下、それらの主な例について予備的に理解しておくことにしましょう。

1. ペトロブラス

ペトロブラスはブラジルを代表し、かつまた世界でも有数の大規模は石油開発・供給の国営企業です。リオの中心点にあるカテドラルの横にペトロブラス本社の前衛的な建物があります。今、ペトロブラス社は世界の注目を集めていますが、それは2010年9月、人類史上最大とされる1200億レアル(5.9兆円)の増資を水面下5000mの大規模油田「プレサル」を開発するために敢行したことです。

 

ブラジルは1970年代の石油危機で、当時石油輸入大国であった経済は深刻な打撃を受けました。原油高騰の結果、上述したように累積債務危機にすら陥ったのです。陸上では北部の一部にわずかな油田があるのみでした。1975年には政府は「国家アルコール計画」で再生可能なサトウキビからバイオエタノールを抽出しようという国家プロジェクトを起こしました。そしてブラジルを輸入原油依存の構造から脱却するために国家の存亡をかけて海底油田開発に挑んだのです。その結果、とうとう水面下5000,という世界最深の油田開発に成功し、2020年には、原油と天然ガスの生産を日量538万バレル(プレサル分は108万バレル)にすべく開発事業を進めています。

一方、日本との関係では、ペトロブラスの社長をその発展のとりわけ重要な1979年から1984年までの時期に担われた日系ブラジル人、Shigeaki Ueki氏の存在を欠かすことはできません。Ueki氏はP社の社長として同社の発展のみならずブラジルの発展そのものに大きく貢献した名経営者としてブラジル社会では高く評価されている人物で、もし可能であれば是非、同氏に面会して懇談の機会が持てればと思います。同氏は現在77歳、ブラジル経済界の重鎮として尊敬を集めておられます。また、2010年に、P社は日本の「沖縄南西石油」の全株を取得し、ブラジルの石油を需要が急増しているアジアに供給する拠点にしようとの布石も打っており、そうした戦略も興味を惹くところです。

2. エンブラエル

エンブラエル社はブラジルの誇る航空機メーカー。中小型機ではカナダのボンバルディアを凌ぐ世界一のシェアを持っています。ちなみに2010年時点で、確定した受注は、エンブラエル社1840機、ボンバルディア社が1766機でした。同社はポルトガル、米国、フランスなどに生産・販売拠点を持ち、ニューヨーク証券取引所に上場しています。ERJ 170、  ERJ190(100席前後)はとくに同社が得意とする中小型旅客機のベストセラーです。

エンブラエル社は1969年国有企業として設立されました。米国などから技術導入をして航空機の製造を進めていましたが、1994年に民営化して、抜本的な経営改革を断行して急速に発展しました。経営刷新を行ったクラド社長の経営手腕とならんで、ハイテク技術生産に日系人が大きく貢献したといわれます。従業員2万人のうち日系人は1000人を占め、とくに川崎重工がERJの主翼部製造するなど、日本企業が品質向上に寄与した部分も大きいとされます。

エンブラエル社はサンパウロから片道2時間ほど離れたところに本社と工場がありますが、旅程上、可能であれば是非、訪ねてみたい企業です。

3. 東山農場

1927年、岩崎当主、岩崎久弥が、3700haの土地を購入して東山農場を創設しました。ちなみに「東山農場」の東山は三菱創業者、岩崎弥太郎の雅名。岩崎家は三菱Gの経営とは別に、東山事業として農林畜産事業を日本をはじめ世界各地に展開してきましたが、敗戦でほとんどが失われ、日本の小岩井農場とブラジルの東山農場が残るのみとなりました。東山農場では120万本のコーヒー樹栽培、年間3~400トンの精選コーヒーを生産しており、100万人都市カンビーナスからわずか12kmの本格農場として小中学生や観光客の見学も受け入れています。2005年放映のNHK、TVドラマ「ハルとナツ」の撮影にも協力し、その時に使った建物や道具類なども残っています。 カンビーナス市はサンパウロから120kmほど離れていますが、旅程の一環として是非、訪れたいところです。

4. ヴァーレ社(カラジャス鉱山)

アマゾン河口ベレンから南方550kmあたりの地点にUSスチール社の航空調査で森林の中に大きな空き地が広がっていることが確認されたのがこの鉱山が発見された端緒です。その後、本格調査で埋蔵量世界一の鉄鉱山であることがわかりました。しかも露天掘りが可能な大鉱山でした。1973年の石油ショックで経営難に陥ったUSスティール社からブラジルのリオドセ社(現ヴァーレ社)が事業を継承。ヴァーレ社は今、英蘭リオ・ティント、BHPピリトンとならんで世界の3大鉄鋼メジャーとなっています。

1985年、カラジャスから大西洋岸ポンタ・ダ・マディラ港まで900kmの鉄道が完成され、鉄鋼生産が本格化しました。2009年には生産高は8500万トンに達しました。三井物産が株式の15%取得を取得しており、ブラジル鉄鋼資源の可能性に賭けています。最近、鉄鋼鉄道のうち600km複線化して、鉄鋼生産にさらに拍車がかかっています。

5. ウジミナス製鉄所

1958年1月、日本とブラジルの合弁で、イパチンガ鉱山の鉄鉱石を製鉄する目的で設立されました。新日鉄の全面的な技術協力で1962年10月に高炉の創業が開始されました。1991年に民営化され、サンパウロ州の鉄鋼メーカー・ゴシッパを買収、1999年6月には新日鉄と合弁で自動車用亜鉛メッキ鋼板メーカー・UNIGALをするなど発展をつづけています。

6. マナウス保税加工区

アマゾン河口から1500kmの奥地、かつての密林の小村が今、200万人大都市に発展しています。マナウス地区です。17世紀欧州各国がアマゾン地域争奪戦をした際に、ポルトガルがこの地に要塞を建して基礎を築きました。19世紀はじめポルトガル王室がナポレオンの攻撃から逃れリオに避難した際、ポルトガルの要請で英国艦隊が王室を護衛しましたが、ポルトガルはマナウス開発でも英国の力借り、とりわけ道路、下水道、電気などインフラ整備に英国の支援を得て発展しました。

1880s~1915頃、この地帯は第一次ゴム景気に湧きましたが、その後、英国人がゴムの種子をマレーシアに持ち出してしまったため、ブラジルでのゴム景気はすたれました。太平洋戦時には、米国のゴム投資が行われてゴム生産が活況を呈しましたが、戦時の特需で終わりました。

1967年、この地にマナウスフリーゾーン(保税加工区)が創設されました。当時、工業製品の輸入関税が異常に高く、フリーゾーンは魅力的でした。製品価格が域外より3割も安いので、加工区の産品にはブラジルのみならず多くの国々からも需要があり、フリーゾーンには400社ほどが進出しています。フリーゾーンは2023年までという期間限定措置でしたが、同区の税制恩典は2011年10月にあと半世紀間延長され2073年まで、また区域もマナウス全域に適用拡大されることになりました。日本企業も37社進出しており、シャープ、ヤマハ、ホンダなどの活躍が目立ちます。とりわけホンダ(モトホンダ・ダ・アマゾニア)は7500人雇用しており、2007年にはバイク生産が累計で1000万台を超えました。

ちなみに、トヨタはブラジルにはもっとも早く進出した企業のひとつで1958年に工場進出しています。その後の発展は緩やかで、現在はフォードなど米欧系自動車メーカーの後塵を拝していますが、2010年頃からサンパウロ州ソロカバに自動車組み立て工場を建設し、年産7万台をめざすなどこれからが期待されます。

7. セラード開発

これは日本とブラジルの協力による農業開発の成功例として現地で高く評価されているプロジェクトです。アマゾン地域の未開墾地に田中角栄首相の肝いりで日本とブラジルが協力して(投資額はブラジル49%、日本51%)1979年から2001年までの22年間に渡って開墾事業(セラード開発協力事業)をつづけ、21ヶ所の入植地を造成し、34.5万haの開墾を達成し、大豆などの生産に大きく貢献しています。

8. イタイプ水力発電所

1975年工事開始、85年完成。発電量1400万kw(中国三峡1800万kwに次ぐ

堤防総延長8km、ダム高さ最大200m。ちなみに水力発電量は:1位中国、2位カナダ、3位ブラジルですが、水力発電の送電力に占める比率ではブラジルは84%で一位のノルウェー98%に次いで世界二位です。

9. 東北ブラジルへの投資

ブラジルの東北地方はこれまで長い間、発展から取り残されてきましたが、近年、人件費の安い東北地方に企業進出が相次いでおり、ブラジルの新しい発展の

核になる可能性が見えてきました。バィーア州カマサリ工業地域に進出したフォード社は象徴的ですが、2009年には20万台を売り上げ、地元の雇用創出にも大きく貢献しています。ペルナンブーコ州スアッペ港湾工業団地には石油化学、造船、製鉄、風力発電用タービン、食品、飲料メーカーなど100社が進出。東北の消費者需要の増大に着目して大手スーパーの進出もつづいておりブラジルのさらなる発展の

大きな可能性を示唆しています。

Vll. ブラジルの都市の魅力

1. サンパウロ

サンパウロはブラジル最大の産業都市。1554年1月15日、イエズス会の僧侶が学校と礼拝堂を建てて落成ミサを行いましたが、その学校がコレジオ・デ・サン・パウロという名称でこれがサンパウロ市名の淵源となったといわれています。

 

1830年頃からコーヒー生産が活発化し、サントス港へのコーヒー送り出し基地としてサンパウロは大いに発展しました。1888年奴隷制廃止により人手不足で外国人移住者急増が急増して多様性のある国際色豊かな都市に成長し、1920頃には南米第一の工業都市になりました。

以下、サンパウロの見所を紹介しましょう。私達の旅ではこれらのうちから行程上、適切なところを選んで見学することになると思います。

1)カテドラル教会:

 8000人収容ゴシック様式大教会でサンパウロの中心にあり、街の通りの番地はここからはじまります。番地の若い方向にあるいてゆくとカテドラル教会に行き着くというわけです。

2)大学都市:

 サンパウロ州立大学で、1934創立、学生数34000人、教授陣3000人 40もの学部・学科があります。

3)サンパウロ美術館:

 ブラジルや世界の優れたアーティストの作品のコレクションで有名。

4)サッカー競技場(Estadio de Futebol)

5)東洋人街、東洋市(Bairo Oriental, Feira Oriental)

 ここは昔、日本人街と言われました。最近は韓国、中国人も多いので東洋人街といわれます。この中心部に「日本文化福祉協会」があり、日本人移住70年祭(1978)、80年祭(1988)、90年祭(1998)、100年祭の行事も行われました。また、「ブラジル日本移民史料館」には1908年、第一回移民船「笠戸丸」以来の資料が展示されています。私達にとって必見の場所です。

2. リオデジャネイロ

リオ州の州都で人口は632万人。ポルトガル系のラテン系、黒人奴隷の子孫、先住民インディオの混血が7割を占めます。1808年、ポルトガル王朝がナポレオン勢力に追われてリオに逃れ、ここで暫定政府を樹立した歴史があります。1822年のブラジル独立から1960年の遷都まで、リオは138年間ブラジルの首都でした。リオの見所を紹介しましょう。

1)コルドーバの丘(Corcovado)

710mの岩山。頂上には観光シンボル、キリスト像。高さは38m(台座含む)1924年起工(独立100周年記念)1931年完成。

2)コパカバーナ海岸(Praia de Copachabana)

 隣接レーメ海岸と合わせ4.3km。青い海、白く広い砂浜、緑の街路樹、

モザイク模様の歩道、白いアパートホテル群など、ブラジルを代表する観光地。花火も有名。ビーチをことのほか愛するブラジル人にとっては特別な場所。ただ、夜の浜辺や周辺はブラジルで悪名高い犯罪に巻込まれるリスクが高いので外出は手控えた方が良いようです。

3)マラカナン・サッカー場(Estadio Jornalista Mario Filho /Maracana)

 1950年ブラジル、ワールドカップで建設されました。世界最大のサッカー場。1950年のW杯試合では、20万人が詰めかけ立錐の余地もないほどだったと言われます。おそらくその大半はチケットなしで、参入したファンではなかったかとされます。現在の収容定員は8.5万人。昂奮したファンとのトラブルに巻込まれないためにはチケットは特等席が安全。試合のない日の見学入場も可。20~30レアル程度。

4)リオ近代美術館

 ブラジル代表する画家 ポルチナーリ・ジ・カヴァルカンチや日系のマベ・マナブはじめ世界の名作が所蔵されていることで有名。

5)サンバショー

 室内サンバショーを見せてくれるクラブとしてプラッタフォルマ・ウン(Plataforma 1)やエスカーラ(Scala)などがあります。私達は2月のリオのカーニバルの後でリオを訪ねるので、街路でのサンバ騒ぎは見れませんが、室内サンバショーを見るのは良いかもしれません。

3. ブラジリア

ジュセリーノ・クビチェッキ大統領が1960年4月に遷都して出来たブラジルの新首都。高度1200~1300mの高原にある未来志向の首都です。ブラジリアの人口は20万人ですが、連邦区は260万人。

都市計画はコンペで選抜されたブラジル人設計家達によって作成されました。とりわけ、ルシオ・コスタの都市計画、オスカー・ニーマイヤーの斬新な建築が今でも世界の建築界の注目を集めています。オスカー・ニーマイヤーはニューヨークの国連ビルを設計して一躍世界的な建築デザイナーとして有名になったブラジルの生んだ奇才ですが、彼の作品の多くは美しい曲線、曲面を見事に生かしていることが特徴になっています。彼はその心境を「自由で官能的な曲線に惹かれる。故郷の山々や川の流れ、海の波、そして愛する女の身体に見いだす」まさにブラジルダンディズムの真骨頂ですね。

街は十字型に交差した2つの巨大な軸からなり、上空から見れば大きな飛行機型になります。その胴体部分はモニュメンタル通りで、延長9.7km、片側6車線。翼部分はエイショ大通りで、14.3kmに延び、機首部分から国会、最高裁判所、大統領府に囲まれた三権広場、官庁街などが設置され、都市周辺には衛星都市群が展開し、人口の適正分布をはかられています。

4. 安全な旅への心得

ブラジルは限りない魅力に富んだところですが、ひとつの難点は街の治安が悪いことです。強盗、置き引き、スリなどは日常茶飯と言われます。貧困と富の格差が大きいことが背景とされますが、スラム街がリオでは1000ヶ所もあり、スラム街(ファベーラ)では拳銃、麻薬が満延しています。そこで、そうした事情も知りつつブラジルの旅を安全に楽しむために、最後に心得るべき点を記しておきしょう。

 ー荷物から目を離さない(一瞬でも置き引きのおそれ)。

 ー肩掛けバッグは身体の前でかかえる(肩掛けで引き倒される危険も)。

 ー現金は小分けにして持つ。

 ー不要な現金、パスポートなど貴重品は持ち歩かない。

 ー違法タクシーに注意(空港内料金前払い制タクシーチケット売り場)。

 ー人から荷物など預からない。薬物のおそれ。

 ーカメラは周囲に不審者が居ないか確認して素早く撮影。あとはしまう。

 ー襲われたら抵抗せず。いうとおりにして金を渡す。

 ー強盗はこちらも武器をもっていると想定。抵抗やポケットに手を入れない。

 ー赤信号で止まるな。止まると襲われる。

 ーハイウェイでタイヤを銃で撃たれても止まるな。

 だいぶ物騒なことを書きましたが、私達が現地の方々の注意を充分に聞き、身辺に充分気をつけていれば安全な旅は楽しめるとおもいます。大いに楽しみましょう。

人民日報への寄稿

9月5日からのサンクトペテルブルクでのG20に、中国の習近平主席が出席をしていますが、それに際して人民日報 劉軍国記者から、事前にコメントを求められたので、以下のような文章を書きました。何らかの御参考になればと思ってここに掲示ます。

「習近平主席が170年前のアヘン戦争以来の苦難と苦闘の歴史を乗り越えて、本来の中国民族の国をつくるという「中国の夢」を唱えることは理解出来るし、また、これまでの拡大・成長一辺倒の中で生まれた政治・経済・社会的ゆがみの是正に注力するのは結構なことだ。同時に、世界の超大国として国際社会に安心と安定をもたらし、諸国民に歓迎される指導力を発揮すべきだ。日中関係は、両国のみならずアジアと世界の平和と発展のために最も重要な関係であり、尖閣列島問題は、後世の人々の知恵に委ね、習近平主席は両国の利益となる戦略的互恵協力の関係を再構築する努力をすべきだ。
千葉商科大学 学長 島田晴雄」

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